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雑誌目次

雑誌文献

精神医学18巻5号

1976年05月発行

雑誌目次

巻頭言

医療の近代化と精神医学

著者: 松本啓

ページ範囲:P.462 - P.463

 医学は日進月歩であり,医療もまた同様である。ことに,ここ数年間は,医療の面での近代化は急テンポであり,情報化やシステム化が進んでいる。このような状況の中で,精神医学,および精神医療はどのような立場におかれているのか考えてみる必要がある。
 終戦後,国民総福祉の名のもとに,わが国の医療は皆保険の道をあゆんできた。皆保険医療は国民に多くの利益をもたらした。反面現在に至って多くのひずみが生じていることは衆知のことである。精神医療においても同様であって,誰もがひとしく専門医の診療を受けられることや,慢性の経過をとる患者の経済的負担を軽くする利点があるが,一方では,保険診療記録による病名や症状の半公開や措置入院などにみられるような経済措置色の強い長期在院など,患者にとっては,不利益なことが多くみられる。このような現状をみていると,医療制度の近代化や皆保険と平行して,患者個人の秘密は明らかに侵害されている。これは何も精神疾患患者に限らず,他科の患者にもいえることであるが,この両者を同じ感覚で論ずることはできない。何故なれば,現在でも精神疾患患者に対する根ぶかい偏見や社会の差別が,世間一般人の間では勿論のこと,医療従事者の間にもあり,精神医療について真に理解をもっている人は甚だ少ないからである。皆保険が実施され数十年を経た今日でさえ,精神科を受診する患者の中には,多額の健康保険金を払い,保険証を有しているにもかかわらず,保険証を使用せず,現金払いで受診するものがよくみられる。また,よほどのことでないと,初めから精神科を受診しないし,多くは内科や他科を受診したり,あるいは,病院でもない教育相談所や祈?所あるいは占い所を訪れたあと,精神科を受診するものがあとを絶たない。このような患者やその家族の心情は,世間一般の人々や他科の医療従事者などには,到底判ってもらえないことである。このような患者や家族の態度は説明を要するまでもなく,精神科を受診したことが,他人に知れることを恐れるためで,自分で医療費を負担することより以上に,大きな不利益があることを恐れるためである。現在の保険のシステムでは,病名が医師だけでなく,他の病院従事者,さらには保険組合,会社や役所,学校などに当然知れることは明らかであり,病名によっては,失職,転職につながり,さらには将来の立身出世や結婚に影響することを恐れるのである。たとえ,保険診療を受けたとしても,多くの患者や家族は診断書の病名や内容に気をつかい,復職や復学への影響のない病名を希望することは,多くの臨床家の衆知の事実であり,多くの診断書にみられるところの神経症,神経衰弱,何々反応などの診断名が如実にそれを物語っている。このような世間一般の人々の精神医療に対する無理解や認識の不足は数えあげればきりがない程多々ある。これは世間一股の人人だけに限ったことではなく,精神医学を学び,いくらかでも精神衛生知識を身につけているはずの医師や看護婦でさえも精神医療を真に理解している人は少ない有様で,患者に対して早期に精神科受診をすすめる人は少なく,まして自分の知人や家族の場合となると受診は遅れ,治療の時期を失して来院するものが多い。このように,世間全体には,まだまだ精神衛生知識が不足しており,依然として精神疾患患者に対する偏見や差別があるが,一方では,医療の近代化はどんどん押しすすめられている。多くの医療施設では,医療設備や内容が改革されて,情報化,自動化,システム化が導入され,労働力や時間の無駄を少なくして,仕事の能率をたかめ,合理化がすすんでおり,それはそれなりに多くの利点があることは論ずるまでもないことであるが,そこには,人間疎外があり,医療の本質である医師対患者関係は,ますます薄れてきて,両者の対話は存在しない。最近では医療の中にコンピューターが導入され,診療は自動化されて,流れ作業となり,医師対患者の対話の場などとても期待できないし,往年の医師のイメージなど探しても見当らない時代になりつつある。したがって,そこには患者の人権尊重や秘密保持が守られないという危険がひそんでいる。たとえば,近代的病院においてみられる,中央カルテ,システムというものについて言えば,このシステムは,患者に一連の背番号をつけて,その病院に限って,どの科を受診しようとも番号は同一番号で,診療記録も全て一つのファイルに収められて,中央に保管し,必要あれば,何時でもひき出せるようにして,患者の健康管理,あるいは医師や看護婦の診療や勉強,さらには病院事務の迅速化,合理化,能率化をはかろうというものである。反面,患者側に立ってみる時,好都合ばかりではなく,多くの不都合もあるわけで,患者の秘密が侵される危険があり,特に精神疾患の患者にとっては,前述のごとく,不利益につながることが考えられる。たとえ,患者の秘密保持について,しかるべき処置や対策がなされたとしても,言うは易く行なうは難しで,他科の診療記録と一緒のファイルに収められること,病名別や科別索引,あるいは一連番号制,診療記録の閲覧など,どれをとっても秘密保持の確かな保証はどこにもない。精神疾患に限らず,遺伝病や悪性疾患,さらには,人の忌み嫌う疾患にも同様に当てはまることである。たとえ,このような近代化が大多数の人々の利益につながるとしても,ひと握りの不利益をもたらす人々を犠牲にすることはできないし,これは医師以前の問題であり,医療の近代化の流れにあって医師対患者関係が失われようとする時代にあっては,なおさら,現在の医療のあり方を,このような不利な立場にあるひと握りの患者の立場に立って考えて,見なおす必要があるように思われる。このような立場にある患者を一番多くかかえているのが精神科医であり,現在の精神医療の立場や苦悩というものが,世間一般の人々のみでなく他科の医師や看護婦,医療従事者においてさえも,なかなか理解していただけない現状である。現在でさえも人知れず受診をしている患者が多い実情をみれば,今後益々近代化していく病院への患者の足はだんだん遠のき,精神科専門医の診療を受ける機会を失して,早期発見,早期治療が益々困難になることが考えられる。

