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文献概要
紹介
—M. Boss 著—一精神医学者のインド紀行(Indienfahrt eines Psychiaters)
著者: 霜山徳爾1
所属機関: 1上智大学
ページ範囲:P.591 - P.594
文献購入ページに移動 精神身体医学的業績や性的倒錯のすぐれた実存分析的解釈によつて,われわれに知られているチューリッヒ大学の心理療法講座の教授メダルド・ボスは1956年から58年にかけて2度,客員教授としてかなりな期間をインドですごした。然しそれはボスにとつては単なる滞在ではなく,むしろ彼の心理治療学自身の根本的な再検討のため,彼が望んだものなのであつた。周知のようにビンスワンガーやボスなどの実存分析的立場というものが,すでに従来の西欧の心理学や精神医学のもつ人間像にあきたらないで生れてきたものであるが,それにもかかわらずボスは人間存在とその世界の根本的な把握……それに基いてはじめて心理療法を行ない得るような……に至つていないことが,依然として西欧の心理学の大きな問題だとするのである。すなわち心理療法を行なう場合に現代の心ある精神医学者たちがひそかに感じるあの無力感,常にトルソにとどまる彼の治療,これこそ心理療法の手技の問題ではなく,その背後にある人間像の不たしかさからきているとするのである。そしてボスはかねてから古い東洋の叡智こそこの欠陥を補い,心理療法に役立つべきではないかと考えていたので,インド紀行は彼にとつてはむしろ必要なものであつた。
本書の中には,東洋的なものと西欧的なものとの対置が鋭くとらえられ,われわれにとつて示唆に富む敍述が少くない。特にボスは東洋の叡知と西欧的心理療法とに関して結論的に次のように述べている。彼が「出会う」ことができたインドのすぐれた学者たちや賢人たちは,いずれも正統のインド思想が古くから今日まで根本的には2つの問題を中心として展開してきたことを強調している。すなわち第一は人間が耐えなければならない無限の苦悩ということであり,他は苦悩の克服と浄福とをめざす人間の力強い憧憬という争い得ない事実とである。おれわれの存在のこの2つの根本的所与に深い思いをいたすことはインド思想を一つの哲学にすると共にまた苦悩からの救済の道として高次の心理療法的な意味をもつてきているのである。ボスはこれをErhellungstherapieとよんでいる。それは西欧の人々が心理療法とよんでいるものと名こそ異れ,実際には極めて近似したものなのである。フロイドも既に彼の精神分析的方法が他の医学的治療と区別される特長として,神経症的障害の隠れた性質の真実を「明かにする」(erhellen)洞察がこの苦悩からの解放と一致することを述べ,「エスの存したところに自我をしてあらしめよ」といつたのである。また他の西欧的心理療法も様々な形の相違こそあれ,患者にその覆われた本性を自ら洞察せしめることを指向しているのである。だが問題は洞察はそれを可能にする照明力が与えられてこそだということである。ボスによればこのように東洋の叡智と西欧の心理療法とがかなり一致する点をもつていたとしても,一般に西欧的心理療法のもつ,照らし明かにする力はいまだに不充分であるように思われるので,それを東方の智慧でよりよきものにしたいと考えたのである。ところが最初からボスは奇妙な体験をせざるを得なかつた。すなわち彼はひとりのインド人教授を識つたが,この教授は古いインドの教えの他に,今までよりも一そう苦しむ人々を救うために西欧の心理学及び心理療法を学ぶべく,かつて2年間もヨーロッパに赴いたことがあつた。そこで彼は教育分析など専門的な訓練を受け,すぐれた成績を示した。だが帰国した彼は,そして彼の周囲も,彼自身が以前よりもずつとうまくいかなくなつたことを訴えた。たとえば以前は彼は日常の様々な不運や職業上,社会生活上の失望を全く沈着に,且つ確信をもつて受けとることができたのに対して,今は些細なことも彼を神経質にしたり,また不安にしたりするのであつた。彼はたえず焦り,待つことを忘れ,頑固になり,そのことによつて事態を一層悪くした。