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雑誌目次

雑誌文献

精神医学17巻13号

1975年12月発行

雑誌目次

臨時増刊号特集 精神医学における日本的特性 巻頭言

特集にあたって

著者: 加藤正明

ページ範囲:P.1346 - P.1347

 この特集は昭和45年以来続けられてきた「社会精神医学」の第5集となっている。土居さんに代って編集委員になられた荻野さんと相談の上,今度の執筆者になって頂いた2〜3の方々と話し合った結果,「精神医学における日本的特性」という古くて新しいテーマが選ばれることになった。そして,この考えの裏づけとなるトランスカルチュラル精神医学の概念をめぐって,荻野氏他の力作がのせられ,この概念についての座談会には,人類学の中根さんと心理学の河合さん,精神医学から木村氏,逸見氏のご出席を願った。
 特集の日本的特性について,いろいろな意見が出たが,大別して精神療法における特性と治療状況に関連する特性の2つの領域に分けることになった。前者については,他の雑誌でも取り上げているが,ここでは森田療法,内観治療,精神分析療法および人間学的心理療法の日本的特性をめぐって,永年おのおのの療法を続けてきた4人の執筆者の最近の考え方を,特にトランスカルチュラルな観点から書いて頂いた。したがって精神療法における特異性と普遍性の問題が中心になっており,近藤氏は森田療法の普遍性を強調し,村瀬氏は「素直さ」をめぐって内観治療の文化拘束性と普遍性について述べている。東洋的精神療法の代表とされる森田療法と内観治療の国際的,文化的普遍性が述べられたことは,岩崎氏が日本における精神分析療法の発展について,教育制度や治療構造の差を指摘し,特に日木人の退行強調傾向に注目していることとともに,文化的差異を越えての普遍性を主張していることが興味を惹く。特に霜山氏の論文は,日本的特性として「タテ社会」や「甘え」といったキーワードによって割り切ることの問題点を指摘しつつ,むしろ稀有ではあるが特性的なものとの関わりをもつ症例からの発想を重要視している。そこでは治療者自身が体験したある女性患者の特異な状況が述べられている。この患者は冷たい人間関係の中で愛情を拒み続けてきたが,治療者の温かさに出会った時,希死の念慮を生じている。論者はこれをソ連における強制収容所における自殺例の記録と対比しており,このような稀有な症例に対する反応が文化的に異なることを重視している。ここから源氏物語に示されるサナトス志向性や,死の三人称化による希死思想へと連がっていく発想は,極めて魅力的である。

