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雑誌目次

論文

精神医学19巻11号

1977年11月発行

雑誌目次

巻頭言

精神科の救急医療

著者: 竹村堅次

ページ範囲:P.1114 - P.1115

 今年の厚生省予算をみて目立つのは,救急医療が100億円の大台に乗り前年度の6倍強であるという部分である。患者のたらい廻しなどという世論の高まりに応じてのこととも思うが,本腰をいれた内容は,①初期救急体制,②広域救急情報システム,③第二次救急,④救命救急センター,⑤救急医学教育などの整備ないし充実であるという。この仕事は医務局所管で,精神衛生対策を受け持つ公衆衛生局のほうはといえば,これに匹敵する目新しいものは見当らない。この両者の予算の中で精神障害者の救急医療だけが除外されているのだが,それでは精神科ではその必要がないというのかとちょっとひがんでみたくもなってくる。なぜ精神病だけが救急医療の対象から除かれるのか不思議なことと思うのだが,近着の日本医師会雑誌(8月15日号)によれば,救急医療体制整備の具体案という厚生省側の説明が10項目並んでいて,その最後の10番目に「精神科救急は今後検討したい」とある。厚生省に常に批判的である日医でも,どうも精神科だけは別系統で考えようということらしい。それにしても,精神病対策には精神衛生法があってその中の緊急入院制度で救急医療は賄われていると考える専門家は恐らく1人もいないだろう。確かに法的には精神科の特殊性がある。けれども急病救急と救命救急の2つながら身体病と同格であることもまた間違いのない事実なのである。そして救急医療が当面する医療の大きな課題であるとすれば,精神のそれも,ここで少しく掘り下げてみる必要があると思う。
 昭和40年の衛生法改正以後の医療の流れをみると,(1)まず措置患者の減少であるが,昨年末全国総数59,793人(21.5%)で45年ピーク時の76,532人(30.6%)以降確実に減じている。もっともベッド増がその少し前の時期から急ピッチで進んだので,措置率のピークは39年37.5%でそれ以来の弓なりの下降を示している。(2)もう1つは精神衛生鑑定で,これも法23条(一般から申請)の大幅減少を示しているが,仔細にみると,大都市(東京)では24条(警察官通報)が地方に比べ非常に高い比率であることがわかり,これが大都市救急医療対策の一面をのぞかせている。措置入院の矛盾については本欄(1975年3月号)で渡辺栄市院長が論述された通りだが,どうやらこの矛盾の解ける兆しはみえて来たようである。このような措置の実情をまず取り上げるのは,もちろんこれが精神科救急医療の基本問題の1つだからである。(3)そこでわれわれは誰しも措置制度の矛盾をなくし,広く開放制のもとに病院のリハビリテーションを推進し,アフタ・ケアが徹底することを願っている。これによって患者の危機的状況を未然に防ぎ(つまり救急医療の数を減らし),予防を第一義とする精神衛生対策が出来上がるのである。(4)しかし残念だが,いつも予防的救急医療で事が済むとは限らない。現実の急病救急にはどうしても訪問,往診という機動性が要求される。すぐに病院へというのではなくいろいろな社会資源の活用も必要となるだろう。そして最後に収容と判定された救急患者は,当然不採算を承知で人員,設備を整えた公的医療機関,それも総合病院の精神科ベッドへという順序となり,それから第二次医療機関へと移行する図式が理想である。

シンポジウム こころとからだ—東京都精神医学総合研究所,第4回シンポジウムから

精神医学における情動研究の意義—“こころとからだ”の総論に代えて

著者: 諏訪望

ページ範囲:P.1116 - P.1123

Ⅰ.まえがき
 “こころとからだ”という主題は古くから論議の対象になっているものであり,しかもいかなる視点からとりあげるかによって,さまざまな体系の理論が展開される。私は司会の役を引受けることになったが,よく考えてみると,この問題はとうてい私の手に負えるものではない。しかしいずれにしても,このシンポジウムは,一応精神医学を中心として問題を迫究するという制約のもとで進められることになると思う。
 ところで論議の過程における混乱を避け,また問題の所在を明らかにするために,予め“こころ”および“からだ”ということばの意味を検討しておくことが必要であると思われる。