シンポジウム 大都市の病理と精神障害—東京都精神医学総合研究所第2回シンポジウムから

研究方法の視点をめぐって

著者: 大橋薫

ページ範囲:P.464 - P.470

Ⅰ.精神障害の社会病理的性格
 精神障害(mental illness)の規定については,まだ定説がないらしい。門外漢の筆者にとっては,この点に立ち入る資格も能力もないが,要するに,精神障害とは,平たくいえば,「人びとの精神作用が損なわれて,思考や情動におくれが生じたり歪んだり不安定になった状態」であるといえよう。つまり「人格の構造や機能の損ないや歪み」の問題なのである。社会病理学では,このような状態を「人格解体(personality disorganization)」と呼んでいる。
 この人格解体は,それ自体が社会病理―厳密には個人病理―の第二の側面なのであるが,精神障害の社会病理性は,それだけではすまない。精神障害の発生過程や予後における歪みが問題なのである。即ち,発生過程における歪みについていえば,精神障害には,一部の精神薄弱を除けば,生まれつきというものはない。それに親和的な素質の遺伝はあるにしても,障害そのものの遺伝は,極めて限られる。問題なのは,後天的な環境であり,この「歪んだ生活環境」とこの「環境とのかかわり合いにおける歪み」が,精神障害の社会病理の第二の側面である。

都市問題の社会精神病理学的側面

著者: 小田晋

ページ範囲:P.470 - P.478

I.はじめに
 都市問題の文脈の中で,人間の心の問題,とりわけ社会精神医学的な問題が取り上げられることになったこと自体が現時点における都市問題のひとつの特性を示すものといえる。つまりそれは,現代日本の社会が最近様々の面において遂げている著しい変化が,国土の自然的生態,社会文化的状況,および住民の身体および精神の衛生,住民の世論および感情,行動に及ぼしている影響の逆反映であって,いたずらに鉄とコンクリートによる機能化と建設物の威容を誇るといった現代都市のありかたが,住民にとって耐え難いものになりつつあることを示しているといえるであろう。もし,そうであるとすれば現代の都市のもつ諸機能に対する人間的,特に心理的側面からの要求はどう消化され,実現されうるであろうか。そのために必要な現状認識のひとつのステップとして,まず現代日本で起きている社会変動が人間の心に与えつつある影響を考えてみたい。その中でもとりわけ,社会病理学的現象を媒介に接近するのがこの場合の課題であろう。