A.精神医療にみられる日本的特性

森田療法に関連して

著者: 近藤喬一

ページ範囲:P.1348 - P.1354

I.はじめに
 精神療法がある特定の社会の文化的環境や価値体系と,その本質において密接かつ不可分の結びつきがあることは当然である。このことを,筆者1)は以前他の論文で指摘した。すなわち,いかなるタイプの精神療法であっても,その治療法の根底にある個人や人間関係についての概念や規定の仕方,更には精神的に健康であるということをどのような観点から規定するか,疾病観はどのようなものであるか,などの事がらは,その精神療法が生まれた社会の中で歴史的に形成されてきた,その社会や集団に固有な内的および外的生活様式の総体―つまり文化と切っても切れないかかわりがあることを示している。森田療法は,わが国における日本人が創始したほとんど唯一の精神療法であるといっても差支えあるまい。この意味でこの治療法の拠って立つ原理なり技法なりが,この国に固有な土着の文化に深く根ざしたものであることは事新しく言うまでもない。ほとんどそのすべてといってよいほど,わが国の精神医学における主立った思想や治療技術が欧米からのいわば外来種である中で,森田療法は例外的に,現代日本の精神医学を代表する唯一の“国産”の思想といってよいだろう。ここで思い出されるのは,森田がその生前に,みずからが編み出した治療法が海外でも理解されることを期待して,一度ならず二度までもドイツの学界に原稿を送ったが,よくわからないという理由でそれが結局受理されずじまいに終わったという事実である。今日,この同じ治療法が欧米その他の外国の研究者たちの間に関心と興味をひき起こし,わざわざその研究のために来日して単に概念上の知識を摂取するだけにとどまらず,とりわけ欧米人には理解も実施も困難だということが定説になっている,いわゆる臥褥療法を含めた入院治療をみずから体験したり,あるいは実際にこの治療法を行っているひとびとすらいるというような現況に思い及ぶ時,改めて今昔の感にうたれるのはひとり筆者のみではあるまい。ひとの考えは時代や文化とともに生きているのであり,時代が変わり文化が変われば,それに伴って思想も変化するのである。森田の生きていた当時,了解困難ということで拒否され無視されてきた森田療法が,今日海外にもその同調者を見出すことができるようになってきているのは,それだけ時代や文化の変化が背景にあったことによるだろう。日本人は古代から外来文化の摂取に熱心であったが,特に明治以来近代化への道をひたすらに突き進む過程の中で,欧米の文物を貪欲にとり入れ続けてきた。その結果,そのときどきの様々な外国の物や思想が紹介され消化され吸収され,それが長期にわたって日木が比較的高度な水準の文明を保ち続けることを可能にした,いわばエネルギーの源泉になってきたことは疑いない。しかしその反面,あまりにも急速かつせっかちにそれらを受け取ってきたために,そしてまた,外からの文化に対してあまりにも敏感で好奇心を持ちすぎたために,土着の文化の育成がおろそかにされてきたことも事実であろう。戦後になって再び海外の研究者との交流が復活するにつれて,徐々に森田療法が彼らの間に知られるようになった。特に,アメリカの精神療法家によってその価値が認められ,そのことを通じてもともとこの療法の発祥の地であった日本でも,いわば逆輸入という形で再評価されるという皮肉な現象が起こったのである。森田が彼の治療法を創始してからすでに60年に近い歳月が流れているが,その間わが国の専門家,特に講壇精神医学の立場からは,ごく一部を除いてこれが大して深い精神病理学理論の裏づけのない単なる民間療法であるというふうに,比較的最近に至るまで不当に低くしか評価されなかったことはいなめない事実であろう。このような事情はなにも精神医学の中の出来事に限らず,その他の分野でも起こったことであって,日本人の舶載尊重の傾向は今に始まったことではない。またそれとともに,我々が物事の技術的な面にのみ重きをおいて,その成立の根底にある思想なり哲学なりを不当に軽視する傾向のあることも指摘する必要があるだろう。このことは我々日本人が欧米文化の産物としての科学,芸術,宗教などを摂取する場合にも如実に現れていることはよく言われる通りである。このような態度が例えば精神医学の分野においてごく少数の例外を除けば,今日までわが国独自の思想,理論や方法が育ってこなかった一つの理由であろうと思われる。精神療法がこの国で育ちにくかったのもこのように事情と関係があるだろうし,現に今日日本には多種多様のタイプの精神療法が紹介されてはいるが,森田療法以外はすべて海外から導入されたものである。我々が海外に出て日本の精神医学についての説明を求められた場合,いわゆる森田療法家でなくても,どうしてもこの治療法のことを口にせざるを得ないだろう。この意味で森田療法およびその理論的根拠である森田理論が,今日改めて関心の対象になってきていることは十分理由のあることだと思われる。
 本稿に与えられた題名の意図するところは,森田療法における日本的特性を明らかにするということになるだろうが,実はこれは決してたやすい課題ではない。今まで述べてきたように,この治療法は全く森田独自の発想になるものである。したがって,西欧の精神医学の伝統とは本質的に無関係に成立したものであって,この意味では日本独特の治療法である。しかし,この場合にこの「日本独特」ということばの意味内容に思いをいたすことなく,安易に素通りしてしまうことには問題がある。森田はみずからをKraepelinの未見の弟子と称したことがあるといわれているが,彼がその当時の西欧医学の思想や科学的方法論によって教育され訓練されたことを心に留めておく必要があろう。森田療法が今日我々がみるような治療体系をもった治療法として完成されるまでに,約20年にわたるいわば準備期間があった。この間森田は,当時主として西欧から輸入されたいくつかの治療法を熱心に実地に試みた。当時の用語でいういわゆる神経衰弱(neurasthenia)が,中枢神経系の疲労ないしは衰弱に関係しているという,森田が精神科医としての経歴を踏み出した当時の考え方に従って,最初は主として生物学的に指向された方法を採用してみたが,間もなくこれらの方法がほとんど効果を発揮しえないことに気付いた。とかくするうちに,もともと探究心の盛んな彼は次から次へといろいろな治療法を経験する努力を怠らなかった。今この問題を立ち入って論ずるゆとりはないが,それらのうちの主なものをいくつか挙げてみると,S. Weir Mitchell(1830-1914)の安静療法(rest cure),作業療法,Otto L. Binswanger(1852-1929)の生活正規法,Paul-Charles Dubois(1848-1918)の説得法(Persuasionsmethode),催眠療法などである。森田はこれらの治療法を身をもって体験し,そのうちのあるものはみずからの療法の中にとり入れたものもあるが,むしろこれらが,実際の治療の上ではほとんど不毛であったことから否定的媒介の役目を果たしたという意味で,後年の森田療法の成立における発見的原理となったというほうが正確であろう。

