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雑誌目次

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精神医学18巻12号

1976年12月発行

雑誌目次

特集 近代日本の宗教と精神医学 巻頭言

特集にあたって

著者: 荻野恒一

ページ範囲:P.1238 - P.1239

 昨年1月から本誌の編集委員に当てられたため,昭和45年以来12月号の特集テーマになってきた「社会精神医学」の編集を,昨年から加藤正明氏と共同で行なうことになった。この特集号には2,3回参加してきたわたしも,編集の立場に立つと,つくづく大変だなと思う。社会精神医学というものを広くとって,生物学的精神医学や狭義の精神病理学に対応する新しい精神医学の領域として展望し,この視点から特別の今日的主題を選択するということは,けっして容易ではなく,さらに決められた主題を展開するために適当な方方を選び,執筆を依頼する作業も,時には困難だからである。しかしこれはわたし個人の感想であって,ベテランの先輩,加藤氏は,じつに手ぎわよく,事を進めていって下さった。
 「宗教と精神医学」という主題は,わたし自身は久しく温ためてきたものであり,宗教精神病理学は30年来,いつかは本格的に手がけたいと考えてきたものであった。しかしこの主題を社会精神医学の立場からとりあげることには,いままでためらいがあった。このためらいはしかし,精神医学を専攻してきたわたしのそれではなく,むしろ一定の宗教を信じる信仰者としてのわたしのそれであったと思う。だがわたしは今日,宗教というものを従来以上に社会的ないし歴史的視点から考える必要があり,またそのような傾向があらゆる宗教界の内部で起こってきている,と考えている。

精神医学と宗教との関連について—特に現代日本人の無宗教性の中に現れた宗教性を問題として

著者: 樋口和彦

ページ範囲:P.1240 - P.1245

I.はじめに
 精神医学と宗教という共に長い歴史と厖大な固有の領域をもつ両者の関連を論述することは,一平凡人の能力を超えることであろう。しかしながら,許されるなら,この両者の時に密着し,時に分離する関係の中で,特に戦後30年の日本社会において両者がどのように関連しあっているか,宗教の世界にいて,深層心理学に興味をもつものの目にどのように映るかをみてみたい。
 もとより宗教も西欧の宗教あり,東洋のものもあり,形式・内容共に千差万別である。何をもって宗教というかということからして問題である。精神医学にしても同様であって,厳密に規定すれば,全く不可能になってしまう。

日本の宗教的状況について

著者: 藤岡喜愛

ページ範囲:P.1247 - P.1252

I.はじめに
 日本には宗教がない,あるいはこれに似た立言を,私はこれまで何となく聞き流してきた。このたび,宗教と医学との関連を論ずる座談会があって,席上やはり同じ意味の発言があったらしい。しかも無視されることもなかったらしいのは不思議なことでもない。日本人は無宗教だといういい方は,どうも一般に流布している見方であるらしいからである。
 日本文化には恥はあるが罪はない,とか,日本ではいまだに迷信がはびこっている,とか,いろんな評論的立言がこれまでにもあった。これらは一連のものであろうと考えられる。本文では,まず,こうした立言が「事実」を無視していて,こうした立言が実は布教者的立場からの発言にすぎないことを指摘する。ついで,宗教家でもない知識人が,なぜ布教的立場をとることになるか,を,日本社会の中に生じたインテリ・ペリフェラルの位置によって説明する。

うつ状態における罪業念慮について—現代の新興宗教とうつ病的罪業感との関連

著者: 上田宣子 ,   林三郎

ページ範囲:P.1253 - P.1259

I.はじめに
 「宗教とは,1つの集団に共有され,そして各個人に構えの体制と献身の対象を与えるような思考と行動との組織で,この規定のような広い意味における宗教をもたなかった文化は,過去にもなかったし,また将来においてもおそらくあり得ないであろう」(E. Fromm1))。そして宗教的欲求,すなわち構えの体制と献身の対象を求める欲求を持たぬ人はいないし1),極言すれば宗教心は人にとって"1つの本能"ともいえるのではないだろうか2)。この人間の心の奥底に沈潜している宗教心は,精神医学にとってどうしても無視できない領野である。
 また文化と宗教との関連性の核心を西谷3)は次のように述べている。「それぞれの文化形態は自らを極めてゆく時,一方ではそれぞれの領域内でその極まる所に宗教的なるものと結びつくと共に,他方では領域相互の間に連関をかもし出してき,この連関もまたその統一の窮極的中心を宗教に見出す。その時宗教は,すべての文化形態の帰趨する点,そこから其等が包括されてくる点と考えられ,文化は個人的一社会的な意味においての人間の所産,或いはむしろ人間的実存または人間固有の存り方の具体的現象であり,それ故かかる人間存在の窮極的中心が各々の文化形態の内に現われてくる時,その文化形態の内から何等かの形で宗教的なものが放射される」。