大都市生活者とアルコール中毒

著者: なだいなだ

ページ範囲:P.478 - P.480

 大都市とはなんだろうと問いかける。それに対して「読んで字のごとく,大きな都市のことさ」という漠然とした答がかえって来る。そしてその単純な区分けをもとにして,すぐ大都市と田舎での病気の発生率などを比較して,問題にしたがる。しかし,大都市にも構造があることを忘れている。いや,複雑な構造を持っているところが,大都市の大都市であるゆえんなのだ。たとえば,ほとんど何十年と変化のない街並を持ち,住民の移動のほとんどない場所も都市にはある。それまで山林や畑だった場所に,突然に数万人の人間が住みはじめた団地,新興住宅地,昼間はビジネスマンが集中する中心街,夜だけ人の集まるさかり場,労働者の集中する一郭,それもまた都市なのだ。それをひっくるめて大都市という。その全体で病気が出れば,大都市では,病気が多いという結論が出される。犯罪が多ければ大都市犯罪が云云される。しかし,それが,おおまかすぎる議論であることは理解できよう。下町のように,数代にわたって居住している人たちの多いところも,大都市の一部なのだし,全国から集まって来た人間を壁一つへだてるだけの近さに押しこんでしまう団地も,大都市なのだ。しかし,地方から大学に入学のために上京する人間にとって,あるいは仕事を求めて上京する農民にとって大都市の意味するものと,そこにながく住みついていながら,隣接地に大ビルや大団地ができて,生活環境ががらりと変わり,とまどいを感じるものにとっての大都市の意味するものは,決して同じではない。もし,病気を問題にするのなら,そうしたさまざまな場合について考えていかなければなるまい。
 たとえば,ベット殺人事件とか,ピアノ殺人事件とか,センセーショナルの事件が起きると,それが大都市の事件,田舎では起きようもない事件と考えられてしまうが,そうした事件は,たとえ大都市の枠の中で起きたとしても,団地という人工的な人口集中の場が問題なので,大都市全体の問題とはいえないのかも知れないのだ。また,団地でも,過渡的な一時の現象かも知れないのだ。団地も住民が固定化し,三十年もたてば,そのような事件の場ではなくなるかも知れない。統計的な方法による断定が危険なのは,その点にあるといえる。

都市化と人間

著者: 霜山徳爾

ページ範囲:P.480 - P.485

 大都市の精神病理学というものを考察するにあたって,あらかじめ判然としておかねばならない点がある。それは人間の生存にとって文明は何を意味しているのか,文明は人間の存在様式にとってどうしてもなくてはならない本質的な条件なのか,という問題である。それを追究していくと,自然と文明との関係,そしてそれらと人間との生きたかかわりはどうなっているのか,という問いになるのである。
 現代のマスコミに共通しているセンチメンタリズムによって,公害とか,環境保全とかいう言葉から「自然」というものに美しい幻想が投げかけられている。即ち,そこでは人間が無垢の,素朴で汚濁を知らないかのような太古の時代が想像されたり,或いはそこまでいかないにしても,未開社会の自由な平和を空想したりする。文明とは人間のつくり出したものであって,もともと人間性には有害な,或いはたとえそれほどでないにしても,真の人間性とかかわりのないものと思われてきている。しかしこれこそマスコミ的な,ものの裏面を省りみない一面性強調の典型である。人間で文明を知らない自然児などいうのは空想の生み出したものに他ならない。また未開社会ほどある意味では不自然な強制が通用していることは多くの文化人類学者の示す通りである。

都市病理と精神障害

著者: 加藤正明

ページ範囲:P.485 - P.489

I.はじめに
 一般に考えられていることは,都市化なり大都市化に伴って何らかの意味で特有の社会病理現象が生じており,この社会病理現象が原因となって精神障害が量的に増加するか,質的に重篤なものに変貌しつつあるということであろう。そして,この予測と期待に答えうる方法と結果を何らかの形で示せという要望が出されていることも当然といってよい。そしてこの問いに答えるべく,都市化,産業化,近代化および現代化,文化変容などの問題と精神障害との関係が,古くから社会精神医学,文化人類学,社会学,社会心理学,公衆衛生学などの立場から数多く論じられてきた。ことに本日はメガロポリス東京を念頭におき,日本の他の都市や,各国の大都市と比較しながら,この問題に答える方法論を求めてみたいと思う。