心身相関の生化学—こころとからだの接点をめぐって

著者: 嶋津孝

ページ範囲:P.1123 - P.1133

I.はじめに
 有史以来,こころの座がどこにあるかについては,多くの論議と思潮の変遷を経てきたが,今日の医学では中枢神経系の機能が,すなわち,こころ(あるいは精神)である,とすることに抵抗を示す人は少ないであろう。
 ギリシャの哲人であり,医学の祖といわれるヒポクラテスは,次のような文章を残し,こころの座を脳に求める思想のはじまりを開いた。『人は脳によってのみ,歓びも,楽しみも,笑いも,冗談も,はたまた,歎きも,苦しみも,悲しみも,涙のでることも知らねばならない。特に,われわれは,脳あるが故に,思考し,見聞し,美醜を知り,善悪を判断し,快不快を覚えるのである。……』。
 その後,こころが脳のどこに局在しているかについては,ガレノスらの流れをひく脳室局在論(16世紀の初め),デカルトによる松果体説(17世紀後半)などを経て,18世紀後半に至り,こころの大脳皮質局在論が提唱されるに至った。
 さらに,今世紀に入って,脳定位固定装置の発明によって,脳の深部,すなわち視床下部や大脳辺縁系を含めた脳幹の機能をあばくことができるようになり,現在では,こころの動きのうちでも,知覚,認識,意志や,思考,判断,創造や,記憶,学習のような高次な精神活動は,大脳皮質とりわけ連合野の機能と関係が深いことが明らかになってきた。
 これに対して,意識とか,情動,本能や,体内諸臓器の調整のような低次な精神活動,いわば,動物界に共通した生命保持のための原始的活動は,主として,視床下部や大脳辺縁系によって支えられていると考えられる。
 ここでは心身相関を,主として生化学的な立場から掘り下げる目的で,"こころ"を上述の脳の働きの中でも,動物界に共通した原始的な機能に限定し,一方,"からだ"を体内諸臓器のいとなみ,とりわけ代謝機能,というふうに置き換え,両者の相関関係を視床下部に接点を求めて述べてみたい。
 すなわち,第1点は情動,本能行動の発現と視床下部とのかかわりについてである。情動の変化が体内諸臓器の機能を左右することは,よく知られた事実であり,この意味で視床下部と体内臓器との間には密接な結びつきがあると推定される。
 第2は,この点を更に明確にするため,体内諸臓器の代謝が視床下部によって支配されていること,ならびに内臓機能が逆に,視床下部の働きに影響を与える,という事実について述べる。このことは,とりもなおさず,生体の恒常性維持機構(homeostasis)を解明することであり,ここに明確な心身相関の姿をみることができる。
 第3に,外部環境と体内諸臓器とのかかわり方の一例として,ある種の外的情報が視床下部の機能と結びついて固定化される,つまり条件づけられると,体内代謝が特定方向に変革されるという可能性について触れる。これを仮に,代謝の条件反射と呼ぶことにする。
 これらの解析を通じて,"こころ"と"からだ"の接点としての視床下部の重要性を浮き彫りにするとともに,神経症あるいは心身症(たとえば,消化性潰瘍,高血圧症,喘息,蕁麻疹,狭心症,糖尿症など)の多くは,視床下部と体内諸臓器との間にとり結ばれている相関が破綻をきたすことに起因する可能性のあることを指摘したい。

行動科学からみたこころとからだ

著者: 中尾弘之

ページ範囲:P.1133 - P.1139

I.はじめに
 一つの宗教観であるアニミズムでは,人間以外の動物はもちろん,植物や無生物にも,人間と同じ霊魂があると信じられているが,それほどではなくても,動物の行動の中に人間と類似のものを見出し,そこに人間の心と同じものの存在を動物に想定するのは,日常,ごく普通にみられる考えである。もちろんこのような擬人主義に反対の立場もあり,こころという言葉を動物には用いない人もいる。もとより,人間のこころと同じもののすべてが動物にあるものではないが,しかし人間において,こころといわれているものの一部は,動物にもみられるのであり,情動,記憶,学習,葛藤などの言葉は,人間と動物を区別することなく,用いられている。また,動物習性学によると,人間相互の間における非言語的交流と同じ型のものが,霊長類や哺乳類にみられるというのならまだしも,鳥や魚にもみられるといわれ,しかも,鳥の行動観察から得られた知識を人間の行動修正に役立てようとする試みさえある。
 このように,こころといわれるもののなかには,人間と動物と共通に考えられるものがあり,私は,このようなこころに関与する視床下部の機能を,ネコを用いて研究しているものである。さらに私は,精神現象を脳の構造を基にして理解したいと考えているものである。このような立場から,「こころとからだ」について私の考えを述べるが,私の考えといっても,それは過去の多くの考えの延長線が交錯して成り立っているのであって,したがって,そのような考えの跡を辿りながら,話を進めてみたいと思う。

