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雑誌目次

雑誌文献

精神医学12巻6号

1970年06月発行

雑誌目次

巻頭言

チーム医療の中の精神科医

著者: 井上正吾

ページ範囲:P.464 - P.465

 「医療危機と精神科医」の特集に現代の精神科医療の基本的な性格として5点があげられている。第1に精神病者や精神病院は国家や独占資本にとって投資価値のないものとして医療分野の末端に位置づけられる。第2に私立精神病院は職員削減等徹底的な合理化の結果医療不在の収容施設に変質する。第3は国家が精神病院に期待する唯一の機能は社会防衛である。第4に経営危機においこまれゆく病院は病者を治療しないのみか手放そうとはしなくなる。第5に低所得と核家族化を理由に家族は病者を迎えいれる余裕をなくす。(松本雅彦・他,京都)。しかし,焦点を精神病院にしぼれば,第1は医療不在経済最優先のいわゆる儲け主義経営,第2は私立精神病院経営者の持つ封建性と病院の私物化,第3は経営管理を独占する精神科医の基本的専門知識の欠如,の3点が根本原因とされている(日本精神神経学会理事会)。しかし精神科医自身もその一半の責任は自分にあることに思をいたし,襟を正し精神病者の差別的診療を改め,道義心・倫理感を高めなければならないと反省される(大阪大学,阿部)。われわれは臨床の実践において,具体的にこの問いかけに答えなければならない。すなわち医学・医術・医道・医制の4方向がうまく調整されて,はじめて真の意味で高度の医療が実施できると考える。従来ともすれば大学精神医学が偏重され病院精神医学が通俗なものとされた。しかも院内における患者—職員の治療的人間関係(医道)は権威主義的であり,患者の人権は十分には守られていなかった。医制に関しても精神科医は無関心すぎた。これらの4方向から常に精神科医療の向上を吟味し,これに反する動きがあれば個人としても,学会としても,反省し改革すべきは改めるという運動を展開すべきであった。

特集 境界例の病理と治療

はじめに

著者: 土居健郎

ページ範囲:P.466 - P.467

 以下に掲げられる境界例についての四つの論文の内容を十分に討論するためにはかなりの紙幅を要するが,現在の私にはそれをするだけの勉強が不足しており,かつ物心両面の余裕もない。そこでここでは,境界例についてのシンポジウムの司会者を引き受けたときに漠然と私の念頭にあったものを明確化することを主として試みてみたい。そしてそのことと関連させながら四氏の論文にもふれることになるであろう。
 境界例という場合,まず私が考えることは次のようなことである。これまではかなりまとまりのあるゲシュタルトを持つ診断類型というものがあって,それだけで大体の用は足りていた。したがって境界例ということがいわれるようになったのは,従来の診断類型のいずれにも属させることができない症例が見られるようになったという意味にちがいない。もっともふつう境界例という場合は,神経症と分裂病の境界にまたがるような症例を指すと考えられているようであるが,しかし分裂病といわゆる正常心理の境界にまたがるような症例も存すると考えてよいのではなかろうか。私がこのような考え方をするのは次の理由にもとづいている。すなわち通常われわれは,神経症者の世界はいわゆる正常人の世界に近いが,精神病者の世界はいわゆる正常人の世界から最も隔たったものであると感じている。これは正常心理と神経症と精神病をそれぞれ一直線上のスペクトルの上に位置させる考え方をわれわれが知らず知らず採用しているからであるが,この考え方は正常心理と異常心理との関係をあまりにも単純化しているもののように私には思われる。もし正常心理と異常心理をあえて線上に配列させるとするならば,この線は一直線ではなく,円周をつくるものでなければならないと私は考えたい。したがって神経症と分裂病の間にまたがる境界例があるとするならば,分裂病と正常心理の境界にまたがる症例も存しなければならないことになるのである。

