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雑誌目次

雑誌文献

精神医学17巻11号

1975年11月発行

雑誌目次

巻頭言

作業療法の調査から

著者: 井上正吾

ページ範囲:P.1130 - P.1131

1.はじめに
 金沢学会以来,精神神経学会は精神医療の反省と展望をメインテーマとして,その中で,薬物療法,精神病質,生活療法,作業療法,精神病理学などを論じ,従来からの精神医療のあり方を検討し反省し,出来得れば将来への展望をひらくべく努力を重ねている。しかし,精神医療を支えるものは,精神医学だけでなく更に,精神衛生法体制・健康保険体制などと,国の政治体制のあり方も重大なる関連がある。さらに,日本の医療の特色であるところの85%を私的医療機関にゆだねていること,したがって経営優先・経済優先となりやすいこと。また職員削減や労働過重などの悪条件が重なり,労働者としての人権意識は昂まらず,したがって患者の人権も尊重され難い。また拠って立つ精神医学の教育研究は,ほとんどが大学に委託され,その大学は臨床よりも研究を重視している。大学講座制は一時期反省期にあったが最近はまた復しつつあるかの観がある。
 患者の人権尊重の機運は,精神科医師の反省,患者自治会や家族会の要請で,もりあがりつつあるが,いまだ与論として定着しきっていない感がある。

展望

薬物精神療法の精神力動—その後の発展

著者: 西園昌久

ページ範囲:P.1132 - P.1147

Ⅰ.国際精神療法学会と国際神経精神薬理学会,両学会の最近の総会から——薬物精神療法の意義
 精神疾患の本質の理解についての身体学派と心理学派との対立は歴史的にはげしく,治療哲学も技法もまったく別の世界のごとき様相を呈していることは不幸なことである。最近では社会因を強く信ずる人たちも現れて,混乱は一層はげしくなっている。実在としての人間にかかわる以上,多次元的なものを統一的に理解し,とりくまねばならないのに現実は決してそうではない。向精神薬療法が現れて,従来の疾病論は経験的に大きくゆさぶられているのに,上述の対峠は一向に変わらない。一応の臨床家ならば,従来内因性といわれていた精神分裂病が患者一人一人に特徴があって,薬を使えば使うほど,精神療法的に接近し,また,家族内力動の改善を望むようになり,他方,心因性といわれていた神経症者のかなりが,抗不安剤によく反応することを知っている。それなのに,そうした臨床的事実は一向に学問体系に影響を与えていない。Lehmann, H. E. 12)(1971)は向精神薬療法が精神医学の疾病分類や診断学に与えた影響についてふれているが,それもあくまでも身体論の立場である。一般にかたくなで,内心に強い不安を持っている精神病者や神経症者とかかわっていると,治療者まで自分の立場にこりかたまってしまうらしい。
 ごく最近の精神療法に関する国際会議(Oslo 1973)と神経精神薬理学をに関する国際会議(Paris 1974)との主題をみても,両者にまったくかかわりがなくて,これが同じ精神科医の学会であるのかと驚くくらいである。もちろん,専門学会であるので,それぞれの専門の最も重要で基本的かつ今日的問題が語られるのは当然であろうが,それにしても,向精神薬療法をどうとらえるかは精神科医には避けて通れない課題であるし,多くは原因不明の精神障害に陥った人たちを薬で治療するさいの,その人との関係がいかがなものかは無視してよい問題ではなかろう。

研究と報告

精神作業負荷による精神分裂病患者の視覚誘発電位の振幅減少とその回復過程について

著者: 門林岩雄 ,   中村道彦 ,   能登直 ,   加藤伸勝 ,   豊島明照

ページ範囲:P.1149 - P.1157

I.はじめに
 精神分裂病の生理学的研究には,その脳波の反復閃光刺激に対する反応が正常者よりも増強しているという佐藤ら21),稲永ら13)の報告や,その眼球運動が正常者とは異なるという島薗ら26,27),守屋ら19)の報告がある。中でも誘発電位法を用いた研究には,二発刺激を行った場合に,二発目の刺激による体性知覚誘発電位の振幅は,精神分裂病患者では正常者よりも小さいとのShagassら22,23,25)の報告や,精神分裂病患者の聴覚誘発電位は正常者よりもvariabilityに富んでいるとのCallawayら1),Saletuら20)の報告がある。
 われわれはこれまでに,精神分裂病患者の視覚誘発電位がクレペリン精神作業負荷後,振幅減少していることをみとめ14,15),報告した。