心身症者の性格・適応様式および情緒の特質について

著者: 遠山尚孝

ページ範囲:P.1139 - P.1150

I.はじめに
 いかなる病いについても,心身の同時的な過程が,あるいは相互作用が認められることを,疑う者は恐らくあるまい。もとより生理学的基盤をもたない心理的事象はなく,心理的事象を伴わない生理学的過程も存しないだろうから。かような観点よりすれば,悪性腫瘍や精神分裂病が心身相関の医学の対象になって不思議ではない。しかしまた一方では,心身症と名づけて然るべく診療の対象とするのが妥当な疾患が存するのであり,医学が本来の総合医学holistic medicineに立ちかえるよう提唱しながらも,心身医学には,また独自の領域で果たすべき使命があるように私には思われる。
 ここで心身症とは,ある期間にわたって固定し持続する身体症状が主に認められ,その診断や治療にあたって心理的要因についての配慮が特に意味をもつような病態,と定義づけられる9)。心理学的な接近の意義が大きく,解明を待たれた課題も多様であったから,心身症に関する従来の心理学的研究は多くの成果を上げてきたのであるが,また自ら堀った落とし穴にも陥ったと見られる点がある。例えばかつて精神分析医は,身体症状すなわち無意識の表現と見なし,そこに言語へと翻訳しうるような象徴的な意味を見出そうとした。なるほど身体症状は無意識と等しく,ある表現形態に他ならない。しかし,個人にとって身体症状は,やがては意識化されるような暗黙の意味をもったものとして体験されてはいない。後に明らかになるように,心身症における身体症状はもともと意識化の通路をもたない所に,あるいは意識化への通路が断ち切られた結果生ずるものであり,観察する者には結果から一見容易に意味を解き明かせる如く見えるだけなのである。さらにまた従来の心理学的研究は,心身症各疾患における特異性を解明することに主な関心を払ってきた。それによっていわゆる潰瘍性格やcoronary personalityなどがよく知られるものとなり,また独立—依存の葛藤(消化性潰瘍),攻撃性の抑圧(高血圧症や筋痛症),泣き叫びたい欲求の抑圧(気管支喘息),時期尚早な独立へのあがき(バセドウ病)など疾患による情緒的葛藤の特徴が明らかにされてきた。かような所見が,心身症における器官選択の問題を解き明かす糸口になった意義は大きい。しかし疾患の特異性が強調されるあまり,心身症全体に共通する側面が見落とされて,心—身相関の問題は多様化し,かえって不明に陥る危険も生じてきた。ちなみに,別離不安とそれに対する抑圧を中心とした防衛機制,主として向けられる適応への努力などは,心身症の多くの疾患に共通して認められるものである。
 筆者はこれまでの拙い臨床経験から,心身症者の訴える身体症状は,それによって相互の交流が発展する糸口となるものであり,それを手がかりに治療関係を続けていくと,治療関係を媒介にして彼らに共通する体験・関係の様態が見出されるようになり,それに対する操作が治療技法上の鍵となることに気付くようになった。本小論文の目的は,心身症を関係と体験の様式の障害という素朴な観点に立ち戻ってとらえ,臨床的・心理学的な検討を行なうことによって心身症に共通するある性格特徴,すなわち性格・適応様式,対象関係,情緒などの特質を明らかにするところにある。またそれによって,心身症へと病態化する過程の解明にいささかなりとも寄与することをもくろむものである。ここで用いた基礎資料は,診断的面接,心理テスト,心理療法などの方法によって得られた諸記録から成っている。なお本小論文は,既に日本心身医学会で行なった3つの研究発表を基にしており,対象と方法,結果などは,各々の項ごとに記した。