内観療法に関連して

著者: 村瀬孝雄

ページ範囲:P.1355 - P.1365

Ⅰ.内観とは
 内観療法は日本独自の広義の精神療法の一つとして,近年,医学領域においても着目されてきた方法である。その特徴については,奥村,佐藤,山本14)(1971),あるいは,佐藤16)(1974)の編による成書に詳しい。この方法では,特に1週間の目覚めている時間のほとんどすべてを内観に当てる集中法が重視されている。集中法の骨子は,周囲から最小限,びょうぶで隔離された狭い空間に身を置いて,自分が過去に深いかかわりを持った人々を1人ずつ選び出し,その人に対して自分はどういうことをしてきたかを3つの観点に立って逐一想起するのである。その観点は,「して貰ったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」の3つである。面接者は約2時間おきに内観者のもとを訪れ,その時に調べていることの要約を2〜3分の間聞き,やり方の指導や支持を与えたりあるいは聞き役として援助したりする。
 3〜4日目あたりから,内観者は自分がいかに多くの配慮,愛情を身近かな人々から受けて今日に至ったが,それに対して彼のほうからは何のお返しもしておらず,これまで気付かなかった実に多大の迷惑をそれらの人々にかけていたと実感をもって気付くようになる。感謝,負い目,罪の気持が互いに織りなされるように交々湧いてくるにつれ,彼の自己像,他者像にも著しい変化が生ずる。安らぎ,謙虚,希望,償いへの自発的な願いなどが現れてもくる。心身医学的症状の改善が生ずることも稀ではない。

精神分析療法に関連して

著者: 岩崎徹也

ページ範囲:P.1366 - P.1371

Ⅰ.わが国における「精神分析療法」
 精神分析療法psychoanalysisということばが,わが国の精神医療の場で用いられるようになってから,既に長い年月がたっている。しかし,わが国におけるこのことばの用いられ方には,それ自体にかなり特徴的なものがある。つまり,欧米諸国で精神科医や心理学者たちがpsychoanalysisということばを用いる時に意味する内容と,わが国で精神分析療法ということばが通常意味する内容との間にはずれが認められる。それらの「ずれ」について,一言で言うとすると,欧米ではpsychoanalysisということばがかなり狭義に用いられるのに対して,日本では精神分析療法ということばが非常に広義に用いられているということになろう。
 精神分析療法psychoanalysisとは,精神分析の理論や技法に基づく精神療法であることはいうまでもない。しかしわが国では精神分析的な理論・技法によって行われる精神療法が,一般に,すべて精神分析療法と呼ばれる傾向が著明である。それに対して,欧米における場合,それがどんなに精神分析的な原理によっている精神療法であっても,必ずしもpsychoanalysisとは言わないことが多い。つまり,欧米では精神分析的な諸原理にのっとった精神療法の中でも,以下に述べるような諸条件を満たすものだけをpsychoanalysisと呼んで,これらの条件を満たさない他の精神分析的な接近を,精神分析的精神療法psychoanalytic psychotherapy,精神分析的な方向づけをもった精神療法psychoanalytically oriented psychotherapy,あるいはたんに精神療法psychotherapyなどと呼んで区別しているのが日常的である4,15)