いわゆる境界状態について

著者: 野上芳美

ページ範囲:P.468 - P.473


 境界状態または境界例の概念はKnight8)によってほぼ確立されたとはいえ,境界状態あるいはこれに相当する病態に関する文献を通覧すると,著者達の使用する用語もその概念もさまざまであって,極端なことをいえば「誰それのいう何々」という言い方をしないと話し手と聞き手の間に微妙な喰いちがいが起こりかねない。例えば,HochとPolatin5)の「仮性神経症型分裂病」は広義に境界状態に包含される病態であるが,これと完全に一致する記述はDouglas2)の「境界線分裂病」(borderline schizophrenia)のみである。Shenken12)は「境界状態」という用語を用い,その記述の大部分はHochとPolatinに準拠しているが,しかしさらに妄想反応と仮性神経症型うつ病をも含むものとしている。一方でSchmideberg11)は「境界患者」を定義するさい仮性神経症型分裂病は除外すると明言している。また最近Grinkerら4)はそのモノグラフで「境界線症状群」(borderline syndrome)という用語を用いたが,その類型として中核群,神経症的境界線群,精神病的境界線群,“as if”群をあげており,その包含する対象は広い,などなどのごとくである。第1表には諸家により用いられた用語をあげた。
 著者らによる境界例概念とその強調する点の相違はそれぞれの属する学派・理論によるほか,彼らが症例を取り扱う施設の性格ならびに患者層の偏りに基づくこともあろう。だがそれらのほかにより根本的な根拠が考えられる。そのひとつは,ある症例を境界状態と診断する場合,神経症的ならびに分裂病的な二面の特性を認めつつもそのいずれにも属せしめえぬという否定的・除外的な態度もあり,そこではいかほど分裂病的(または神経症的)であり,かついかほど分裂病的(または神経症的)でないかという判断がなされていることである。「境界例という診断は患者の状態に関してではなく,精神科医の不決断・不確かさに関する情報を伝えている」(Knight)とか「診断の困難さを現わす用語」(井村)6)のごとき表現は単なる警句とはいえない。この診断の困難さあるいは不決断の幅,すなわち「精神病理学的スペクトル上の境界帯域」の幅は診断する側の抱く分裂病概念の幅に相応して狭くも広くもなる理である。あのGlover3)やZilboorg16)はこの不決断を認めぬ立場といえよう。もちろん,多くの人は境界例を広く分裂圏内に含まれる病態と認めてはいるが,万人に承認される境界例独自の病態特異的な所見が乏しい以上,不決断の幅は医師の主観に従って動揺せざるをえない。分裂病の診断基準にかかわる問題である。

境界例の概念とその臨床的検討

著者: 小此木啓吾

ページ範囲:P.474 - P.485

Ⅰ.“境界例の多義性”
 “境界例”というコトバが,本特集でとりあげられる背景には,何らかの意味でこのコトバを臨床的に用い,考える必要を認めるような普遍的な臨床経験が存在しているとみなすことが許されるであろう。
 しかしながら,このような臨床的事実(clinical reality)に対して,この概念を使用することの可否については,なお未だに,必ずしも一致した見解が得られているとはいえないように思われる。つまり,本特集には,この概念に対する賛否いずれの立場をも含んだ討議が期待されるのであるが,このような討議を発展させるには,まずそれに先立って,それぞれの立場から,この概念の意味するところを明確にし合うことが要請される。なぜならば,境界例に関する臨床的事実は,漠然とは,各人に共通した臨床経験として知られているにもかかわらず,ひとたびそれを一つの精神医学的概念として明確化しようとすると,その含蓄は,きわめて多義的であいまいであり,この多義性が,本概念の使用の可否をめぐる判断や評価さえも大きく左右しているからである。

境界例の治療

著者: 神田橋條治

ページ範囲:P.486 - P.491

Ⅰ.まえがき
 境界例患者の精神力動とその問題点については,他の論者によって述べられるところであろうし,また研究の歴史的発展についても詳細に述べられるであろうからここでは触れない。ただ,これまでのさまざまな研究で得られた結果を,治療,ことに精神療法という角度からまとめると,ほぼ次に述べる4つの点に要約できるであろうと考える。すなわち,1)境界例は,一般の神経症とは異なった重大な性格障害をもっている6)(自我歪曲)。いいかえれば,より早期の人格形成期に問題がある。2)そのため,精神療法に必要な,いわゆる治療同盟ができにくいし,また,しばしば激しい破壊的な行動化を起こしたり,精神病状態をあらわしたりする。3)したがって,一般の神経症の治療に用いられるような,自己の心的内界に対決させ洞察に導く技法は時に危険である。陽性感情転移を育てながら,現実指向的なアプローチを行なってゆくべきである。4)また,境界例の精神力動は思春期心性との関連を含んでいる。すなわち,一方に家庭からの分離,独立,他方に社会における自己の位置づけ,自己評価などの問題をもっており,これらが治療の中で重要な問題となる8)
 こうした結論がもたらされるに至った先人の治療的経験と理論的発展については,小此木7),河合2)によりすでに詳細に報告がなされているので,それを繰り返すことはさけて,ややちがった態度で,この特集のわたくしの役割にかかわってみようと考える。それは,「理論づけ,体系化したい」欲求を抑え,境界例患者の治療を試みてきた経験の中でのわたくしの主観的な「感じ」をできるだけありのままに述べてみることである。そうした試みをするのは,境界例の治療それ自体まだ発展の途上にあり,次の発展のためには,治療者と患者とのかかわりの場の中で動いている「何か」がとらえられねばならないと考えるからであり,また,境界例の治療においては,一見客観的な理論も,その中に治療者の逆転移を含んでいる場合が多く,外見の客観性が立派であればあるだけ,新しい発展を妨げる危険が大きいと「感じ」はじめているからである。したがって,これから,患者を語りながら同時にわたくし自身を語り,そこに新しい客観性のよりどころを求めたいと思うのである。