シンポジウムを顧みて

著者: 荻野恒一

ページ範囲:P.489 - P.491

 我々の研究所が,その開設を記念するシンポジウムの第2回目を迎えて「大都市の病理と精神障害」というテーマを選んだ所以は,我々がこのテーマを,時熟したものと考えたからではなく,むしろこのテーマが急速かつ深刻に重大になってきており,加えて全世界的関心事になっていながら,しかも我々自身,この問題にどう取り組んでいったらいいのか,主題的にも方法論的にも模索中であったからである。従って5名のシンポジストにお願いするに際しても,我々の側に一定の主題とか狙いがあって,それに沿ってお話いただくというようなことでなく,むしろ「この膨大かつ不明確なテーマについて,どのような迫り方でも結構だから,何か我々に主題的ないし方法論的に示唆を与えていただければ結構です」といった調子でお願いした次第である。省みるにこのようなお願いの仕方は,「何か得られるものがあれば,得てやろう」という失礼な態度と言われても致し方なく,また依頼された側からすれば,何をどう話したらいいか漠然としていて,最も困る依頼のされ方であったにちがいない。にもかかわらず,5名の先生方は一人のこらずご快諾下さり,かつ我々の希望を十分に汲んで御自分の考えをお話いただき,このシンポジウムを実り豊かなものにして下さった。
 とはいえ,我々は5名の先生方を無批判に選んだというわけではない。むしろ主題的にも方法論的にも模索中である我々には,ともかく「都市病理と精神障害」というテーマについて今までに仕事をしてこられた方々を選び出すことが先決問題であり,また我々にとって可能な仕事は,こうして数え上げた先生方の業績を知ることであった。またこの作業をとおして,お話いただく順序も考えたわけである。

研究と報告

精神分裂病者の社会復帰—医師,患者および家族の主観的予測を中心として

著者: 坂部先平 ,   永井久之 ,   郡暢茂 ,   福島修 ,   黒木健次 ,   鹿野寿満

ページ範囲:P.493 - P.499

Ⅰ.緒論
 最近の向精神薬の発達は病院精神医学に革命的変化をもたらし,分裂病者の社会復帰を促すための社会療法的アプローチが,問題にすべき点がないとはいえぬが熱心にすすめられている。しかしながら,論点を慢性化あるいは院内寛解に達したまま長期在院中の患者に限ってみると事情はほとんど変わっていないことも事実である。本来は社会復帰直前の準備のために用意された病棟が,長期在院を止むなくされている患者の停滞,沈澱によって,復帰困難者の病棟の観を呈していることは多くの病院に見られる現象といってよいであろう。現在の精神病院にあっては,患者個人の側にある要件によるよりも家庭を含めた社会の側の要件のために,軽快ないし寛解がそのまま退院につながっていないのである。
 このことは従来から注目されているところで,種々の研究がなされているが,本研究ではやや角度を変えて,医師,患者および家族の社会復帰に関する予測ないし構えを中心として推計的な検討を行なった。

薬物療法下における分裂病者の異常体験の消退過程と心身の不全感

著者: 清田一民

ページ範囲:P.501 - P.508

I.はじめに
 向精神薬療法が導入されてから,分裂病の状態像は,かなり好転1)したが,完全寛解率は不変で,不全寛解ないし病型の変化15)または不全症状群13)の増加を指摘する報告が多い。一方,薬原性精神障害6)または行動毒性4)が指摘されている。従って,薬物療法下における不全寛解の病像を明確にすることは,今後の向精神薬の標的症状の問題とからんで,治療上,重要であるだけでなく,一級症状16)といわれるような人目につき易い症状が比較的速く消退し,分裂病の生物学的“基底症状群”(Basis-syndrome)7)が露呈するため,その基礎障害へ近づく上でも重要である。そこで,比較的長期入院の分裂病者について,異常体験の消退する過程を詳細に追跡し,その底辺の軌跡へ接近を試みた。その結果,基底段階に残る情意減弱を主徴とする残遺状態には,受動的にしか訴えられないので,あまり目立たない〈心身の不全感〉が,かなり重要な関連を持っていることが明らかになった。