生ける身体

著者: 市川浩

ページ範囲:P.1150 - P.1157

Ⅰ.デカルトの心身論
 周知のようにデカルトは,精神と物体をまったく異質な二つの実体--それ自体で存在して,他のなにものにも依存しないもの--と考えました。身体は物体に属するとかれは考えますから,精神と身体は直接交渉することはできません。にもかかわらずデカルトは,現実のわれわれにおいて,精神と身体が全面的に合一していることをみとめます。この合一は全面的であって,精神は身体とすっかり混合し,あたかも一つの全体をなしています。というのも「考えること」を本質とする精神は,物体のように拡がりをもたない以上,身体のうちに特定の空間的位置を占めることはできないからです。そして精神が身体と合一しているかぎり,二種の思考を区別することができる,とデカルトはいいます。一つは「精神の能動」であり,これは精神のみに依拠する意志作用です。もう一つは「精神の受動」としての感覚や情念であって,これは精神のみから生ずるのではなく,それを生みだす「能動」に依存しています。ところが精神が全面的に合一している身体以上に,直接われわれの精神にはたらきかける主体は考えられませんから,精神において受動であるものは,身体においては能動であると考えなければなりません。つまり「精神の能動—身体の受動」また「精神の受動—身体の能動」という対応が成立します。デカルトがこうした精神と身体の相互作用の座として松果腺を考えたことはこぞんじのとおりです。
 しかし松果腺のはたらきが何であるかという問題以前に,精神と身体をデカルトのように考えれば,両者は本来交渉しえないはずです。ここにいわゆる心身問題が生じます。そこで晩年のデカルトは,他に還元できない原始的観念として〈心身合一〉をみとめます。精神が純粋知性によって明晰判明に理解されるのに対して,心身合一は感覚や情念においてはじめて明晰にとらえられます。そこで心身合一を理解するには,知性や想像力をもちいることを極力さしひかえ,日常の生活と交わりのなかでそれを把握しなければなりません。心身合一は日常の行動のなかでもっとも明晰にとらえられるというわけです。そして精神が身体を動かし,身体が(感覚と情念を生じさせつつ)精神にはたらきかける力の観念(力は接触なしにはたらきかけうるとデカルトはいいます)は,この〈心身合一〉という原始観念に依存しています。だが〈心身合一〉にしても,〈力〉の観念にしても,デカルトはその考えを十分に展開したとはいえません。それらは心身の交渉という事実の確認にすぎないように思われます。まったく共通するところのない精神と身体が,それにもかかわらず,たがいにはたらきかけうるという理由は,どこにもあたえられていません。

研究と報告

周期性傾眠症の臨床的考察

著者: 東保みづ枝

ページ範囲:P.1159 - P.1166

I.はじめに
 1925年,Kleine13)は思春期に発症し,2〜20日続く傾眠-明識困難状態を繰り返す症例を,periodische Schlafsuchtとして報告し,1936年にはLevin14)が,これらの症状に過食を伴う症候群に対して,periodic sonmolence and morbid hungerという症候群を提唱した。1962年,Critchley1)はそれまでの報告例と自験例11例について検討し,1)圧倒的に男性に多い,2)青年期に発症する,3)自然治癒の傾向を有す,4)強迫的な性質をもつ大食の4点をKleine-Levin症候群の重要な臨床的特徴として挙げた。わが国では高橋19)が周期性傾眠症28例に対する詳細な検討を行なっているが,その病態生理に関しては,いまだに一致した見解は得られていない。私は,周期性傾眠症と診断しうる5例を経験した。その臨床症状・経過を報告し,主に脳波記録を中心に,周期性傾眠症の病態について考察を試みる。

熱性けいれんから無熱性けいれんへの移行例—Ⅱ.因子分析法による研究

著者: 坪井孝幸 ,   山村晃太郎

ページ範囲:P.1167 - P.1171

Ⅰ.まえがき
 これは熱性けいれんから無熱性けいれんへの移行例の臨床的・脳波学的・追跡的研究(第1報)2)の続報である。したがって熱性けいれんの概略についてはすでに述べたので,ここでは繰り返さない。本研究の目的は熱性けいれん児を予後から,1)熱性けいれんのみ,2)無熱性けいれんへの移行例,3)熱性けいれんの既往を有し,今回種痘の相談に来院したものの3群に分け,因子分析法を用いて,おのおのの群を構成する要因の抽出を試みることにある。この種の分析を熱性けいれんに応用したのは,本研究がはじめてである。