人間学的心理療法における日本的特性

著者: 霜山徳爾

ページ範囲:P.1372 - P.1378

 人間学的心理療法というものをいかなるものと了解したらよいのか。それは森田療法とか精神分析療法とか最初から一義的に心理療法を志向するものと同列に論じてよいのか,これらの疑問がまず生じる。そもそもそのようなものは存在しないという人もいるであろう。それも一つの見解である。しかし常識的には,「現存在分析による心理療法」ということであろう。しかし現存在分析というのは元来は精神医学の方法論であり,基礎論でもあって,それ自身は心理療法ではない。しかしそれでは何故にビンスワンガーが,おのれの学を呼んで「ラポールの心理学」としたのか。それは人間性に対する存在論的構想と現象学的接近によって,轍鮒の急にある患者の存在様式の変様を知り,またそれを患者にも深く洞察させて,虚生の憂いから解き,人格の成熟を期待したからである。その意味では不肖に似たりとはいえ心理療法の基礎を本質的に形成しているといえよう。事実,ボスやコンドロウの著作はその臨床例を示している。しかしこのような人間学的定位はおよそ偏狭でない,すぐれた心理療法家ならばquestio factiとして既に行ってきているものである。現存在分析はそれをquestio jurisとして行うのである。ただ技法的には精神分析に極めて重複するが,解釈学が全く異なるし,治癒像も異なっているといえよう。もっとも現実には,心理療法というものにとっては,理論がまず存在して,それから患者が存するのではない(多くの心理療法家は不思議にもその誤りを犯している)。反対に,患者があって理論が初めておくれて徐々に出てくるというべきであろう。もともと治療法に名称をつけるよりは,それぞれ個別に多様的な患者の世界そのものの理解が問題なのである。長い臨床経験を持ち,労苦多い道程を経た心理療法家ならそのことをよく知っている,まことにどの理論にも妥当せず,どの療法にも抵抗し,そして意表外のアネクドータルな行動で治療者に長く記憶される患者がいるものである。その意味では治療理論上の排他的な論争―学習理論などに固執する人々によくみられる―は単に蝸牛角上の争いであることが多い。また実際に臨床場面での一つの療法の絶対化は,それ自身,患者にとって不幸な果実を生むことになる場合もある。ファウストの内で述べられているように,人はおのれに似たGeistしか呼び出せないことは知っておく必要がある。しかしすぐれた心理療法といわれるものは,もともとは文化の差を超えた,相互に親和性の高いものであって,使用する術語は異なっても,結局は人間の無限の生機,本来の面目に至ることを目指す点では共通である。このような表現は決して哲学的,形而上学的な表現ではなく,最近の人間行動学の進歩が示すように,系統発生的な歴史によってつみかさねられた生得的なものを真に生かし,かつ良く社会化し,制御することである。したがって問題であるのは,生物学的であって,かつ精神的な,普遍性における人間性である。それはその最も深いところにおいては文化の差にほとんど影響されないものである。しかし重要なことは,それだけに逆にそこでわずかでも現れてくる文化による相違は,それだけ一そう意味深くなるということである。
 しかしそれだからといって問題はそれほど簡単ではない。他方では治療者の人格というものが文化の差などを容易に乗りこえる面も持ちうるからである。しかしそれは後で触れるので,ここでは考慮の他におくとしても,今日のように文化交流によって文化の多様化と輻輳化が進んでいる時に,「日本的特性」という,いわば一つの一元化的発想そのものが問題であろうし,その特性といったところで甚だ曖昧でかつ抽象的な性質である。それに的確に答えることなど誰でも躊躇を感じないわけにはいかない。そもそもそのような「特性」があるのだろうか,という否定的な考え方もあるであろう。この場合に文化人類学者や精神医学者などによって,例えば「タテ社会」とか「甘え」とかいうキイワードが唱えられて,それが結論であるかのように,それで簡単に割り切ることがよく行われるが,それはこれらのキイワードを言い出した人の意にも反するであろう。何故ならば彼らはそれでいわゆる日本的特性がすべて把えられたなどとは少しも思っていないだろうからである。また社会心理学的に大規模な見本数で「日本的特性」なるものの意識調査をしても分明になるものでもない。もしいわゆる「日本的特性」なるものを把えようとするならば,むしろ従来のような表面的な一般性という形で特性を見出そうとする通常の発想とは別なもの,すなわち「稀有であって,しかもそれによって象徴されるものがその特性的なものとのかかわりを示す症例」を通して考えることはできないだろうか。すなわち,人間性とその文化は系統発生的にしっかりと裏付けられた一般的な蒼古的性質の下にあるから,それだけに文化上のいわゆる特性的なものは或る例外的な特殊な症例の中に一瞬それが現れる,という点こそ考慮さるべきではないだろうか。(なお「日本的特性」ということを先に指摘したように治療者の人格の「日本的特性」と解して考察することも極めて興味深い接近の仕方である。しかしこれも甚だ複雑な内容であり,簡単に扱うことはできない。心理療法家というのはどこの国でも一種のアウトサイダーであることが多く,それは一向にかまわないとしても,どの文化圏でも大家になるほどしばしば言行不一致であり,ときにはその社会的名声が家族や弟子の不幸の上に成り立っていることが多いから,まさに手のつけられない課題である。しかし心理治療家というものは清苦の山林の士にはなれないものであるとつくづく思う)。

