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雑誌目次

論文

精神医学1巻8号

1959年08月発行

雑誌目次

展望

精神鑑定の理論と実際(2)

著者: 林暲

ページ範囲:P.525 - P.536

Ⅱ.精神鑑定の実際
1.まえがき
 前編で述べたように,精神鑑定はまず器質的,機能的精神障害,内因性精神病の存在を確認し,またはこれを除外するところからはじまる。これは刑法における責任能力についての解釈,あるいは規定が,"心神の障害により"あるいは,"意識の障害,精神作用の病的の障害,精神の薄弱のために"というように,いわゆる生物学的の要件をかかげているからである。そして狭義の精神病というべき状態が確認されたならば,原則的に責任無能力ということになる。それは,責任能力の本質ともいうべきいわゆる心理的の要件,すなわち事理の弁別とか,その行為の許されざることについての了知,それにしたがつて行動する能力について通常の心理過程があてはまらなくなるからである。鑑定命令は,裁判官がこういう異常な精神状態が存在するのではないか,あるいは行為の時に存在したのではないかという疑いをもつときに下されるのが原則であるが,実際にはそれほどの疑いのないときも少くない。被告の家系に何人かの精神病者があるというようなことから,弁護人が最後的の手段として鑑定を申請し,それが採択されることもあるし,また時には死刑に該当する罪である,あるいは前審で死刑の判決があつたから二審では念のためにというようなことで鑑定になることもある。こういう時には,一応簡単に狭義の精神病を否定して,さらに相当くわしく,情状というべき問題にふれなければならぬこともある。この場合も精神科専門医としての立場を厳格に守つて記述するのはもちろんである。
 鑑定事項としせ示される条項は,通常"被告人の現在および犯行時の精神状態いかん"という形である。われわれとしては,むしろ犯行以前の状態の方が問題であるが,これは鑑定の手段として,既往歴,生活史,現病歴を検討しなければならぬのは当然であり,それから犯行時および現在の状態に論及することになるのであるから,この鑑定事項に拘泥する必要はない。その他それぞれ事件の内容により特殊な事項が示されることもある。時に弁護人の希望として,自分の方の都合からわれわれの立場として答えようもないような事項をごたごたと並べられることもあるが,それは受命の時に裁判長に申し出て,適当に整理してもらうよりしかたがない。また今でも時に,心神喪失の状態にありしや,または心神耗弱の状態にありやというようなことをいわれることもあるが,これは責任能力の本質からみても,裁判官として不見識な話で,われわれとしても困る。実際上こちらの立場で,鑑定書のおわりの方の所見の綜合,説明,判断といつた項で責任能力についてひかえ目な意見を述べる必要のあることもある。しかし最後の鑑定主文というべき,鑑定事項に対する結論的答申の中では,直接責任能力の判断については記さない方がよい。

研究と報告

文字新作について—日本文字の場合の特色

著者: 井村恒郎 ,   野上芳美 ,   林英三郎 ,   松岡緑

ページ範囲:P.537 - P.543

Ⅰ.まえがき
 インド・ヨーロッパ語族にぞくする欧米各国の言語は,いちように表音文字をつかつているが,日本語では表音文字であるカナと同時に,表意文字である漢字を併用している。漢字は,表意文字として発達してきた関係から,その字数ははなはだ多く,そのおのおのが千差万別の複雑な字形をそなえている。
 日本における文字の性格と慣習は,欧米の場合と比較して,まだいくらも相違点があるが,以上の一点からみただけでも,日本の精神病者にみられる文字新作が,欧米の患者のそれとはちがつたあらわれ方をすることが予想される。

Chlorpromazineの特異な副作用—皮下出血斑について

著者: 岩佐金次郎 ,   岡田万之助 ,   伊沢正義 ,   原常勝 ,   山田治

ページ範囲:P.545 - P.549

Ⅰ.緒言
 Chlorpromazineの副作用についてはすでに多数の詳細な報告,研究1)2)があるが,皮下出血斑の記載はみられない。しかしChlorpromazineによると思われる死亡例に,諸臓器の充血,出血像が著しかつたとの報告3)4)5)があり,最近われわれが経験した皮下出血も,単にそれだけのものとして看過し得ないもののあることを考え,一応前述のような重篤な副作用との関連を念頭において注意し観察した。