慶応病院精神神経科外来児童の実態およびその追跡調査—初診後10年以上を経過した児童を中心に

著者: 林雅次 ,   平野正治 ,   作田勉 ,   鈴木洋一 ,   久場川哲二

ページ範囲:P.1159 - P.1169

I.はじめに
 近年小児医学の細分化と社会的要請にともない,小児神経学と小児精神医学は,それぞれ固有の分野を切り開きつつある。従来の精神医学にあっても児童期,思春期,あるいは老年期といった縦軸の各期における特殊性に対応した医療の必要が説かれ,分化していく傾向にある。こうした情勢の中で,児童の問題行動をはじめ種々な精神医学的相談が,児産相談所,小児科,あるいは精神科の窓口に増えているのは事実である。たとえば育児相談や3歳児検診における母親の相談事項をみても,子供の情緒面の心配が,かなりの比率を占め1),また学校保健においても,長欠児童のうち学校ぎらいの占める比率が,この数年,とくに増大している2)われわれはこのような現状を考えるにあたり,大学病院精神科という窓口を訪ねた児童の実態を把握するため,今回初診後10年以上を経過している外来児童の臨床統計的調査を行い,併せて概略ではあるが,病状経過を中心とした追跡調査を行ったので,その結果を報告したい(なお先に当教室の中村ら3)より,外来児童の統計的研究が報告されており,本調査と年次的に重複した部分があることを付言しておく)。

子癇後に続発した特異な心因性健忘の1例

著者: 木村欣一郎 ,   生富博

ページ範囲:P.1171 - P.1177

I.はじめに
 従来より,記憶障害のうち,追想の障害に属するもののなかで,逆向性健忘19),全般健忘22)ないし全生活史健忘8,14,16,18,21,24),系統的健忘23)などと呼ばれて報告されている健忘があり,これらはその特徴より,心因性健忘と考えられ6,24,25),わが国では戦後より10数例の報告がある、このなかでも多くのものは,純粋に心因のみで説明されるものであるが,少数例には,何らかの器質的要因が関与していると考えられるものも報告されている8,16,21)
 今回,著者は,子痛発作後の回復過程において続発した系統的健忘の症例を経験した。

Cushing症候群における精神的要素について

著者: 遠藤みどり ,   吉見輝也 ,   佐古伊康 ,   谷村弘

ページ範囲:P.1179 - P.1191

I.はじめに
 種々の内分泌疾患において,その経過中にしばしば精神症状が発現する場合があることは周知である1,3)。また,ある種の内分泌疾患では,その身体症状がまま何らかの精神的stressによって発現を促されるように見えることも,同様に古くから知られている1,4,5)。これらの事実は,精神現象の生物学的側面を探究する努力を促すところが大であったとはいえ,その解明への試みは未だ推測の域を脱しないといわねばならない。Cushing症候群は,内分泌疾患中でも,上述の二通りの意味での精神的要素との関連が最もしばしば認められるものの一つといってよく,そのさい出現する精神症状の多彩さからみても,内分泌疾患全般と精神現象との相互関係を探究するための手がかりを数多く与え得るように思われる。最近の内分泌学の著しい発達が各種のホルモンおよびその代謝産物の逐時的な測定を容易にし,本症自体の成因も次第に解明されつつあるようにみえる。本症における精神的要素も,かかる見地から再吟味を加えられる必要がある。著者らはこうした意図のもとに,著明な精神症状を呈した2例の本症患者を提示し,精神状態および内分泌学的所見を初めとする身体症状の推移を,在来の記述ならびに最近の内分泌学的知見に基づいて検討しようと試みた。
 なお本稿において用いた“Cushing症候群”という呼称は広義のそれを指し,下垂体より上位に原因を有するいわゆるCushing病と,狭義のCushing症候群との両者を包括するものとする。