境界例の背景

著者: 安永浩

ページ範囲:P.492 - P.499

Ⅰ.まえおき
 本稿はもともと精神病理・精神療法学会第6回大会に予定されたシンポジウム「境界領域」の一部分として筆者に課せられたものである。問題は社会・文化に関連する錯雑した領域にあり,統計的資料の提供,というような意味では,一臨床医にすぎない筆者はとうていその任ではなかった。しかし「考え方」を示してくれればよい,という主催者の要請によってついおひきうけしてしまった。その限りで私なりの一つの図式を提供することによって,その責をふさぎたいと思う。
 方法に関連して,まず二,三の点をのべておくのが便宜であろう。

おわりに

著者: 畑下一男

ページ範囲:P.500 - P.500

 “境界例”というテーマで企てられた本特集に参加すべく用意された諸氏の論文に目を通しながら,あれこれ考えさせられつつも,わたしがちらちらと脳裡に思い浮べていたことは,あの例,この例と,わたし自身が経験した臨床例のことであった。諸氏が論文にとりあげているような例や状況は,わたしも臨床的に経験してきたことである。ただ,そういってしまえば,わたしの不勉強をさらして,身も蓋もなくなってしまうけれど,わたしにとって“境界例”という概念は,あまり使用したことがない不馴れな概念であって,このさい,この特集をとおして学びたいと思っていたことなのである。その意味では,小此木氏の序論は,啓蒙的な好論文であった。わたくしは,臨床的にSchizophrenieという診断を慎重に用い,“境界例”に相当する例には暫定的に“schizophren”という形容詞を使用してきた。小此木氏が,Schmidebergらとともに,“境界例”をclinical entityとして,その存在妥当性を認めようとしていることは,わたしの経験からしても,たしかにSchizophrenieになることなく長年にわたってschizophrenである例のなかに,その類似例があることから,是認できそうである。ただ,そういったからといって,Schizophrenieの正体が明らかにされないかぎり,所詮は宙ぶらりんという憾はまぬかれない。

特別論文 精神医学の基本問題—精神病と神経症の構造論の展望

第1章 精神医学の2つの系譜—グリージンガーとシャルコー

著者: 内村祐之

ページ範囲:P.502 - P.510

初期の精神医学史の瞥見
 私は今後16〜17回にわたり,精神医学の基本問題についての綜説的展望を試みたいと思う。しかしそれは,精神医学に対する考え方が,時代と共に,いかに進歩変遷したかを見ようとする単純な目的に出づるものではない。私は,各時代における代表的研究者が,いかに精神医学を捕えたか,そして現代の精神医学が,これらの人々の研究から,いかなる影響を受けているかを示したいと思うのである。
 精神医学の現状を,混沌としたものと見るか,著しく進歩したものと見るかは,見る人によって異なるであろうが,私自身はこれを,成長過程における混沌状態と見る。近年『栄える精神医学の危機』(1967年)とか,『過渡期の精神医学』(1969年)とか題する著書が出版されているが,このような題名の著書は今までになかったものである。このことも,私と思いを同じくする人々の少なくないことを示すものであろう。それゆえに,今後の進歩のためには,過去の著名な人々の思想を十分に知って,その長所を探ることこそ肝要だと私は考える。これが,私をして,あえてこの展望を企てさせた主な動機である。