小児分裂病の爪床部毛細血管像

著者: 小西輝夫

ページ範囲:P.551 - P.555

Ⅰ.序言
 幼児や小児にも精神分裂病様症状がみられることは,De Sanctisの最早発性痴呆Dementia praecocisslma(1905〜1908)の記載によつて知られているが,これが果して成人における分裂病と同一のものであつたかどうかは疑問である。その後Leo Kannerは,小児に著明な自閉症状が生じ,急速に人格崩壊をきたす1群の精神疾患について報告(1943)し,これを小児自閉症early infantile autismと名づけたが,その後本邦でも,当教室の黒丸が1954年に本症例を報告(第51回日本精神神経学会)し,以来本症に対する関心がとみに高まつている。本症については現在はまだ症状記載の段階といつてもよく,今後にまつべき研究の課題が数多くあるものと思われるが,私は本症を含む小児分裂病者の爪床部毛細血管像の生体顕微鏡的観察を試み,若干の所見を得た。

神経症症状を伴つた同性愛の症例

著者: 布施邦之

ページ範囲:P.557 - P.561

 同性愛者が同性愛のみを主訴として医師を訪れることはほとんどないといわれている。それは若干の苛責を覚えながらも,倒錯行為を享楽し,グループを形成して,その中で自分たちは治らないものだと信じさせられているからだという。しかし自己の倒錯を悩みとする患者が来院することもないわけではない。ここに報告する5例は,いずれも神経症的症状を主訴として来院し,なんとかして治したいとの欲求から自分の異常を進んで告白したもので,各症例とも私が綜合病院である北野病院神経科に勤務していた約3年間に観察したものである。
 神経症と性的倒錯との合併についてはFenichelが論及しており,(1)性的倒錯と神経症が並行して発展するもの,(2)神経症がはじめにあつた性的倒錯を複雑化するもの,(3)性的倒錯がはじめにあつた神経症に加わるもの,の3つの場合をあげ,合併例のほうが治療成績がよいことを指摘している。実際にはこの図式的な分類はほとんど不可能で,私の症例では両者のいずれが先とは決定し難いが,両者相まつて相乗的に患者の苦悩を増大している様相,あるいは自分の同性愛傾向について一層強迫的に苦悶している様相が観察された。しかし神経症症状があつたからこそ長期の面接が可能となり,そこから不完全ながらも治療への手がかりが得られたといつてよいと思う。一般に体質的同性愛者だけでなく神経症的同性愛者においても,一応の治癒ののち,なお正常の範囲を越えて同性愛的性体験が残るということが精神分析の文献例にもみられ,同性愛の発現には先天的,体質的要因は否定できないものと思われる。Freudは「性倒錯は両性的な素質をうけているということが考慮されるが,ただわれわれはこの素質が解剖学的形態を越えてどこに成立するのかがわからない」として,体質的要因を全面的に認めているように思われる。またBossは「体質的に男性と女性との分化がはつきりしていない型」においてのみ同性愛が現われることを強調している。

異常視覚を訴える1症例

著者: 西尾友三郎 ,   秋山誠一郎

ページ範囲:P.563 - P.568

Ⅰ.緒言
 幻視,錯視またはこれに類した異常視覚の体験は珍しくないが,これを絵に再生して説明する例は比較的に少ない。われわれはたまたま「幻視がある」と訴えて自からその成立機転を解明しようと努力している人に遭遇した。彼は日日の異常視覚を絵日記式に記録し,自己の何らかの身体的特殊性のためにその現象が起るのではないかと考え,一方この異常視覚を苦痛とするよりもむしろ楽しんでいるのであつた。

共生的精神病(M. Mahler)と思われる1例

著者: 高木隆郎 ,   川端利彦

ページ範囲:P.569 - P.573

 人間は動物に比して幼児期が長い。それは,動物がよく発達した本能をもつて生れてくるのに対して,人間の生れながらの本能はそれだけで生存を支えるのに十分でなく,人間が自から現実に適応できるためには,ある程度の自我の成熟をまたなければならないからである。したがつて自我が未発達な幼児期には,母あるいはそれに代る成人の,注意深い愛撫ないし庇護が必要とされる。生後すぐの乳児においては,このことは最もいちじるしい形で現われるのであつて,彼の母に対する関係は寄生虫の宿主に対する関係に例えられる。この時期に母の十分な助力が得られないと子供はほとんど破局的な状況に陥いる。
 このような母への寄生的な状況の中で,繰返し行われる母との身体的な接触は,子供に自己の身体感覚を学ぶ機会を与え,それによつて子供は徐々に母あるいはそれ以外の対象と自己との区別を知るようになる。子供のかかる感覚の分化は自我発達の一つの段階を意味するのであるが,これらは言葉がいえ,歩行が可能になるなどの身体的な成熟と相まつて母との分離をうながし,子供は次第に母への寄生的な関係を離れて独立の活動へと向うようになる。