B.治療状況の日本的特性

治療共同体の日本的特性

著者: 鈴木純一

ページ範囲:P.1380 - P.1385

I.はじめに
 近年わが国においても,治療共同体(therapeutic community)という言葉があちこちで語られ,学会でもとりあげられるようになってきている。しかしながら,私の知る範囲では,治療共同体実践の成果の報告は数少なく,十分な検討がなされているとはいえない現状である。またこれまでに発表された成果についても,治療共同体の定義ないしはイメージといったものにかなりの異同がみられ,混乱があるように思われる。これはわが国に限った現象ではなく,欧米でも種々の混乱を経てそうした問題点が整理されつつある。それは,治療共同体という概念の有するあいまいさの故というよりも,この概念が何よりもprocess(過程)を重んずるために実践者によって特色が分かれるのは,むしろ当然というべきかもしれない。
 したがって日本における治療共同体の特性を論ずる場合も,個々の治療共同体の特徴を無視するわけにはいかず,その中から「日本的」といえる属性を抽出するのは容易ではない。それ故,筆者はここで,治療共同体という概念自体の有する特性を明らかにするようつとめ,その上で,筆者が個人的に体験した日本での治療共同体のあり方についての観察を述べようと思う。「個人的」と断ったのは,先にも述べたように,実践者自身の有する特性の影響が,治療共同体という機構形成の重要な因子となるからである。このようないわば個人的な観察が,数多く積み重ねられることにより初めて,日本人による治療共同体の特性が明らかになろうと考えられる。

看護婦・患者関係にみられる日本的特性

著者: 小倉清

ページ範囲:P.1386 - P.1393

I.はじめに
 本題に入る前に,与えられた標題から考察される二,三の事柄にまず触れてみたい。
 標題が単に「特性」ではなくて,「日本的特性」となっていることからして,外国における特性との対比において日本ではどうなのかということが暗にひめられているようである。あるいは対比とまではゆかなくても,外国にはなくて,日本に特徴的なこととなるのであろう。外国といっても私はアメリカのことしか知らないし,またアメリカといっても広大な国であるだけに,場所によって大変違う点もあろうから,その一部についてしか私は知識をもち合わせない。しかし同じことは日本についても小規模ながらいえるであろう。私は日本全体の状況を広く把握しているわけではない。いずれにしても私個人の狭い体験からしかものがいえないのであって,ここで述べられることは包含的なものではなく,私の個人的な印象に基づく一つの視点を提示するという程度の事柄にすぎないことをまず頭においていただきたい。

精神病院における患者役割意識の日米比較研究

著者: 山本和郎

ページ範囲:P.1394 - P.1404

 この論文では日本のある精神病院の中の患者生活に存在する役割問題と役割概念に関する6つの有意味な因子をとりだした。更に,日本と米国の患者の間にある対人関係と要求表出の様式の文化的差異について考察した。日本では,病院スタッフ・患者関係は恩情的で家族に似た関係であり,日本の患者はたえず自分の受身的な依存要求を満足させるために病院スタッフに目を向けている。回復する手だてとしてそのスタッフからの恩恵を信ずるままでいることである。米国では,病院スタッフ・患者関係は,日本よりも感情的でなく,より機能的である。米国の患者は病院スタッフとの関係を契約的なものとしてみ,依存の直接的表明は少ない傾向がみられる。これらの文化的差異は日本と米国の一般的な社会文化による依存要求に対するコントロールと受け入れ方の差異として一部分理解されることができる。

老年精神医療の日本的特性

著者: 長谷川和夫

ページ範囲:P.1405 - P.1412

Ⅰ.まえがき
 わが国に系統的な老年精神医療が実在しないのにもかかわらず,標題のごとくその日本的特性について述べることは,もともと不可能なことであろう。
 しかしながら,われわれ臨床医が,日常の診療の中で,老年期の患者が次第に増加し,精神医療の中でも,大きなウェイトを占めつつあることは,体験していることである。そこで老年精神医療が,今後,精神医療の中で,健全な発展をしてゆくことを期待して老年精神医療に直接に,あるいは間接に関係している,広い老人の医学的および社会的問題をも含め,老年期の精神疾患の実態などについても,諸外国のそれと比較しながら,日本にみられる特徴点を述べてみようと思う。