乱数生成法の臨床的応用—そのてんかんにおける特徴

著者: 黒木建次 ,   永島正紀 ,   永井久之 ,   佐藤誠 ,   木戸幸聖

ページ範囲:P.509 - P.517

I.はじめに
 数を1,2,3,4,……のように日常呼び慣れた規則的序列で唱えることは簡単であるが3,8,5,7,……のようにデタラメにあげていくことは必ずしも容易ではない。1,2,3,4,……という唱呼が容易なのは,ごくありふれた連語的な系列をそのまま唱えればよいからである。しかし,デタラメな数列を生成(generate)しようとすると,先行する数と規則的序列をつくらない数を次々に探していく走査的な努力を必要とする。この点で,デタラメな数序列の生成過程は,探索的な操作過程とみることができる。この探索的な操作過程は,言語を媒介とする作業の解析でしらべることもできる。例えば,我々6,7)が意味関連のうすいいくつかの単語を使って意味のある文を生成する"構文テスト"を考察して,分裂病者の文の生成過程をしらべてきた場合もこの意図が含まれていた。しかし,より純粋なかたちでこの過程をしらべるには,単語よりは意味論的に制約されることの少ない「数」を用いたほうが目的にかなったものとなるであろう。ここで報告する乱数生成法は,こうした意図のもとに取り上げられた。
 デタラメに,できるだけたくさんの数を書き並べる乱数生成法は,村上9,13)によって創案された。村上は,この方法の意義について,"人間の能動的な(あるいは創造的な)情報処理系の特性を調べる手段"と考え,彼の専門分野である人間工学のみでなく,心理学,精神生理学の領域への応用の可能性を示唆している。そしてMatsuda10)は連想語テストを併用した実験から,この方法はGuilford3)のいう展開的思考(divergent thinking)の画をよく描き出しているといい,また村上・高橋・本田らの研究グループ13)は,事故多発者,精神障害者,精神安定剤投与あるいはアルコール飲用時などにこの方法を試み,更に精神発達との関連についても検討している。

Wilson氏病の精神症状について

著者: 榎本貞保 ,   松下兼介 ,   松本啓

ページ範囲:P.519 - P.525

I.はじめに
 Wilson氏病は,遺伝性代謝疾患であり,本疾患には生化学的所見として血清ceruloplasminの低下,血清銅の低下,あるいは,尿中銅排泄量増加があり,また,肝,脳,腎,角膜などの組織中への銅の過剰沈着による広範な病変が認められ,その臨床症状もきわめて多彩である1,14,17)。しかしながら,通常は,肝症状および神経症状が前景に立って出現するが,他方,精神症状,骨症状あるいは,腎症状なども発現する5,10,16)。しかし,その発現順序は症例によって一定していない。就中,精神症状は,比較的発現頻度が高く初発症状としても重要である。そして,この精神症状も,銅代謝異常による脳の器質性変化を基盤に発現することはいうまでもない。我々は,現在までに詳細に検索しえたWilson氏病8例についての臨床症状,特に精神症状について検討するとともに,最近我々が観察した患者で,初診時に精神症状が前景に立ち,入院後も神経症状とともに多彩な精神症状を示した興味ある症例を経験したのでここに報告する。

皮膚寄生虫妄想を主症状とする感応性精神病の1家族例

著者: 横山茂生 ,   岩井闊之 ,   久保信介 ,   渡辺昌祐

ページ範囲:P.527 - P.533

Ⅰ.緒言
 ある個人に起こった精神障害,特に妄想体験が,その患者と密接な関係にある者に移入伝達される状態は,1877年LasèqueとFalretによる「二人での精神病」(folie à deux),1883年Lehman2)による,「感応精神病」(induzierten Irresein)の発表以来,遺伝生物学,現象学,深層心理学の立場から種々論じられてきた。そして最近では,発症した2人の病前からの心理的結合に注目して,"psychosis of association"と呼ぶ名称も付されている。
 現在ではfolie à deuxはGralnick3)により次の4型に分類されている。即ち,a)強制性精神病(folie imposée),b)同時性精神病(folie simultanee),c)伝達性精神病(folie communiquée),d)感応性精神病(folie induite)の4型である。これらの詳細は,既に篠原5)がfolie a deuxについての文献的考察をしている。