研究と報告

精神科医にとって犯罪学とは何か—犯罪学における一つの反省

著者: 西山詮

ページ範囲:P.513 - P.520

Ⅰ.序言
 精神医学が精神病や神経症などの治療学であるとともに,病理学的領域を主たる活動の場とし,そこから出発する一つの人間理解学でもあるということをまず確認しよう。治療なき精神医学は今日もっぱら非難の対象であるが,そのためでもあろうか,あらゆるものを治療の対象にするか,ないしは治療になぞらえて考えるという別の危険な面については気付かれていない。医学には限度があり,治療者には節度があるべきであって,言葉の意味をアナロジーによって拡大解釈し,「治療」をあらゆる範囲に広げることによって,かえってその本質を見失うことがあってはならない。企業におけるいわゆる「特訓」に組みこまれた心理療法を,「治療」であると呼ぶことにはわれわれは抵抗を感ずるし,精神障害者に対して保安処分として構想された「治療」処分に至っては,反治療と考えざるをえないものが含まれている。
 ある一つの現象をめぐって諸学がそのギルド的制約を開いて協力することは一般的には望ましいこととして推奨される。ところで,犯罪学と刑事政策学とは犯罪という統一的現象を総合的に研究するために互いに手をつないで益するところがあるであろうか。われわれには,一諸にしてはならない学問同士というものがあり,それぞれの学の性質を心得て,一方が他方に変質したり,一方の名において他方の見解が発表されることのないようにしなければならない,と思われる。犯罪学と刑事政策学との接合を肯定する者は,犯罪学と犯罪を成功させる学との提携をも認める者でなければならない。

西山論文に対する意見

著者: 中田修

ページ範囲:P.521 - P.523

 西山詮氏が本号前論文に「精神科医にとって犯罪学とは何か」と題する論文を発表された。それにともない,本誌の編集部が私にこの論文に対する意見を書いてほしいと求めてきた。西山氏は私の後輩であり,同じ研究仲間であり,優れた新進気鋭の学徒であるので,編集部のこの求めに応ずることには,きわめて強い抵抗を感ずる。しかし,この論文が私の恩師吉益教授の犯罪学を批判しており,その批判に当を得ないところが確かにあると思われるので,どうしてもその点だけは指摘しておかねばならない。以下にあくまでも客観的に私の意見を述べたい。
 西山氏によれば,吉益がその「犯罪学概論」の序文で述べているように,その犯罪学は狭義の犯罪学であるというが,「犯罪心理学」や,「犯罪学概論」の本文で述べているところでは犯罪の現象と原因の学のほかに犯罪の防遏の学をも包含しているので,相当に広義の犯罪学と考えられるという。つまり,吉益はその犯罪学は狭義の犯罪学であると称しているが内容的にはかなり広義の犯罪学を考えているという矛盾を指摘している。これは,つぎのように考えるならば,少しも矛盾ではない。犯罪学には従来からおよそ二つの大きな系統があり,一つは狭義の犯罪学の概念(Fr. v. Liszt)と,他は広義の犯罪学の概念(H. Grossに発しE. Seelig)である。狭義の犯罪学は犯罪の現象と原因の学であり,西山氏も述べているように犯罪人類学(犯罪身体学),犯罪心理学,犯罪社会学を包括するものである。広義の犯罪学は狭義の犯罪学のほかに犯罪の防遏の学として採証学,刑罰学などを含んでいる。吉益は,「犯罪心理学」や,「犯罪学概論」の本文のなかで,犯罪学の概念としてSeeligの広義の概念をとりあげて紹介している。そして,「犯罪学概論」の本文1頁には,広義の犯罪学の体系のなかにふくまれている「犯罪の現象と原因の学」という標題の下には括弧して「狭義の犯罪学に当る」と明記している。

紹介

外国における精神科専門医制度とその実態—ドイツ篇

著者: 宮本忠雄 ,   藤森英之

ページ範囲:P.525 - P.530

I.はじめに
 ドイツの都市へいくと,街なかでよく“Augenarzt医学博士何某”とか“Zahnarzt医学博士何某”と書かれた小さな標札が門や入口のところにつつましくかかっているのを見かける。そのなかにまじって,数は少ないが,時おり“Nervenarzt”という標札が見つかることもある。いうまでもなく,これらはみな専門医Facharztの呼称であって,“Nervenarzt”は精神科専門医Facharzt fur Psychiatrieの別名にほかならない。
 ドイツで専門医を規定しようというこころみはすでに今世紀の初頭にはじまるといわれるが,制度として規定されたのは1924年になってからである。その後も,医学の進歩や専門化にともなって規定はいくたびか改変され,現行の専門医制度Facharztwesen(もしくはWeiterbildungsordnung)が発足したのはようやく1956年のことである。この法規は,それ以後も絶えず論議され,いくらかの変更もうけてはいるが,ドイツ共和国のそれぞれの州における専門医制度の規定の範例となっている。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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