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雑誌目次

論文

精神医学10巻1号

1968年01月発行

雑誌目次

第6回精神医学懇話会 精神医学における人間学の方法

主題報告

著者: 笠原嘉

ページ範囲:P.5 - P.19

I.はじめに
 この表題からさしあたり思いつく論議の方向は二つである。一つは人間学の立場にたつ諸家の方法論のそれぞれを,その哲学的背景にまでもたちいつて対比検討するという方向であり,あと一つは,人間学的潮流のなかでのそのような方法上の差異は一応不問にふし,一般に人間学という,いうならば生物学的自然科学的医学への反措定としての学が,精神医学のみならず医学一般のうちにおいて,どのような理由で独自の科学性を主張することができ,どのようにしてプラクシスに寄与していくのか,要するに人間学的研究全般の大まかなプロフィルを画こうとする方向である。
 周知のとおり1920年前後の欧州の精神医学に発し,精神疾患者における「人間」ないし「世界」の理解をめざしたところのこの動向は,ついにBinswanger, L. の金字塔的ともいえる大著「精神分裂病」(1957)を生むまでにいたつたが,それだけに反面,人間学という一つの標識のもとに包含される研究方向もこんにちではかなり多様なものとなつた。一二の例をあげると,Binswanger一派の「精神医学的現存在分析」とZutt一派の「了解人間学」の間には,説明的と了解的(村上,木村敏)11),あるいは疾病学志向的と症候論志向的(木村敏)10)という対比が可能なほどの懸隔があつたり,またFreud的人間観に親和的な人間学としからざる人間学(たとえばMinkowskiのそれ)という区分が可能であつたり(村上)12),さらにはBinswanger,Kuhn,BlankenburgらとGebsattel,Storchらとの間にも,また同じく現存在分析をいうBinswangerとBoss, M. との間にさえ,方法論的対立3)という意味ではかなり厳しいものがあるようである。また「医学的人間学」の名で知られるWeizacker, V. とBinswangerの方法論の相異13)についても種々論議が生まれうるであろう。

指定討論

著者: 霜山徳爾

ページ範囲:P.19 - P.21

 私は笠原先生の諸論に対して,3つの点に関して意見を述べさせていただきたいと思います。
 まず,笠原先生がこんにちの精神医学に対する人間学の,いわば方法論上の意味というものを,きわめて適確にとらえられておられるように思い,賛同と敬意を表わしたいと思います。人間学的現象学的方法はけつして恣意や偶然から精神医学や心理学のひとつの重要な関心の対象になつたのでないのでして,人間を有機体として機械論的な対象概念に帰着せしめ,その個性を無視するようなさまざまな傾向に対して,人間をその個有の全き形姿において把握しようとするこころみが,同じ志向にあつた現代存在論と交渉をもつことになつたのだと考えております。べつに応用哲学というふうには考えていないのであります。人開学的現象学的方法は精神医学における一つの方法ではありますが,それは他の方法と並ぶ一つの方法という意味ではなくて,むしろ方法論の方法論ともいうべき,いわば精神医学の基礎論たらんとしているということがいえるのだと思います。その場合に「患者」であること以前の,まず「人間」というものと,「治療者」である以前の「人間」というものとがいかなる意味でかかわり合うかという問題をとおして,人間の現存在の基本的様式が考察されているわけで,それがふりかえられて,臨床や治療に豊かな意義や鋭い洞察を与えているのであります。それはけつして思弁的なものではないと思います。笠原先生が,精神医学者は哲学とのかかわりということをおそれてはならないということをいわれておりますが,私もそのとおりであると思います。

指定討論

著者: 佐治守夫

ページ範囲:P.21 - P.22

 笠原先生のお話ならびに読ませていただきました論文,いろいろ示唆に富むもので興味深いものでした。私としましては,先生の呈示された,“方法的検討”の項に関連して問題(というよりも)私見を呈示させていただきたい。私の立つ立場は,これを強いて名づけるとすれば,実験的現象学,あるいは,対人的現象学Interpersonal phenomenologyとでもいうものであろうと思います。これは“解釈学的現象学”に対する,実証科学的なあゆみよりをめざして意識的に名づけた名称であると受け取つていただいてもよいと思います。
 笠原先生はつぎのように述べられました。“精神病者に対してどのような関与を行なうにしても,一種の関与を行なうにさきだつて,すでにつねに,関与せんとする精神疾患者についてなにがしかの知をもつている。……しかし「それ」は論理的に実現しにくい性質のものであり,事実「それ」を明らかにしなくても,身体的検索はもとより,精神病理学や治療行為でさえも可能である。……しかし「それ」は精神病理学や身体的検索によつて少しでも明らかにされる事態でもなく,むしろ逆に,……中略……「それは」いわゆる精神医学的研究分野の成立にさきだつて,すでてそれを可能にしている地平であるとすれば,人間学こそこの不分明にして非主題的な領分にとりくみ,その構造をことさらに主題化すべく努力することを求められている科学であるといえよう」

