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特集 児童精神医学 展望
西ドイツにおける児童精神医学の動向
著者: 平井信義1
所属機関: 1お茶の水女子大学家政学部児童学科
ページ範囲:P.619 - P.625
文献購入ページに移動I.はじめに
西ドイツにおける児童精神医学の研究は,従来の伝統に基く器質的な人間解明の方向と,アメリカに流れを発する力動精神医学を追う方向と,明らかに分かれていて,むしろ前者の力が強いことは,わが国と事情がよく似ている。
著者が1954年,最初に訪れたのはFrankfurt大学であつた。そこには,“Die Psychopathologie des Kindesの著者としてわが国にも知られているStockert教授がおられるはずで,私の留学の目的は彼に師事することにあった。しかるに,私の渡独直前に東ドイツにあるRostock大学の教授に転出されたので,私はやむなく,Frankfurt大学小児科に籍を置くことになつた。小児科教室を主宰するのは,ドイツ小児科学会でもBossert教授に次ぐ重鎮de Rudder教授であり,400床を有する竣工まもない小児科病棟に約40〜50名の医局員の指導に当つていた。
私が最初に面会した時,教授は「君はPsychopathologieに興味をもつているのか,おもしろい」といつた。しかし,Bossert教授がSchwer-erziehbares Kindに異常な興味をもつているのにくらべて,こうした研究分野については新たに開拓する意欲には乏しく,むしろ批判的であつた。とくに,Psycho-somatische Medizinに対しては,みずから“somato-psychisch”という言葉を作り出して対立していた。Psycho-somatische Medizinは,それを誤つて用いると,子どもを殺すことにもなる,と考えていた。
この考えは,医局の集合や廻診の際にしばしば現われ,私に向けられた。精神的と考えられる頭痛のある子どもが,脳腫瘍の初期であつたり,NabelkolikがAbdominalepilepsieであつたり,——そのたびに教授は私の方を向くのであつた。ことに,アメリカ医学に対する批判は強烈であり私が帰途にアメリカを経由したい気持をもらすと「なぜ行く必要があるのか」と問うたほどであつた。
半年間その教室にいて,器質的な疾患の解明についての技術を教えられたが,その後,Köln大学のBennholdt-Thomsen教授の教室に移つた。これはde Rudder教授の推薦もあつたが,半年の滞在によつてKöln大学の業績についてつぶさに知ることができたからである。私は,自分の留学の目的を教授に伝えると「喜んで指導をひき受けよう」といつて,Schwer-erziehbare Kinderを収容しているPestalozzi Stationに案内してくれた。そこに私は半年いて,それらの子どもと日夜接触するほか,その他の廻診について,Bennholdt-Thomsen教授の考え方をくむことができた。教授はde Rudder教授の高弟でもあつた。
その後,Marburg大学で,児童の精神衛生研究会が家庭と学校と題して開催された時に,私は,Marburg大学を訪れる機会を得た。
Bennholdt-Thomsen教授も,この大学のVillinger教授およびStutte教授を推薦され「ドイツの新しい精神医学の研究には最も多く貢献している」といつた。この2人の教授は,精神科を主宰し,ことにStutte教授は児童部に力を注いでいたし,児童部は新しい建築が建設されていた。そこには60〜80人のSchwer-erziehbare Kinderを収容し,Psychotherapieのための部屋も,たくさんに用意されていた。しかも,その建物に隣接して児童相談所(Kinderberatungsstelle)がすでにできていて,学校その他とよく連絡をとり,事業を開始していた。私は,これらの活動をみて,当初からこの大学にくるのが最も能率のよかつたことだつたと知つた。私は10日間そこに滞在した。新しい建物は,1958年春に竣工がなつた旨,報告を受け取つた。おそらく,この大学を中心にして,西ドイツは,新しい児童精神医学の歩みを続けるであろう。その後に会つた2,3の老教授は,その歩みに批判的であつたが,中堅以下の子どもに関係する医学者は,この大学の研究の動向には非常な興味をもつていた。