南部地方の憑依症候群をめぐる文化精神医学的研究

著者: 西村康

ページ範囲:P.1261 - P.1269

I.はじめに
 青森県,秋田県および岩手県の北部には,盲女が修業を積んで職業巫イタコとなり,神憑りによって人格変換を来し,死者の口寄せ(霊媒),加持祈祷を行なうことが,今日もなお広くみられる。このうち青森県の八戸市を中心にした南部地方のイタコについての民俗学的研究では,桜井がイタコの人生史,修業過程,職能,組合組織についての詳細な報告をしており,とりわけ神憑りを可能にするために施行する補助的手段としての側面を持つオシラアソバセやオシラ祭文に注目している6)。しかし桜井によれば,口寄せ,祈祷,まじないなどの巫業内容や人生史,修業については他地区のイタコと同じであるという。すなわち南部地区の巫覡7)たちもまじないとして,いわゆる加持祈祷を行ない,病気・禍厄などの原因を神にうかがい,それを除去するための祈祷を行ない,また失踪者や行方不明者,遠出の家族の消息,失せ物の所在などをあて,結婚や建築普譜に関する日取りの吉凶を占い,さらに病気に関しては治療の方法,受診すべき医師の方角を占い,こうして地域住民の生活の主要な出来事に関与している。ところが南部地方においては,津軽のゴミソ6,8),下北地方のカミサマ6),陸前地方のミゴサン9)に相当する巫覡の存在の報告は極めて乏しく,わずかに直江が高山稲荷神社で大正4年からゴミソに神習教の教導職免許状の斡旋をした地域分布が八戸・三戸・九戸の南部地方にも及んでいることを報告し8),ゴミソが南部地方にも存在する可能性を示しているにすぎない。また精神医学的な報告を概観すると,懸田ら2)および中村3)は,青森県におけるシャーマニズムの社会精神医学的研究を行ない,昭和32年から35年にかけての調査の中で,南部地方のイタコおよびカミサマを扱っている。そしてここでも,イタコ以外のカミサマが南部地方ではとくに,イタコの数に対して非常に少ない(八戸市ではイタコ23人に対してカミサマ1〜2人)と報告している。
 では八戸市を中心にした南部地方にはイタコ以外の巫覡の分布はそれほどまでに少なく,地域住民生活に及ぼす影響力は無視できるかというと,われわれが次節で述べるように,じつは南部地方の巫覡は意外にも多数存在しており,彼らの地域住民生活への関与度も高く,また名称としてはカミサマ,カミサン,別当サマ,別当サンと呼ばれ,津軽のゴミソ,下北のカミサマ,その他の地方で呼ぶ行者,拝み屋,祈祷師などに一致するもののようである6)。さてこれらのイタコ以外の民間宗教者は,羽黒教,扶桑教などの教派神道の教師も含めて,カミサマあるいは別当サンと呼ばれ,祈祷・祓・卜占などを主に行なうが,口寄せはしない。また男女を問わず,イタコとちがってすべて目明きであり,入巫過程は修業を必要とせず,巫具もイタコのもつオダイジ(オンダイズ)やイラタカの数珠などの特定のものはなく,太鼓や幣束を使うものが多い。そして教団組織との関係を持ち,信仰の対象となる祭神名・仏菩薩名がカミサマ・別当サン自身に付けられて,稲荷様,山の神様,竜神様などと呼ばれることも多い。なお新興宗教の布教師の場合は,一部カミサマと呼ばれるものはあるが,別当サンとは呼ばれないようである。また,これらのカミサマ・別当サンはイタコ同様,住んでいる地名を冠せて,○○の別当サンと呼ばれることもある。しかしイタコも含めて,現在の南部地方のこれらの巫覡の間には縄張りはみられず,信者は何人ものイタコやカミサンをたずね歩いている。この点について,桜井は津軽イタコに縄張りがあることを報告している6,8)が,南部イタコの縄張りの有無については一切ふれていない。しかし南部地方の現状についていうと,信仰者が何人もの巫覡をたずね歩く点について,民間では「10人のカミサマにきいて,7人以上のカミサマの言ったことを守ればよい」ということになっているらしい。なおイタコとカミサマに対する一般の信用度については,イタコのほうが当たるという人が多いが,じつはイタコは,医療の進歩に従って盲人が少なくなってきたこと,盲人の職業としてアンマ・マッサージ師の道がひらけてきたこと,イタコの修業が非常につらいことなどから,イタコの後継者が少なくなり,その数全体が減少してきているのである。またカミサマ・別当サンの中で「当たる,当たらない」の評価の差が出てくる傾向がみられ,いわゆる流行神的な巫覡も出現してきている。さきに述べたように,南部地方におけるイタコ以外の巫覡の存在については報告が乏しいのであるが,われわれが知り得た限りでは,この地方の大部分のカミサマ・別当サンは,昭和30年代以前から巫業を営んでいるのである。