赤核黒質傷害における幻覚について

著者: 前田昭夫 ,   中村芳正 ,   佐々木栄治

ページ範囲:P.575 - P.580

 明確な中枢神経系の器質的傷害で,異常体験その他の精神障害が現われたとき,傷害と精神症状との連関はいろいろな問題を含んでいる。すなわちその精神障害をallgemeine Symptomeとlokale Symptomeに分けるにしても,後者の範囲を全体のうちでどこまで拡張して理解したらよいかという問題。中枢神経系のmateriellな傷害がどのような機制の上で,目前の精神症状に連関を持つかという問題。一歩譲つて仮りにこの両者が単に偶発的合併症であるとしても,中枢神経系の傷害がなんらかの意味で精神像に影響をおよぼすこと(全体の色づけ・ニュアンス)は否定できぬがゆえに,精神病像のうちどこまでorganisch bedingtなものが規定さるべきかという問題などである。
 しかし結局この問題は精神病像の構成における中枢神経系の役割という問題に帰するわけである。むろんこれは脳病理学と精神病理学の連関の根本問題であり,早急な解決は慎まねばならぬしまた不能で,Kasuistischに積み重ねて解決してゆくよりほかはない。この意味でここに紹介する症例も,かかる研究の素材となり得れば幸である。

Iminodibenzyl誘導体G 22355(Tofranil)の臨床経験

著者: 町山幸輝 ,   黒岩晋太郎 ,   成瀬浩

ページ範囲:P.581 - P.585

 1957年スイスのR. Kuhn1)によつてはじめてうつ状態,とくに内因性うつ状態に対する特異的な治療効果が報告されて以来,今日まですでにG22355(Tofranil),N-(γ-dimethylaminopropyl)-iminodibenzylium hydrochloricumによるうつ状態の治療に関していくつかの報告2),3),4),5)がなされているが,うつ状態,特に内因性のそれの治療におけるこの新しい薬剤の注目すべき治療効果,画期的な役割りの評価においては,すべての著者の見解は一致しているようにおもわれる。
 われわれは藤沢薬品工業株式会社よりの供与をうけて1958年5月より本薬剤を臨床的に使用する機会をえ,現在までにすでに約1年の期間をへたが,この間まず同年5月より9月までの4カ月間に,薬物療法,持続睡眠療法などの他の療法では効果のなかつた8例の典型的な内因性うつ病,妄想型および欠陥状態の4例の精神分裂病,2例の強迫神経症に本薬剤を予備的に使用し,そのうつ状態に対する特異的な効果,投与法および投与量などについての概観をえた。よつて同年10月より症例をまし,現在までに内因性うつ病を主とする100例以上の種々の精神疾患に本薬剤を使用した。この報告では,したがつて,主としてうつ病,とくに内因性のものを問題とすることになる。

動き

イタリアの精神病院

著者: 原俊夫

ページ範囲:P.587 - P.589

 私がイタリアの生活をはじめてから,早くも半年になろうとしております。雑誌「精神医学」が着々とその実をあげていることを知り大変嬉しく思つております。何か当地の精神病院について書けとのおすすめですが,一個人が短時日の間に正しい外国の批評をすることは,まず不可能なのではないかと考えます。それで書翰の形式で,あくまで見聞記という範囲で雑然とした印象を書いてみます。しかし,一つの問題についても,なるべく多くの人に聞き質したり,また同一の問題についても,2,3の都市のものを比較するなど,一応の努力は払いました。
 私のこれまでの留学の前半は,主として精神病院を見てあるくことに費し,その後現在に至るまで,Genova大学の精神神経科教室で,主として実験的なことをやつております。ここのG. F. Rossiは昨年までPisaのMoruzzi教授の教室にいた神経生理学者で彼と一緒に実験をしている関係からPisaの様子も少しはお知らせできますが,そこには東大脳研(生理)の平尾氏が活躍しておられ,同氏の報告がより正確でありましよう。それで私のは主として精神科の方面の見聞記になります。

紹介

—M. Boss 著—一精神医学者のインド紀行(Indienfahrt eines Psychiaters)