葡萄膜髄膜脳炎(Vogt—小柳—原田)症候群—特に脳波所見を中心として

著者: 鈴木隆 ,   田中宣彦

ページ範囲:P.1173 - P.1179

I.はじめに
 Uveomeningoencephalitic syndrome(葡萄膜髄膜脳炎症候群)は重要な神経学的合併症を有する比較的まれな神経眼科疾患であり,葡萄膜炎,いろいろな程度の髄膜脳炎,聴力障害,白斑および白髪などが連合して出現することが特徴とされている。
 この症候群の神経学的側面に関しては,徐々に認識されてきており,Walsh8)はこのことを彼の神経眼科教科書にまとめている。
 Reedら6)は,とくに本症候群が頭蓋内圧亢進を示したときに,開頭術を必要とする他の急性脳疾患から鑑別することの重要さに注意を喚起している。Pattison5)は仮性脳腫瘍,多発性硬化症,Behcet症候群および耳下腺炎,葡萄膜炎,顔面神経麻痺を伴うuveoparotid feverの異形としてのsarcoidosisなどとの鑑別の困難さを指摘している。また彼は本症候群で重篤な脳炎をきたす症例は,一過性の脳波異常をきたすことを報告したCantat & Rouherらの論文を紹介している。
 われわれは眼科的にuveomeningoencephalitic syndromeと診断された症例に脳波学的検索を試みる機会を得たのでここに報告する。

精神病理学におけるEidologie(形相学)の意義

著者: 吉永五郎

ページ範囲:P.1181 - P.1187

I.はじめに
 現在の精神病理学の混迷を打開するため,1975年9月26日から2日間,ドイツ語圏精神病理学にあずかる研究者を集め,オーストリアのGrazで第1回日独墺精神病理学会議が開催された。そのテーマの1つは方法論の再検討であり,それにかかわる諸問題の解決策を討議することにあった。
 この危機状況2)は,すでに1957年K. Conradにより指摘され,当時その解決策として「ゲシュタルト分析」が提唱された。この方法は基礎となる心理学自体のもつ限界もあって,提唱者の意図に反し,その後の発展がみられず,危機は解決されぬままに進行し,現在の混迷状態に陥るに至った。
 私はこの会議で,Eidologieを解決策の1つとして提唱したが,この方法論は,これまで情神病理学研究の場で,ほとんど論ぜられたことがなく,したがって本論文で,学としてのその意義を述べたいと思う。

古典紹介

—Kleist, K.—Über zykloide, paranoide und epileptoide Psychosen und über die Frage der Degenerationspsychosen—第1回