わが国精神医学・医療の輸入文化的特性

著者: 小此木啓吾

ページ範囲:P.1413 - P.1419

I.はじめに——方法論上の問題
 広くわが国の学問,文化,社会諸制度,とりわけ明治以後の,“日本的特性”を語ろうとすれば,それらがいずれもその起源において,欧米からの輸入品から成る一種の輸入文化としての側面を持つ事実に注目せざるを得ない。そしてわが国の精神医学・医療の“日本的特性”についても当然,まず第一にこの特質をあげねばならない。
 そこでもし,我々がこの見地からわが国精神医学・医療の特性を系統的に明らかにしようとすれば,さしあたり次の2つのアプローチが提起されるであろう。

座談会

Transcultural Psychiatryについて

著者: 加藤正明 ,   逸見武光 ,   木村敏 ,   河合隼雄 ,   荻野恒一 ,   中根千枝

ページ範囲:P.1420 - P.1432

はじめに
 司会(荻野) 今日は,transcultural psychiatryという比較的新しい学問をめぐって,これに造詣のふかい加藤正明先生,木村敏先生,逸見武光先生,それに隣接領域の側からの御発言や御教示を頂く目的で,ユンク心理学の河合隼雄先生と文化人類学の中根千枝先生においで頂いたわけです。土居健郎先生にもぜひ出席して頂く予定だったのですが,残念なことに御都合がわるくてどうしても出られないことになりました。
 ところでtranscultural psychiatryという術語は,ここ10年の間に,多くの精神医学者によって称えられるようになり,専門誌も出来ているわけですが,この学問が例えば比較精神医学,文化精神医学,民族精神医学,横断精神医学(cross-cultural psychiatry)またひろく社会精神医学,地域精神医学などとどう違うのか,しかもtranscultural psychiatryは,これらのどの精神医学よりも新しい用語なのですが,わざわざこの用語を創作する必要性が,どこにあったのか,この辺から話を始めたいと思います。

展望

わが国におけるTranscultural Psychiatric Researchの動向

著者: 荻野恒一 ,   久場政博 ,   溝口純二 ,   庄司順一

ページ範囲:P.1434 - P.1457

I.はじめに
 ここ10年余りの間に,transcultural psychiatryの領域に属する業績が,世界的に急速に増えてきている事情については,1971年に本誌の「展望」において荻野が述べたが116),その後もこの事情は変わりなく,むしろ国際的交流がますます要求される気運になってきている。我々はこの動向に応えるために,以下に述べるような仕方で,わが国における社会精神医学的,ならびに比較・文化精神医学的業績を通覧し,とりわけ最後に表示した文献182篇を精読し,1篇1篇について討論を進めていった。本論は,この討論を要約した報告である。

古典紹介

—E. Kraepelin—Vergleichende Psychiatrie

著者: 宇野昌人 ,   荻野恒一

ページ範囲:P.1458 - P.1462

 様々の人間集団における精神障害の比較考察,つまり,一般には性別,年齢別,職種別などで行われているが,これは,基本的には,2つの方面において,精神医学の問題解明に寄与し得る。すなわち,その1つは,精神障害の原因に関する知見への寄与であり,もう1つの寄与は,疾病現象の独特な形成において,病者の人格に由来する影響を検討できるということである。従来の比較精神医学研究は,ほとんどすべて,同一民族内での集団に限られており,フランス人,英国人,イタリア人の精神病罹患率が,我々のものと遠うかどうか,違うとすれば,どんな点においてかといったことに関しては,全くわかっていない。もちろん信頼できる比較は,たんなる状態像ではなく,真の疾病分類ができて初めて可能となるのであるが,臨床的見解に相違があるため,この比較は,さしあたり同一観察者によってしか行うことができないのである。それゆえ,これまで行われた外国諸民族の精神疾患に関する報告のうち,利用できるものはごくわずかしかないが,そこに予想される差異の大きさそのものが,それ自体,特に意味をもち,信頼できるものである場合もあるであろう。
 そこで私は,ジャワのボイテンゾルク精神病院において,みずからこのような研究を行うことにした。その病院で,私は,院長ホフマン博士から御好意あふれる便宜を与えられたばかりか,目的達成のため,あらゆる面で好条件に恵まれたのである。そうして,大きな事象そのもののもつ困難にもかかわらず,次のことを明らかにすることができた。つまり,それは,先に触れたような仕方で成果を挙げ得るということ,またそれがどういう面においてであるかということである。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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