下五島における比較文化精神医学的調査—島内のカトリック信徒を中心に

著者: 太田保之 ,   長岡興樹 ,   松永文保 ,   川副正昭 ,   増井憲治 ,   森山研介 ,   荻野恒一

ページ範囲:P.1271 - P.1278

I.はじめに
 長い鎖国と異教弾圧下にあって,ザビエル布教以来のキリスト教の信仰を守りとおしてきた福江島キリシタンの歴史は,そのまま日本キリスト教の歴史の圧縮といえる。島内各地に今なお存在するキリシタン集落は,その宗教形態の特異性において,またその形成過程の独自性において,宗教学的ならびに文化人類学的観点から注目されてきた。われわれも,かつて2回にわたり下五島の比較文化精神医学的調査を行ない,精神障害のあり方を巨視的に明らかにしてきた1,2)。そこでわれわれは,そのデータをふまえた上で,下五島の文化と歴史,とりわけ下五島キリシタンの歴史の特性をたどってゆき,病者がいかにその歴史と信仰の中に生き,あるいは挫折していったかを文化精神医学的な視点からみてゆきたい。

松沢病院における宗教妄想の時代的変遷—妄想主題における「宗教的なもの」の意味

著者: 藤森英之

ページ範囲:P.1279 - P.1291

Ⅰ.緒言
 ヨーロッパでは精神医学の近代の歴史において,キリスト教が精神医学と多くの接点をわかちあっているが7),従来のわが国の宗教病理学では,宮本ら18)も指摘するように,土俗的・原始的信仰や迷信による土俗的な「もの憑き現象」を対象とした業績が多い(ここではそれらの系譜にはふれない)。
 小田25)は文化史を主軸にすえて「狂気観」の変遷を追求し,9世紀のわが国のコンメンタールである「令集解」のなかに,「自ら聖と称し高賢と称する」もの,つまり宗教妄想による現実の否認を主にして「狂」の定義がなされていると論じている。

現代宗教人の危機—宗教体系の混乱と精神障害

著者: 鎮目光雄

ページ範囲:P.1293 - P.1299

I.はじめに
 この度の特集で筆者に与えられた題目は,「現代宗教人の危機——宗教体系の混乱と精神障害」であるが,筆者はいろいろの宗教について研究したこともなく,わが国に古くからある神道や仏教に関する知識もろくにないといってよい。それ故,現代の諸宗教体系を比較しながら上記のテーマについて論ずることなどはとてもできない。しかし自分がカトリック信者であり,この8年間カトリックの病院に勤務しているので,取り扱っている患者の中には,カトリック信者,司祭,修道士,修道女がかなり多く,また桜町病院はカトリック病院としては,唯一の精神科病棟を有する病院なので,司祭や修道者で開放病棟に収容できる病状の患者の多くが送られて来るようである。また今日までに,約300名の修道女やその志願者に対する適性検査を依頼されてきたので,聖職者達の悩みや適応の問題については,ある程度知り得たと思う。
 したがって,筆者がこれから述べるのは,カトリック教会という特定の宗教団体の修道者達が,混乱と動揺の現代社会にあって,急激に変革する教会の中で,自分達の生活環境に適応できなくなっていった過程とその背景ということになる。