著者: 飯田真 ,   坂口正道

ページ範囲:P.1189 - P.1199

 ヒステリー,躁うつ(循環)病,パラノイア,てんかん,分裂病といった既知の疾患の種類に,即座に分類できるような体質的基盤の上にある定型的な精神病の他に,この大疾患型に編入できないような相当量の非定型的で一般的でない(ungewöhnlich)疾患例がある。それにもかかわらず,それらを無理してこのような診断に押しこめようとすれば,疾患の種類の境界をぼかしてしまい,そのことが結局このような疾患概念の解体をひき起こすことになりかねない。その際,その一般的でない精神病を大疾患群の一つもしくは他のものに入れるとか入れないということは意味のないことである。この精神病はどんな疾患群にもあてはまらないのだから。Kraepelinによる躁うつ混合状態の学説に従って,多くの人はこの一般的でない精神病を躁うつ混合状態として理解できるだろうと期待した。躁うつ病についてのKraepelin自身の記述もまた,彼自身が躁うつ性感情精神病の基礎症状からまったくはずれている少なからざる症例を,混合状態としてとらえうると信じていることを明示している。その後Gaupp,Kretschmer,Hoffmann,Kahnらはこの精神病の混合という考えを本質の異なる疾患にも応用し,ある種の一般的でない精神病を躁うつ病と分裂病の混合として,また他のものをヒステリー性の病状と循環性の病状の混合として,もしくは更に別の疾患の組み合わせとみなした。もちろんある場合にはある一般的でない循環病性の病像は,患者が躁うつ性素因の他に別の側面から受け継いだ分裂病性遺伝負因をも持っており,それが病気の形であらわれたものとして理解できるかも知れない。しかしながらこういった説明のしかたは,非定型疾患のすべてにあてはまるものではない。同じことは外的障害(脳損傷,中毒,感染症),身体的疾患現象(例えば重篤な貧血,代謝障害,脈管腺障害),年齢や性の有する形態変遷的影響,病的過程そのものの強さ,などの相互作用についても言える。すべてこういった事情を考慮することは重要であるが,しかしなお“構造分析”(Birnbaum)とか“多次元的考察方法”(Kretschmer)といったものの助けをかりてもあらゆる診断学上の困難さを克服することができないだろう。それは一つにはこういった絡みあいが,大部分の非定型疾患例において明白には存在しないという理由からではなく,また特に多くの非定型精神病の症候像が他の既知の病像のいかなる混合とも認められないという理由からでもなく,何か単純な本源的なものと思われるからである。
 だから支配的な思考習慣から自由にならねばならず,一般的でない精神病をありのままにとらわれずに記載し,推移するままに観察しなければならない。その際定型的精神病との比較を決してためらう必要はない。逆にまず既知の病型を基点として用い,われわれの知識を更に発展させる場合に,それによって歴史的な関連を保つのがよい。そうすれば多くの非定型疾患がいろいろな定型精神病と近縁であることが分かる。たとえそれが精神病もしくはそれが発生してくる体質的基礎の部分現象に一致するものであれ,遺伝生物学的親和性にすぎないものであれ……。一般的でない精神病は一部はヒステリーの“副精神病”や“辺縁精神病”としてあらわれるし,一部は躁うつ病やパラノイア,てんかんの辺縁精神病として存在する。もちろん多くの場合,ある一般的でない疾患例がどのような“主精神病”の辺縁精神病として帰属されるべきなのかという疑問が生ずることはあろう。というのは症候学的,遺伝学的な糸は単に一つの主精神病からのみでなく,二つもしくはそれ以上の主精神病からたどれるからである。他方では大精神病圏と密接な近縁性がまったく証明されえないこともある。その際忘れてならないのは非定型疾患例を主精神病に併合することは,これらの領域に暫定的整理をつけるために,単に実践的歴史的な理由から歩まれた道であるということである。しかしながら一般的でない精神病がすべて大精神病圏との近縁関係をもっているはずだということではない。

動き

世界精神医学会「ハワイ宣言」案

著者: 大熊輝雄

ページ範囲:P.1200 - P.1201

 文明がはじまって以来,倫理は治療技術のもっとも重要な部分であった。現代の社会における医師の忠誠をめぐる葛藤,治療者・患者関係の微妙さ,精神医学的概念,知識,技術が人間性の法則に反する行為のために乱用される可能性などのすべては,精神医学の技術や理論を実践する人たちにたいして,高い倫理的水準を未だかつてないほど必要にしている。
 精神科医は,医学の実践者としてまた社会の構成員として,すべての医師に課せられた倫理的要求およびすべての男女がもつ社会的義務と同時に,精神医学に特有の倫理的問題を考慮しなければならない。

紹介

—千谷 七郎 著—「今日の精神医学から」—(宮脇 昭・藤井 隆・時実 利彦・千谷 七郎 共著『人間とはなにか』所収)

著者: 飯田真

ページ範囲:P.1202 - P.1204

 本書「人間とは何か」は日本文化会議の月例講演会でそれぞれ生態学,生物学,大脳生理学,精神医学における代表的研究者が「人間とは何か」という主題について行なった講演を一冊の本にまとめたものである。本書に収められている論文はいずれも興味をそそられる内容のものであるが,ここでは千谷七郎氏の「今日の精神医学から」に焦点をしぼって紹介したいと思う。
 千谷氏は自己完結的な独自な学問体系の構築を試みている,日本における数少ない磧学の1人であり,氏の単一精神病論,躁うつ病一元論はよく知られている。また病跡学の上でも「漱石の病跡」をはじめ多くの優れた業績を発表されている。昭和30年代に発表された躁うつ病の精神病理学や病跡学についての氏の先駆的研究は当時まだ若い精神科医であった私の眼を開かせ,躁うつ病や病跡学への関心をひきおこしたことがなつかしく想起される。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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