Pentazocine依存の2症例—その医療麻薬中毒的側面

著者: 有川勝嘉 ,   永田利安 ,   山内洋三

ページ範囲:P.1193 - P.1200

I.はじめに
 Pentazocineは1959年に開発されたbenzazocine系誘導体の合成鎮痛剤である。ただちに臨床応用も行われ,morphineに優るとも劣らない強力な鎮痛効果が認められ5),しかも非耽溺性鎮痛剤としての評価をうけ12),その後ずっと麻薬の取り扱いをうけない鎮痛剤として広く使用されている。しかし1968年Keup8)の報告いらい,欧米ではPentazocine依存の症例報告がなされるようになった。そしてJasinskiら7)の実験によれば,長期間投与によりPentazocineはmorphine依存とnalorphine依存の混合型の依存性が生じることを示し,nalorphineよりは強力でmorphineよりは弱い依存を生じるとされている。
 わが国では1970年より本剤が発売されたが,その紹介にさいして細谷6)はとくにその依存性に関して慎重な取り扱いを要することを指摘している。それにもかかわらず1972年には小片ら11),1973年には水島9)が本剤の依存例を各1例報告した。われわれは最近Pentazocine依存と思われる2症例をつづけて経験した。その2例とも,Pentazocine施用がかつてわれわれが経験した医療麻薬中毒2)のそれに類似していることに注目したので,その概要を報告する。

一側性電撃療法の臨床

著者: 錦織壮

ページ範囲:P.1201 - P.1207

I.はじめに
 本誌第14巻第9号に報告した「一側性電撃療法の試み」(以下一側性ECTと略記し,従来の古典的な電撃療法を両側性ECTと略記する)に続いて,その後に試みた症例をまとめて,早々に一側性ECTについてのclinical impressionを報告する予定であったが,種々の事情により叶わず,今回ようやくこの一文を記すことができた。前半は治療例について記し,後半は最大近の動向や薬物療法との比較に触れる。

古典紹介

—Victor von Weizsäcker—Über medizinische Anthropologie

著者: 浜中淑彦

ページ範囲:P.1209 - P.1220

 本協会が呼ばれているごとき名称の集いの場で,現代の諸問題についてお話しするようなことをしますと,家庭の平和を乱すことにもなりかねないのでありまして,そのようなことは私に許される行いでありません。むしろ,この場所で病める人間について訳注という主題を展開するのであれば,不変不易のものを,永遠とまではいえぬにしても,幾分なりと永遠につながるものをこのテーマのうちに探しあててみようと試みねばならぬのでありましょう。そういったもの,つまり一種の不滅の性質character indelebilisが医療行為や治療過程に内在することを示すのが,私に与えられた課題であり,これを解き明かしてはじめて,諸賢が私のごとき一介の医師を本会にお招き下さった理由も納得できるというものでありましょう。私の信ずるところでは静的な調和ある思想をもってしては決して統一され得ぬ2つの領域——つまり医学と哲学—の間に,そのような課題によって引かれた対角線,この対角線はなるほどきわめて時宜を得たものではありましょうが,ここではむしろ,その時代に合わぬ永遠の側面のほうを強調しなくてはならぬことになるでしょう。ですから人格医学Persönlichkeitsmedizinなる時事問題は,確かに焦眉の急を告げるものではありますが,この問題に話が結びつくことがあるとしても,それは必要にせまられてのこととしてではなく,存在論的問題として論じるという以上の意味をもつものではありません。「我々は医師として《人間の全体》を治療せねばならぬ」という現代医学を二派に別つ閧の声から私の話を始めるのも,ただただこの意味においてであります。そういつた大変な,途方もないともいえる医師の主張は,一方において患者の志向に対する答でもあるのですが,それが正当化されるのはただ,治療過程もしくは治療行為が存在論的に人間を越えたところに導く場合のみであります。ジークムント・フロイトSiegmund Freudはその自叙伝において,彼の青年時代,老シャルコーCharcotがかつてヒステリーに話が及んだ時,「実際必ず背後には性的なものがひそんでいる,《いつもいつもだtoujours, toujours》」という言葉をはさんだことがあり,その時消しがたい印象をうけ,「それがわかっているのなら,どうしてそれと口に出して言わないのだろうか」と自問したことがあると語っております。その同じ偉大な解釈家であるフロイトが晩年ある私との対話で,患者が遭遇する不幸によってその神経症が治癒するのをよく見かけると語ったのであります。この言葉を聞いて私は心中ひそかに,「それがわかっているのなら,どうしてそれと,口に出して言わないのだろうか」と思わざるを得なかったことでした。科学では,ある時代はただ一つのことしか語らず,他のことについては知ってはいても黙して語らぬのが,ほとんど法則といってよいかに見えます。だが,一つにつながる医学学説の片方の端では生物学的衝動などが疾病要因とされ,他の端では人間の不幸のようなことが治癒要囚と見なされているのは奇妙なことではないでしょうか,そして現代の医学者がそもそもこのような会話をすること自体,さらに奇妙というべきではないでしょうか。そのような発言のうちにはそもそも,病める人間についてのどのような独自の考えがひそんでいるのでありましょうか。このような思いを,インシュリンやビタミン,外科学や放射線治療と一つの孤のうちにまとめてごらんになれば,現代医学を豊かにしもすれば手を拡げさせすぎもし,それのみか今にも破裂せんばかりの危機に陥し入れている翼幅の大きさが,直ちに理解されるでありましょう。
 医学は病的なものの広大な領域に向けられたその鋒尖を一段深く突き進め始めたのですが,その向かう所は要するに,人間が共同体に属する存在として,つまり家族,社会,国家の生物学的一員として罹る疾病に他ならぬのであります。孤立,他の人間との葛藤,価値の喪失,そしていわゆる不治の病--これこそ新しい精神力をふるい起こして解決すべき新しい大問題なのであります。他でもなく神経症に,こういった医学発展途上の闘いが湧き上がってくる一つの源があるということは決して偶然ではありませんが,しかしそれは一徴候にすぎません。といいますのは,神経症とは患者が自分の置かれている水準より低い生的水準において解決しなければならぬ個人的実存葛藤であるからです。かくして価値概念が医学に入ってくることになります。とはいっても孤立,葛藤,価値喪失,不治といったこれらの受苦は遍在するものでありまして,心的には健康といわれる,いわゆる器質疾患の患者にも存在しない訳ではありません。どのような器質疾患例も,必ず神経症と同じ課題を提起してきます。このようにして今日我々は,一旦患者の苦痛,不安,様々な弱さ,体感,苦悶といったものがすべて実存の危機の表現形態であることを理解してしまった以上,そういった患者の受苦Leidenを器質的に説明することだけではもはや満足できない状態におかれています。しかし同じ症状は自分の身体の危機と同時に人と人の間にある人間としての実存の危機をも指し示しています。胃潰瘍,脳腫瘍,心疾患などと,心気症,ヒステリー,葛藤によるといった様様な神経症との間には,症状の表現では大幅に共通する点があります。このように症状が奇妙にも部分的に合致するということは,少なからぬ意味を内包する問題であります。それは,疾病概論allgemeine Krankheitslehreと呼んでよさそうなもの,つまり病んでいることKrankseinのすべてに同時に妥当するようなことが存在するのかもしれない,否,必ずや存在するのではないかということを示唆しています。ここで白日のもとにもたらされたかに見える構造はおそらく病んでいること自体によってのみ,さもなくば普通の人間なら狂気Wahnsinnとひき較べるであろう愛,恍惚,絶望,死といった状態によってのみ,露わにされるようなものであります。もっとも精神科医であれば他でもない妄想Wahnの概念をつくり出し,それによって問題を困難共々患者に向かって投げ返し,かくしてこういった状態から我身を守るでもありましょうが。