彼は明かに西欧的な心理療法の教養によつて自らを,心的諸機能の力動的均衡体系として,外界の慌しさの中を渡つていかねばならない心的機構であることを学んだのである。以前の印度的な叡智と落ちつきとは彼から消え,存在の根拠につながりながらも生成消滅の大河に自らを淡々と属さしめているという平静な境地から,ある深層心理学者の人間的な権威とその心理学説に依存するたよりなさにまで収縮してしまつたのであつた。明かに彼が学んだ心理療法は,かたくなな,いわば自我に憑かれた欧米人には極めて有効であつたかもしれないが,茫洋としたインド思想の中で,もともと育つた人間には極めて狭窄する圧迫的なものとなつて彼の心を病ましたことは疑いないのである。
本書の中には,東洋的なものと西欧的なものとの対置が鋭くとらえられ,われわれにとつて示唆に富む敍述が少くない。特にボスは東洋の叡知と西欧的心理療法とに関して結論的に次のように述べている。彼が「出会う」ことができたインドのすぐれた学者たちや賢人たちは,いずれも正統のインド思想が古くから今日まで根本的には2つの問題を中心として展開してきたことを強調している。すなわち第一は人間が耐えなければならない無限の苦悩ということであり,他は苦悩の克服と浄福とをめざす人間の力強い憧憬という争い得ない事実とである。おれわれの存在のこの2つの根本的所与に深い思いをいたすことはインド思想を一つの哲学にすると共にまた苦悩からの救済の道として高次の心理療法的な意味をもつてきているのである。ボスはこれをErhellungstherapieとよんでいる。それは西欧の人々が心理療法とよんでいるものと名こそ異れ,実際には極めて近似したものなのである。フロイドも既に彼の精神分析的方法が他の医学的治療と区別される特長として,神経症的障害の隠れた性質の真実を「明かにする」(erhellen)洞察がこの苦悩からの解放と一致することを述べ,「エスの存したところに自我をしてあらしめよ」といつたのである。また他の西欧的心理療法も様々な形の相違こそあれ,患者にその覆われた本性を自ら洞察せしめることを指向しているのである。だが問題は洞察はそれを可能にする照明力が与えられてこそだということである。ボスによればこのように東洋の叡智と西欧の心理療法とがかなり一致する点をもつていたとしても,一般に西欧的心理療法のもつ,照らし明かにする力はいまだに不充分であるように思われるので,それを東方の智慧でよりよきものにしたいと考えたのである。ところが最初からボスは奇妙な体験をせざるを得なかつた。すなわち彼はひとりのインド人教授を識つたが,この教授は古いインドの教えの他に,今までよりも一そう苦しむ人々を救うために西欧の心理学及び心理療法を学ぶべく,かつて2年間もヨーロッパに赴いたことがあつた。そこで彼は教育分析など専門的な訓練を受け,すぐれた成績を示した。だが帰国した彼は,そして彼の周囲も,彼自身が以前よりもずつとうまくいかなくなつたことを訴えた。たとえば以前は彼は日常の様々な不運や職業上,社会生活上の失望を全く沈着に,且つ確信をもつて受けとることができたのに対して,今は些細なことも彼を神経質にしたり,また不安にしたりするのであつた。彼はたえず焦り,待つことを忘れ,頑固になり,そのことによつて事態を一層悪くした。彼は明かに西欧的な心理療法の教養によつて自らを,心的諸機能の力動的均衡体系として,外界の慌しさの中を渡つていかねばならない心的機構であることを学んだのである。以前の印度的な叡智と落ちつきとは彼から消え,存在の根拠につながりながらも生成消滅の大河に自らを淡々と属さしめているという平静な境地から,ある深層心理学者の人間的な権威とその心理学説に依存するたよりなさにまで収縮してしまつたのであつた。明かに彼が学んだ心理療法は,かたくなな,いわば自我に憑かれた欧米人には極めて有効であつたかもしれないが,茫洋としたインド思想の中で,もともと育つた人間には極めて狭窄する圧迫的なものとなつて彼の心を病ましたことは疑いないのである。
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