精神医学における人間学の方法—第6回精神医学懇話会

著者: 島崎敏樹 ,   笠原嘉 ,   三好郁男 ,   森山公夫 ,   宮本忠雄 ,   土居健郎 ,   小川信男 ,   藤田千尋 ,   霜山徳爾 ,   佐治守夫 ,   金子嗣郎 ,   中根晃 ,   吉永五郎 ,   加藤清 ,   村上仁

ページ範囲:P.24 - P.38

はじめに
 島崎(司会)きようの懇話会のテーマは「精神医学における人間学の方法」です。人間学という言葉には,ある人間くささがあります。この人間くささというものは,1920年代から始まりましたBinswangerの思想の芽生えから,30年代のvon Gebsattel,Straus,Storchを経まして,現代の中堅若手にいたるすべての人びとから立ちのぼつているにおいです。においというものはひとひとに,ある人は好ましいと感じ,ある人にはうとましいと感じられるものです。
 好き嫌いというものは物理学にも化学にもあります。私は物理が得意ですとか,化学が不得意ですとかいうことがあります。しかしそういう得手,不得手というものでは,知的な賦与が問題でありまして,自分は人間として物理学が好きであろ,嫌いであるという意味合いはうすいわけです。ましてその学問それ自体に,においがあるというのではありません。まさに人間学はそこが違います。

研究と報告

精神分裂病の責任能力への一寄与

著者: 中田修

ページ範囲:P.43 - P.47

 われわれの経験によると,精神分裂病者の犯罪が裁判者によつて有責と認められることが少なくない。しかし,司法精神医学的見解としては,精神分裂病の行為は原則として責任無能力であるというのが,支配的なようである。ただし,ごく軽症の分裂病,潜在分裂病や,ことにいちじるしい寛解期の分裂病に対して責任を認むべきであるという見解もある。われわれは裁判の実情の一端をうかがうために,わが国の判例を調査したところ,精神分裂病の事例で心神喪失の判決を受けた例が15例,心神耗弱の判決を受けた例が5例見出された。これらの判例をみると,精神分裂病といえども症状のいちじるしく高度な場合,犯行が妄想・幻覚などの病的体験に直接支配されている場合などのほかは,責任を認むべきであるとする考えかたが,裁判官のなかに支配的であるように思われる。それゆえ,裁判官の一般的な考えかたは,精神分裂病の行為は原則として責任無能力であるとするわれわれの司法精神医学的見解からかなり遠いようである。

Neuro-Behçet症候群の5例

著者: 津田昌利 ,   金子善彦 ,   吉沢勇 ,   村井みほ ,   梅林円尚

ページ範囲:P.49 - P.55

I.はじめに
 いわゆるBehçet氏病には神経症状を伴うものが25〜30%に認められるとしてCavaraとD'ErmoがこれをNeuro-Behçet-Syndromeと名づけて発表したのは,1954年のことであつたが1),以来多くの本症候群に関する研究報告がわが国においても発表され,すでにその症例数は剖検8例を含めて55例に達する。われわれも本症候群と診断できる5症例を経験したので,若干の考按を加えて報告する。

動脈硬化性病変を伴つたAlzheimer病の1剖検例

著者: 近藤重昭 ,   相沢宏邦 ,   坂本玲子 ,   畠就康

ページ範囲:P.57 - P.62

Ⅰ.緒言
 周知のように1906年Alzheimer1)が,初めて老人痴呆のなかでeine eigenartige Krankheitの1例を報告し,Kraepelin2)によってAlzheimer病と命名された本疾患は,その後あいついで諸家により報告され,Perusini3),Grunthal4)らをはじめとして古くから詳細な研究が少なくない。しかし初老期に発病する古典的な症例のみならず,若年期5)6),あるいは家族性に出現する例7)8)から,さらに諸因子によつて類縁の臨床・組織学的症状を呈するものが加えられて,本疾患の症候学も解決しつくされるまでにいたらないし,病因に関しても老人斑,原線維変化に代表される老人性変化の成因に問題を残しているといわねばならない。
 本邦では,すでに猪瀬9),原10)11)らのすぐれた論文があるが,1952年露木の剖検が初例とされ,剖検報告例は十余例にすぎない。