人間学,とくに医学的人間学についての覚書—解説にかえて

著者: 浜中淑彦

ページ範囲:P.1220 - P.1231

 上に訳出したV. v. Weizsäcker(1886-1956)の論文は,1926年彼がはじめてSiegmund Freudを訪ねたWienと,翌1927年2月,既に数年来の知己であった哲学者Max Schelerの招きによりKolnのカント協会で行った講演であり,彼の医学的人間学―その生証人として後に彼はSchelerとFreudをあげた―の出発点となったにとどまらず,今世紀20年代における医学のみならず他の学問の領域における新しい入間学誕生の一標石ともなった記念碑的著作であるが,V. v. Weizsäckerの医学的人間学とその周辺については,最近既にかなり詳しく述べる機会(浜中,1972)があったので,ここでは繰り返しを避け,人間学および医学的人間学の歴史的背景について―今世紀の医学的人間学には,後述するごとく19世紀初頭のそれの復興とみなし得る一面もある―若干の補説を試みたい。
 人間学はAnthropologie(独)の訳語である。この西欧語(ラテン語ではanthropologia,英語ではanthropology,仏語ではanthropologie―以下A.,医学的人間学はm. A. と略す)は,ανθρωποδ(人間)とλογοδ(言葉,論述,学)なるギリシャ語より16世紀につくられた合成語であるが,明治初年わが国に西洋科学が紹介されて以来,人身学・人学・人道・人性学(西周,昭和6年まで),人類学(井上哲次郎,同14年),人間学(大月隆?,同30年前後)など様々な訳語が当てられてきたことからもうかがわれるとおり,―今日でこそわれわれが人間学と人類学のもとに理解する2つの主たる意味を付与されるに至ったとはいえ―歴史的に,また各国の精神史的伝統の相違に応じて,様々に異なる意味で用いられてきた。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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