Capgras症候群の1症例—その替玉妄想形成の心的機制

著者: 今井英彦 ,   尾石金蔵 ,   近藤久雄 ,   加藤伸勝

ページ範囲:P.535 - P.541

I.はじめに
 1923年にCapgras, J. et Reboul-Lachaux, J. 1)が「替玉妄想」(L'illusion des Sosies)を記載して以来,多くの学者がCapgras's Syndromeとしてこの妄想を記述した。
 わが国においても,木村ら2)は「家族否認症候群について」の中で夫否認について述べ,村上ら3)は「精神分裂病の単数妄想について」の中で「替玉妄想」について言い及んでいる。また高柳4)は「二重身について」の論文において,その精神病理にふれており,最近では原ら5),および平川6)が,それぞれ1例を報告している。

非定型精神病の炭酸脱水酵素阻害剤(Acetazolamide)による治療経験

著者: 井上寛 ,   挾間秀文 ,   福間悦夫 ,   中沢和嘉 ,   浜副薫 ,   古賀五之

ページ範囲:P.543 - P.548

I.はじめに
 非定型精神病については,古くからその症候学的,疾病学上の論義が多くなされている。一方,非定型精神病に対する治療としては現在,強力精神安定剤,抗うつ薬,あるいはcarbamazepine,ホルモン療法,リチウム塩療法など種々に行なわれているが,治療に容易に反応しない例も多く,慢性に経過し,欠陥を残しているものも少なくない2,4,5)
 著者らは,さきに,特異な症状と経過をもち遷延し,種々の治療に難治であった非定型精神病の1例に,炭酸脱水酵素阻害剤(以下CAH阻害剤と略す)の1種であるbenzanilamideを用い寛解に達し,その後acetazolamideを用いて,著明な改善と予防効果を得ることができた。その症例について非定型精神病の病態生理学的所見とあわせて考察し,報告した4)。その後,やはり特異な症状と難治性であった非定型精神病を経験し,それらにacetalamide(Diamox 250mg錠)を用いよい治療結果を得たので,非定型精神病の病態生理と治療との関連について考察を行なった。

二重盲検法によるSulpirideとImipramineのうつ病に対する薬効比較

著者: 由良了三 ,   加藤誉里子 ,   柴原堯 ,   福島幸雄 ,   佐々木務幸 ,   佐藤正保 ,   河村国高 ,   三好功峰 ,   中島浩 ,   古藪修一 ,   松田保四 ,   笠原嘉

ページ範囲:P.549 - P.562

I.はじめに
 近年しだいにうつ病が,それも特に軽症からせいぜい中等症までのうつ痛が増加し,今日では精神科外来で最も多い病態の一つとなった。さいわいその治療については,imipramine以来amitriptyline,desipramine,trimipramine,nortriptyline,clomipramineなどの三環系抗うつ剤が相次いで開発され,一時代前に比べ薬物療法は大幅な進歩をとげた。しかし,他方三環系抗うつ剤による難治例の少なからずみられることも事実であり,昨今ではこの難治例の問題がうつ病研究の一つの課題となっているほどである。効果面,副作用面両面において,常により良い薬物を望む臨床家としては,一つの考え方として三環系以外の薬物の中から新しい抗うつ剤が出てこないかという期待をいだく。最近の世界的なリチウム研究はその一つの現れともいえよう。
 さて1967年にフランスのS. E. S. I. F. 研究所で開発されたsulpiride(化学名:N-〔(1-ethyl-2-pyrrolidinyl) methyl〕-2-methoxy-5-sulfamoylbenzamide)は第一に化学構造(図1)や薬理学的性質が従来のmajor tranquilizer,minor tranquilizer,抗うつ剤と全く異なること,第二に臨床的にはneurolepticaとしての抗精神病効果とthymoanalepticaとしての抑制除去効果,抗うつ効果を有すること,そして最後に消化性潰瘍に対する効果が認められており,事実わが国でもすでに胃・十二指腸潰瘍治療剤として発売されていることなどによって,我々の注目をひいた。そこでまず著者のうち,由良ら20),河村ら8),中島ら14)はうつ状態および神経症に対する臨床試験を行ない,本剤が特に軽症うつ病に有効であり,その標的症状は主として抑うつ感情,意志抑制およびそれに伴う種々の身体的愁訴であること,副作用・随伴症状の出現頻度が低く軽微であること,従って一般科での使用も容易であろうことなどを既に報告した。そこでこの経験をもとにして,うつ病診断についてほぼ共通の基準を共有すると思われる数名の医師を選び,診断基準,治療方法(精神療法,生活指導)を統一した上で,本剤のうつ状態に対する有効性並びに安全性を客観的に確認するため,imipramine(図1)を標準薬として二重盲検法により比較検討した。