西ドイツにおける児童精神医学の研究は,従来の伝統に基く器質的な人間解明の方向と,アメリカに流れを発する力動精神医学を追う方向と,明らかに分かれていて,むしろ前者の力が強いことは,わが国と事情がよく似ている。
著者が1954年,最初に訪れたのはFrankfurt大学であつた。そこには,“Die Psychopathologie des Kindesの著者としてわが国にも知られているStockert教授がおられるはずで,私の留学の目的は彼に師事することにあった。しかるに,私の渡独直前に東ドイツにあるRostock大学の教授に転出されたので,私はやむなく,Frankfurt大学小児科に籍を置くことになつた。小児科教室を主宰するのは,ドイツ小児科学会でもBossert教授に次ぐ重鎮de Rudder教授であり,400床を有する竣工まもない小児科病棟に約40〜50名の医局員の指導に当つていた。
私が最初に面会した時,教授は「君はPsychopathologieに興味をもつているのか,おもしろい」といつた。しかし,Bossert教授がSchwer-erziehbares Kindに異常な興味をもつているのにくらべて,こうした研究分野については新たに開拓する意欲には乏しく,むしろ批判的であつた。とくに,Psycho-somatische Medizinに対しては,みずから“somato-psychisch”という言葉を作り出して対立していた。Psycho-somatische Medizinは,それを誤つて用いると,子どもを殺すことにもなる,と考えていた。
この考えは,医局の集合や廻診の際にしばしば現われ,私に向けられた。精神的と考えられる頭痛のある子どもが,脳腫瘍の初期であつたり,NabelkolikがAbdominalepilepsieであつたり,——そのたびに教授は私の方を向くのであつた。ことに,アメリカ医学に対する批判は強烈であり私が帰途にアメリカを経由したい気持をもらすと「なぜ行く必要があるのか」と問うたほどであつた。
半年間その教室にいて,器質的な疾患の解明についての技術を教えられたが,その後,Köln大学のBennholdt-Thomsen教授の教室に移つた。これはde Rudder教授の推薦もあつたが,半年の滞在によつてKöln大学の業績についてつぶさに知ることができたからである。私は,自分の留学の目的を教授に伝えると「喜んで指導をひき受けよう」といつて,Schwer-erziehbare Kinderを収容しているPestalozzi Stationに案内してくれた。そこに私は半年いて,それらの子どもと日夜接触するほか,その他の廻診について,Bennholdt-Thomsen教授の考え方をくむことができた。教授はde Rudder教授の高弟でもあつた。
その後,Marburg大学で,児童の精神衛生研究会が家庭と学校と題して開催された時に,私は,Marburg大学を訪れる機会を得た。
Bennholdt-Thomsen教授も,この大学のVillinger教授およびStutte教授を推薦され「ドイツの新しい精神医学の研究には最も多く貢献している」といつた。この2人の教授は,精神科を主宰し,ことにStutte教授は児童部に力を注いでいたし,児童部は新しい建築が建設されていた。そこには60〜80人のSchwer-erziehbare Kinderを収容し,Psychotherapieのための部屋も,たくさんに用意されていた。しかも,その建物に隣接して児童相談所(Kinderberatungsstelle)がすでにできていて,学校その他とよく連絡をとり,事業を開始していた。私は,これらの活動をみて,当初からこの大学にくるのが最も能率のよかつたことだつたと知つた。私は10日間そこに滞在した。新しい建物は,1958年春に竣工がなつた旨,報告を受け取つた。おそらく,この大学を中心にして,西ドイツは,新しい児童精神医学の歩みを続けるであろう。その後に会つた2,3の老教授は,その歩みに批判的であつたが,中堅以下の子どもに関係する医学者は,この大学の研究の動向には非常な興味をもつていた。
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