精神科特殊薬物の大量療法について(第1報)—大量療法の意義と定式化をめぐつて

著者: 吉川武彦 ,   米沢照夫 ,   中村征一郎 ,   竹内竜雄 ,   矢野徹 ,   亀井清安

ページ範囲:P.65 - P.70

I.はじめに
 精神科の治療体系のなかにphenothiazine系薬物が導入され,特殊薬物療法として開発されて以来すでに10数年が経過した。この間,精神病,とくに精神分裂病の本質論をさておいて,さまざまな症状の改善と病者の社会復帰を容易にした意義は大きい1)6)
 この結果,現在の精神病の治療が,ともすると病者の社会復帰に目が向けられ,これを中心に語られ,薬物療法も社会復帰との関連において研究されがちである6)。これは,このかぎりにおいて意義あることであるが,しかしこのなかにあつても,いわゆる陳旧性分裂病として精神病院の片隅にうずくまる一群があることは忘れることのできない現実である。

資料

限界状況における集団的幻覚体験について—冬山遭難時の幻覚の現象学的記述と精神医学的考察

著者: 荻野恒一

ページ範囲:P.79 - P.84

I.はじめに
 幻覚という主題は,妄想とともに,精神病理学のもつとも重要なテーマとして論ぜられてきたが,その研究の対象は,主として精神病者(とりわけ精神分裂病者)の幻覚体験,副次的には大脳病理学の対象となるべき病者(大脳皮質の局在病変,脳底部障害,せん妄状態など)の幻覚体験であつて,例外状況におかれた正常者のそれに関しては,非常に報告が乏しかつたように思う。
 だが,例外状況(孤立状況,感覚遮断など)における幻覚体験についての報告も皆無ではなく,たとえば最近,医師Lindemann, H. が単身大西洋を横断したときの幻覚体験1)2)(言語性幻聴,人間や馬の幻視)が報告され,また島崎,中根は,一医学生が夏山登山において体験した幻聴(ソプラノの歌,ラジオの天気予報など)について報告している3)

動き

学会認定医(仮称)制度に関する私案

著者: 猪瀬正

ページ範囲:P.89 - P.91

まえおき
 日本精神神経学会に専門医制度委員会ができたのは昭和32年のことであつた。それは,他の学会に比べて非常に早い出発であつたが,不思議なことに,その委員会は最近にいたるまで開店休業であつた。委員会のできた経緯はよくわからないが,当時はこんにちより以上の“精神病院ブーム”があつて,精神科以外の医師が精神病院をつくつて院長としておさまるという風潮がめだつていた。そこで,学会は,少なくとも精神病院長は専門家でなければいけないと考えて,専門医制度を確立して,医師法や医療法の改正まで考えたのであろうと思う。このような事態は,こんにちにおいても変わりのないことははなはだ残念なことである。
 しかも,他の学会(小児科,脳神経外科,麻酔学科など)では,われわれよりさきに,“認定医制”を定めて,すでに発足してしまつた。内容はともかくとして,それは大英断であつたと思う。

回顧と経験 わが歩みし精神医学の道・19

日本精神神経学会の盛衰を中心として

著者: 内村祐之

ページ範囲:P.71 - P.78

 終戦後の混乱と貧困とは,昭和26,7年ごろを境として,比較的急速に改善されてゆき,それに相応して,各大学の研究活動も再び活溌となつた。そこで,ここに,当時の東大精神科教室員の仕事の内,国際的にも重要と思われるものを,戦前と戦後とに分けて,おのおの1つずつ,取り上げてみよう。
 まず戦前のものでは,高橋角次郎君が偶然のことから成功した,椎骨動脈の経皮性脳動脈写の仕事がある(Arch. f. Psychiatr. 111,1940)。これは,高橋君があるとき,清水健太郎君創案の直接経皮性の頸動脈撮影の手技を実施中,手先の非常に器用な人であるにもかかわらず,誤つて針を深く刺し過ぎて,椎骨動脈を穿刺してしまったことから発展したものである。これにより,後脳動脈や小脳動脈の灌漑領域の脳動脈写の困難さが一挙に解決されたという意味で,神経学的診断にとつても,脳外科学の進展にとつても,非常に重要な手技であつた。高橋君の名前と,この業績とは,折りから勃発した第二次世界大戦のかげに隠れて,忘れられがちであるが,それはまさしく世界最初の成功であつたのである。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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