宗教的危機と神経症—カトリック医の立場から

著者: 柴田出

ページ範囲:P.1301 - P.1308

I.はじめに
 現代は宗教的な危機状況にあると容易に口にされるが,この危機状況は,いろいろな意味に理解される。
 1つは,この不安定な世相にうまく便乗してはびこった怪しげな新興宗教?の人に与える悪影響を指摘する者もいるだろう。また,世俗主義の精神が,教会や寺院の中にまで浸透し,信仰の荒廃,脱宗教傾向を招いてきていることを宗教的危機と指摘する者もいるだろう。宗教家の立場からいえば,この信仰の荒廃が,ひいては信者の獲得が得られにくい結果になったことを,宗教的危機というかもしれない。

精神科医と宗教—わがロゴテラピーと清沢満之

著者: 小西輝夫

ページ範囲:P.1309 - P.1315

Ⅰ.私の精神療法
 精神科医である以上,精神療法に熟達していなければならないはずだが,私の場合,精神分析療法や催眠療法などの特殊精神療法は経験皆無であり,一般精神療法にしても治療効果に責任のもてる精神療法ができているのかどうか,はなはだもって自信がない。私の精神療法の実質はせいぜいムンテラ(いうまでもなくlip serviceのドイツ語風医用俗語)と異なるところはないように思う。しかしムンテラしかできないのであれば心をこめてムンテラをやろうというのが,精神療法に対するいわば私の開き直りである。もちろんムンテラであっても患者の訴えには十分耳を傾け,理解ある聴き手になるための努力は怠らないようにしているつもりであり,それ以上は自分の地でゆこう--というのが私の精神療法観である。
 私の精神療法には,森田正馬のいう〈あるがまま〉や,フランクルのいう〈自由と責任の自覚〉が再々とびだすが,それらは話し合いの素材であって,本格的な森田療法やロゴテラピーにはほど遠いものである。しかし日常の臨床において,フランクルのいう実存的苦悩とはこういうものか--と思わせるような訴えに遭遇することも決して稀ではない。実存の哲学的真意について知悉しているわけではないが,極言すれば患者の訴えで実存的でないものがあるだろうか--ともいえるであろう。たとえそれが心気的で誇張されたものであっても--である。結局われわれ医師は,患者の訴えや悩みに対して真剣に人間的なかかわりあいを示してゆくとき,各自が各自のロゴテラピーを志向し実践しているといえるであろう。フランクルは私が最も敬愛する精神療法家であるが,正統的なロゴテラピーには及ばずとも,私には私なりのロゴテラピーがありうることをいささかの確信をもって自認すべきかもしれない。

座談会

近代日本の価値観と精神障害

著者: 荻野恒一 ,   三永恭平 ,   星野命 ,   小野泰博 ,   加藤正明

ページ範囲:P.1318 - P.1330

臨床における宗教と価値観
 加藤 ただいまから始めたいと思います。今回は宗教的価値観を中心に,現代日本における多様化した宗教事情の中でのさまざまな価値観を背景に精神医学の臨床における症候論的な問題,いろいろな価値観を持つ診断者の問題,あるいは治療者の価値観が診断や治療にいかに関与しているか,そういう問題をいろいろな角度から取り上げていただくということが1つ―その中には,比較文化精神医学的な問題も含めていただいて,診断的,症候論的な問題を取り上げていただく。もう1つは,広い意味の治療でありますから,治療者と治療される者との関係の中で,宗教的価値観がどのように臨床的に働いているか。実際にそれが有効に働いているのか,あるいはどのような関与の仕方をしているのかという,2つの問題を中心に論じていただきたいと思います。
 今日の精神医学がかつてのように人間を外側からだけで症候論的に診断していくという傾向が少なくなっているだけに,精神科医が治療に入るとこの人が異常か正常かということを決める診断ですらも,非常にぐらついてきていると思います。われわれはできるだけ自分の価値観を相手に押しつけないようにしよう,自分の人生観をなるべく出さないようにしようという態度でいるんですが,それでは異常や正常の判断がはっきりしません。問題がなぜ問題なのかということすらも,今われわれは大変動揺していると思います。

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精神医学 第18巻 総目次

ページ範囲:P. - P.

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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