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文献詳細

雑誌文献

精神医学17巻11号

1975年11月発行

文献概要

古典紹介

—Victor von Weizsäcker—Über medizinische Anthropologie

著者: 浜中淑彦1

所属機関: 1京都大学医学部精神神経科

ページ範囲:P.1209 - P.1220

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 本協会が呼ばれているごとき名称の集いの場で,現代の諸問題についてお話しするようなことをしますと,家庭の平和を乱すことにもなりかねないのでありまして,そのようなことは私に許される行いでありません。むしろ,この場所で病める人間について訳注という主題を展開するのであれば,不変不易のものを,永遠とまではいえぬにしても,幾分なりと永遠につながるものをこのテーマのうちに探しあててみようと試みねばならぬのでありましょう。そういったもの,つまり一種の不滅の性質character indelebilisが医療行為や治療過程に内在することを示すのが,私に与えられた課題であり,これを解き明かしてはじめて,諸賢が私のごとき一介の医師を本会にお招き下さった理由も納得できるというものでありましょう。私の信ずるところでは静的な調和ある思想をもってしては決して統一され得ぬ2つの領域——つまり医学と哲学—の間に,そのような課題によって引かれた対角線,この対角線はなるほどきわめて時宜を得たものではありましょうが,ここではむしろ,その時代に合わぬ永遠の側面のほうを強調しなくてはならぬことになるでしょう。ですから人格医学Persönlichkeitsmedizinなる時事問題は,確かに焦眉の急を告げるものではありますが,この問題に話が結びつくことがあるとしても,それは必要にせまられてのこととしてではなく,存在論的問題として論じるという以上の意味をもつものではありません。「我々は医師として《人間の全体》を治療せねばならぬ」という現代医学を二派に別つ閧の声から私の話を始めるのも,ただただこの意味においてであります。そういつた大変な,途方もないともいえる医師の主張は,一方において患者の志向に対する答でもあるのですが,それが正当化されるのはただ,治療過程もしくは治療行為が存在論的に人間を越えたところに導く場合のみであります。ジークムント・フロイトSiegmund Freudはその自叙伝において,彼の青年時代,老シャルコーCharcotがかつてヒステリーに話が及んだ時,「実際必ず背後には性的なものがひそんでいる,《いつもいつもだtoujours, toujours》」という言葉をはさんだことがあり,その時消しがたい印象をうけ,「それがわかっているのなら,どうしてそれと口に出して言わないのだろうか」と自問したことがあると語っております。その同じ偉大な解釈家であるフロイトが晩年ある私との対話で,患者が遭遇する不幸によってその神経症が治癒するのをよく見かけると語ったのであります。この言葉を聞いて私は心中ひそかに,「それがわかっているのなら,どうしてそれと,口に出して言わないのだろうか」と思わざるを得なかったことでした。科学では,ある時代はただ一つのことしか語らず,他のことについては知ってはいても黙して語らぬのが,ほとんど法則といってよいかに見えます。だが,一つにつながる医学学説の片方の端では生物学的衝動などが疾病要因とされ,他の端では人間の不幸のようなことが治癒要囚と見なされているのは奇妙なことではないでしょうか,そして現代の医学者がそもそもこのような会話をすること自体,さらに奇妙というべきではないでしょうか。そのような発言のうちにはそもそも,病める人間についてのどのような独自の考えがひそんでいるのでありましょうか。このような思いを,インシュリンやビタミン,外科学や放射線治療と一つの孤のうちにまとめてごらんになれば,現代医学を豊かにしもすれば手を拡げさせすぎもし,それのみか今にも破裂せんばかりの危機に陥し入れている翼幅の大きさが,直ちに理解されるでありましょう。
 医学は病的なものの広大な領域に向けられたその鋒尖を一段深く突き進め始めたのですが,その向かう所は要するに,人間が共同体に属する存在として,つまり家族,社会,国家の生物学的一員として罹る疾病に他ならぬのであります。孤立,他の人間との葛藤,価値の喪失,そしていわゆる不治の病--これこそ新しい精神力をふるい起こして解決すべき新しい大問題なのであります。他でもなく神経症に,こういった医学発展途上の闘いが湧き上がってくる一つの源があるということは決して偶然ではありませんが,しかしそれは一徴候にすぎません。といいますのは,神経症とは患者が自分の置かれている水準より低い生的水準において解決しなければならぬ個人的実存葛藤であるからです。かくして価値概念が医学に入ってくることになります。とはいっても孤立,葛藤,価値喪失,不治といったこれらの受苦は遍在するものでありまして,心的には健康といわれる,いわゆる器質疾患の患者にも存在しない訳ではありません。どのような器質疾患例も,必ず神経症と同じ課題を提起してきます。このようにして今日我々は,一旦患者の苦痛,不安,様々な弱さ,体感,苦悶といったものがすべて実存の危機の表現形態であることを理解してしまった以上,そういった患者の受苦Leidenを器質的に説明することだけではもはや満足できない状態におかれています。しかし同じ症状は自分の身体の危機と同時に人と人の間にある人間としての実存の危機をも指し示しています。胃潰瘍,脳腫瘍,心疾患などと,心気症,ヒステリー,葛藤によるといった様様な神経症との間には,症状の表現では大幅に共通する点があります。このように症状が奇妙にも部分的に合致するということは,少なからぬ意味を内包する問題であります。それは,疾病概論allgemeine Krankheitslehreと呼んでよさそうなもの,つまり病んでいることKrankseinのすべてに同時に妥当するようなことが存在するのかもしれない,否,必ずや存在するのではないかということを示唆しています。ここで白日のもとにもたらされたかに見える構造はおそらく病んでいること自体によってのみ,さもなくば普通の人間なら狂気Wahnsinnとひき較べるであろう愛,恍惚,絶望,死といった状態によってのみ,露わにされるようなものであります。もっとも精神科医であれば他でもない妄想Wahnの概念をつくり出し,それによって問題を困難共々患者に向かって投げ返し,かくしてこういった状態から我身を守るでもありましょうが。

掲載誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-126X

印刷版ISSN:0488-1281

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