古典紹介

—Sergei Sergeevich Korsakov—K voprosy ob “ostrykh” formakh umopomeshatel'stva

著者: 今泉恭二郎

ページ範囲:P.563 - P.577

 Umopomeshatel'stvo訳注1)の急性形に関する問題は,今日一般の注意をひき起こしている。このことは,その臨床講義において,Meynertにumopomeshatel'stvoの急性形の叙述をなさしめたあの興味によって,またわが国においても外国においても,この急性形に関するかなり多くの研究が出現したことによって証明される。残念ながら,医師たちはまだ,この問題の種々の細部についての意見の一致に達していない。ここに,ロシアの神経病理学者や精神医学者がこの問題について見解を明らかにすることが望まれる理由があり,またこの問題が我々のセクションの仕事のプログラムに入れられた理由がある。もちろん,一回の会議でこの問題を明らかにするこはとてもできまい。しかし,意見の交換によって,将来この問題の解明に向かって進まねばならない方向は見出すことができよう。
 我々のテーマは,Meynertが《Die akuten Formen des Wahnsinns》なる呼称のもとに記載し,後にそれにamentiaの名を与えたような形の研究,またこれらの形と今日までpervichnoe pomeshatel'stvo訳注2)と呼ばれているものとの関係,そしてまた,いろいろな学者によってmaniya訳注3),ostroe slavoumie訳注4),stupor等々の呼称の下に記載されてきた若干の形との関係ということになる。

追悼

上村忠雄先生を偲ぶ

著者: 澤政一

ページ範囲:P.579 - P.580

 上村忠雄先生は去る1月23日,稀にみる風雪寒気の朝,急に御危篤状態に落ち入られ,午前9時46分,73歳のご生涯を終えられた。
 先生は昭和44年頃から軽い糖尿病があって,お好きだった酒もほとんど嗜なまれないようになったが,それでも大変ご健康なご様子で,昨年暮の忘年会にもご出席になり,終わっても席を変えて若い人達とともに時間を忘れて歓談しておられた。

映画評

—佐々木 正美 監修—みんな仲間 集団の中の自閉児

著者: 中川四郎

ページ範囲:P.584 - P.585

 自閉症をテーマとした映画は,これまでにいくつか製作されているが,この映画は,前に2編の映画(上出弘之監修,「こどもの自閉症」〈1972〉,「続こどもの自閉症」〈1974〉)を作った独立企画社の森谷玄氏の第3作である。最初の映画は,東大精神科小児部のデイ・ケアに通院している自閉児の行動特徴を描き,その治療教育を紹介しており,第2作は,その子どもたちの何人かの発達の姿を,幼稚園や学校集団の中でとらえたものである。
 今回製作された映画は,前2作とは別の子どもたちにレンズを当てたものであるが,自閉児の治療教育の方向としては,その延長線上に位置するものである。このような,半ば学術的といってよいか,あるいは啓蒙的といてよいような映画を作る場合,製作者の芸術的関心とともに,その素材を追うカメラの焦点の背後に,現在の児童精神医学の自閉症に対する一つの見方が存在するのであり,映画は,いわばその視点と治療や教育の理念や技術を,画面を通して物語っているのである。これは,自閉症のような,いまなおその障害のとらえ方に多くの異論があるような対象に対しては,ことに注目されるところであろう。自閉症を障害としてみることに反対する学者さえいるのである。このように考えると,この映画の背後にある精神医学の思考は,監修者の佐々木正美氏によるところが大きいと思われる。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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