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紹介
故江熊要一先生を偲ぶ
著者: 加藤友之1
所属機関: 1伊豆逓信病院精神科部
ページ範囲:P.628 - P.629
文献購入ページに移動 去る1月27日突然心筋梗塞で倒れられ,午後7時55分群馬大学医学部付属病院において実に49歳の若さで逝去されました。昨年来御体の不調を訴えられ,今年初めより精密検査を兼ねて入院加療中であられたとはいえ,お見うけしたところ比較的お元気で,かくも唐突に不帰の客となられようとは夢にも思わず,一同呆然自失,まさに愕然といたしました。葬儀は,2月2日群馬大学医学部葬として,厳粛に執り行われ,多数が参会し,先生の生前の遺徳を偲びました。
先生は,大正13年7月29日東京にて生誕,幼少年期を名古屋で過ごされ,前橋医学専門学校の第1回生として,終戦後の昭和23年同校を卒業,直ちに前橋医科大学精神神経科教室に入局し,故稲見教授のもとで精神科医としての道を歩まれました。昭和32年には,農村医学のメッカ佐久総合病院神経科の初代医長として赴任され,斬新にして意欲的な精神医療を展開し,独創的な発想と抜群の行動力,勝れた指導性を認められて,昭和34年には,群馬大学医学部助教授に就任し,以来死去されるまで,臺弘教授,ついで横井晋教授を助けて,精神神経科教室の運営と後進の指導にあたられ,また臨床医としても日常の診療や臨床研究に全力を傾けられました。その間先生はまた学会においても活躍され,各種の役職を歴任されて,わが国の精神医療の発展と充実に尽力されました。とくに,昭和42年の地域精神医学会の設立に際しては,その設立発起人代表として,多彩な会員を擁し,熱気溢れる討論を繰り広げる異色ある学会をつくり,また昭和44年には,日本精神神経学会理事としてあえて混乱の中に火中の栗を拾われ,紛骨砕身学会のためにつくされました。
先生は,大正13年7月29日東京にて生誕,幼少年期を名古屋で過ごされ,前橋医学専門学校の第1回生として,終戦後の昭和23年同校を卒業,直ちに前橋医科大学精神神経科教室に入局し,故稲見教授のもとで精神科医としての道を歩まれました。昭和32年には,農村医学のメッカ佐久総合病院神経科の初代医長として赴任され,斬新にして意欲的な精神医療を展開し,独創的な発想と抜群の行動力,勝れた指導性を認められて,昭和34年には,群馬大学医学部助教授に就任し,以来死去されるまで,臺弘教授,ついで横井晋教授を助けて,精神神経科教室の運営と後進の指導にあたられ,また臨床医としても日常の診療や臨床研究に全力を傾けられました。その間先生はまた学会においても活躍され,各種の役職を歴任されて,わが国の精神医療の発展と充実に尽力されました。とくに,昭和42年の地域精神医学会の設立に際しては,その設立発起人代表として,多彩な会員を擁し,熱気溢れる討論を繰り広げる異色ある学会をつくり,また昭和44年には,日本精神神経学会理事としてあえて混乱の中に火中の栗を拾われ,紛骨砕身学会のためにつくされました。
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