研究と報告
失われた自己の回復—させられ体験の発症から軽快過程への現象学的研究
著者:
山田幸彦
ページ範囲:P.573 - P.588
Ⅰ.緒言
われわれは生まれおちてこのかた,他者なしに在ることのできぬ者である。胎内における母とのまったき合体より否応なく相隔ち,それ以上に分割しえぬもの(in-divide)としてこの世に在るものの,それゆえにこそ原始的な不安,分離不安(separation anxiety)において胎内にありし一体感を夢みるものであり,世界内存在として関心(Sorge)へと還元されるところの者である。われわれは欠けたる者,求めるところある者であり,求めらるべき他者,自己を預けいれうる他者の必要のあるところの者である。こうした根源的な出自のゆえにわれわれは,孤独を恐れ本来的な孤独を失ったものとして「personaという在り方をしている個体」であり,「根本的には,一般に彼自身対応する他の人々によって,形式的には汝の我として,したがって人間仲間として(der Mitmensch)―この原理的な『役割』によって―規定されている」13)者である。「もし,文化の世界と一つの共同体をつくることができなければ人間は生存できず,そもそも人間であることができない」とSullivan, H. S. 25)が述べるのも同様の事情を示すものであろう。われわれにとっては,他者の絶対的な不在のもとに自己を想定することは不可能なことであり,たとえできたとしてもその時それは,およそ人間という名にふさわしからぬものとなろう。Ortega y Gassetが深い根源的孤独とともに愛を語り,Buber, M. が根源語としての我-汝(Ich-Du)を取り上げるとき,われわれは間柄としての人間の真実が全身にしみわたり理想的に実現された自己を感じ深い共感をあじわうとともに憧憬の念を禁じえないのだが,しかし,現実にはわれわれはそのような本来的な孤独を直視した相響きあう愛の世界には住んでおらず,むしろ,本来的な自己を忘却した存在として,「社会的空想体系に没入しその体系を現実とみなすほどにそれにひたりこんで」(Laing, R. D.)11)おり,そこにおける自己とはなによりも,眼差すことにおいて眼差され能為において能為されるところのものである。Sartre, J. P. 23)が端的に,「人間は,人間に対していつも魔法使い(un sorcier)であり,社会的世界はまず何よりも魔術的なのである」と述べ,Löwith, K. 13)がピランデルロの戯曲「御意にまかす」の分析を通してわれわれに生ま生ましい真実を示したのはこうした事態についてである。
このような魔術的な人間的現実を極端な偏りのかたちで,病理的,拡大的に表す一群の患者達がいる。要素的には作為思考,作為感情,作為行動などといわれ自我障害の系列に属し,旧くは島崎24)により他律体験(Heteronom-Erlebnis)の名称が提唱され,現今は総称して,させられ体験(Gemachtes Erlebnis, Beeinfluβungs-Erlebnis, passivity phenornena, delusion of influence, sentiment d'influence)といわれる。この病態の重要性はよく知られている。Schneider, K. がalles von andern Gemachte und Beeinfluβte auf dem Gebiet des Fühlens, Strebens (der Triebe) und des Wollensと,させられ体験を彼の分裂病の一級症状のひとつに挙げているのは周知の通りであり,現在も診断学的に有力な根拠として広く流布されている。しかし,ひるがえって考えてみれば,させられ体験がきわだって病理的な症状とされるものの,人という字が俗にいわれるように人と人との寄り合い,もたれあう姿を表し,そのいずれが欠けても成立せぬ共同的形成作業であってみれば,自己とはそれ自身において完結するものではなく自己ならざるものを含み,その合力においてはじめて成立するものであって,こうした人であることの構造を考慮する時,「〈私自身の行為〉の中で〈他人の意志〉を生きる」15)事態とは特に異とするに足らぬものではある。