著者: 霜山徳爾

ページ範囲:P.591 - P.594

 精神身体医学的業績や性的倒錯のすぐれた実存分析的解釈によつて,われわれに知られているチューリッヒ大学の心理療法講座の教授メダルド・ボスは1956年から58年にかけて2度,客員教授としてかなりな期間をインドですごした。然しそれはボスにとつては単なる滞在ではなく,むしろ彼の心理治療学自身の根本的な再検討のため,彼が望んだものなのであつた。周知のようにビンスワンガーやボスなどの実存分析的立場というものが,すでに従来の西欧の心理学や精神医学のもつ人間像にあきたらないで生れてきたものであるが,それにもかかわらずボスは人間存在とその世界の根本的な把握……それに基いてはじめて心理療法を行ない得るような……に至つていないことが,依然として西欧の心理学の大きな問題だとするのである。すなわち心理療法を行なう場合に現代の心ある精神医学者たちがひそかに感じるあの無力感,常にトルソにとどまる彼の治療,これこそ心理療法の手技の問題ではなく,その背後にある人間像の不たしかさからきているとするのである。そしてボスはかねてから古い東洋の叡智こそこの欠陥を補い,心理療法に役立つべきではないかと考えていたので,インド紀行は彼にとつてはむしろ必要なものであつた。
 本書の中には,東洋的なものと西欧的なものとの対置が鋭くとらえられ,われわれにとつて示唆に富む敍述が少くない。特にボスは東洋の叡知と西欧的心理療法とに関して結論的に次のように述べている。彼が「出会う」ことができたインドのすぐれた学者たちや賢人たちは,いずれも正統のインド思想が古くから今日まで根本的には2つの問題を中心として展開してきたことを強調している。すなわち第一は人間が耐えなければならない無限の苦悩ということであり,他は苦悩の克服と浄福とをめざす人間の力強い憧憬という争い得ない事実とである。おれわれの存在のこの2つの根本的所与に深い思いをいたすことはインド思想を一つの哲学にすると共にまた苦悩からの救済の道として高次の心理療法的な意味をもつてきているのである。ボスはこれをErhellungstherapieとよんでいる。それは西欧の人々が心理療法とよんでいるものと名こそ異れ,実際には極めて近似したものなのである。フロイドも既に彼の精神分析的方法が他の医学的治療と区別される特長として,神経症的障害の隠れた性質の真実を「明かにする」(erhellen)洞察がこの苦悩からの解放と一致することを述べ,「エスの存したところに自我をしてあらしめよ」といつたのである。また他の西欧的心理療法も様々な形の相違こそあれ,患者にその覆われた本性を自ら洞察せしめることを指向しているのである。だが問題は洞察はそれを可能にする照明力が与えられてこそだということである。ボスによればこのように東洋の叡智と西欧の心理療法とがかなり一致する点をもつていたとしても,一般に西欧的心理療法のもつ,照らし明かにする力はいまだに不充分であるように思われるので,それを東方の智慧でよりよきものにしたいと考えたのである。ところが最初からボスは奇妙な体験をせざるを得なかつた。すなわち彼はひとりのインド人教授を識つたが,この教授は古いインドの教えの他に,今までよりも一そう苦しむ人々を救うために西欧の心理学及び心理療法を学ぶべく,かつて2年間もヨーロッパに赴いたことがあつた。そこで彼は教育分析など専門的な訓練を受け,すぐれた成績を示した。だが帰国した彼は,そして彼の周囲も,彼自身が以前よりもずつとうまくいかなくなつたことを訴えた。たとえば以前は彼は日常の様々な不運や職業上,社会生活上の失望を全く沈着に,且つ確信をもつて受けとることができたのに対して,今は些細なことも彼を神経質にしたり,また不安にしたりするのであつた。彼はたえず焦り,待つことを忘れ,頑固になり,そのことによつて事態を一層悪くした。彼は明かに西欧的な心理療法の教養によつて自らを,心的諸機能の力動的均衡体系として,外界の慌しさの中を渡つていかねばならない心的機構であることを学んだのである。以前の印度的な叡智と落ちつきとは彼から消え,存在の根拠につながりながらも生成消滅の大河に自らを淡々と属さしめているという平静な境地から,ある深層心理学者の人間的な権威とその心理学説に依存するたよりなさにまで収縮してしまつたのであつた。明かに彼が学んだ心理療法は,かたくなな,いわば自我に憑かれた欧米人には極めて有効であつたかもしれないが,茫洋としたインド思想の中で,もともと育つた人間には極めて狭窄する圧迫的なものとなつて彼の心を病ましたことは疑いないのである。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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