icon fsr

雑誌目次

雑誌文献

精神医学20巻9号

1978年09月発行

雑誌目次

巻頭言

精神薄弱児の精神科医療をめぐって

著者: 東雄司

ページ範囲:P.924 - P.925

 昭和48年4月,私どもの教室で刑事告発をうけたことがあった。精神薄弱児施設収容中の13歳男子で,施設内で連日のように他児に殴打や切創を加え,飼育している動物を残酷に殺すなどの粗暴な行為が続き,気に入らぬことがあるとすぐガンゼルのもうろう状態に陥るなどと施設での取扱いがはなはだ困難となり,一時的にも私どもの精神科病棟に入院することになった。病棟内ではまわりとの緊張がほぐれ,また投与した向精神薬剤が奏効したためか,平静状態を呈していたが,入院20日目には流感に罹患,一週後下熱した頃より再び易刺激的,興奮気味となる。入院30日目の朝,よろめき歩行に気付かれたが午後突然の呼吸停止によって死亡した。家族からの告発により他大学による法医解剖に付せられたところ,大脳に巨大血腫が認められ特発性脳出血との死因鑑定がなされた。流感に続発する若年者脳出血についてもすでにわが国でも報告例があり,私どもにかかる業務上過失致死の責任は免れたが,平素私が嘱託の精神科医としてこの子の施設内での問題行動への取組み方について助言を行なっていたものの,いざそのすべてを医療の場にゆだねられた結果はこの子の死であったことで私どもはもちろんのこと,精神科治療に期待をかけていた関係者に与えた衝撃はまことに大きかった。そのことはたとえ不可抗力によるものだったとしても,生来性の出血性脆弱性の存在とか一部に想像されているように向精神薬剤による重篤な合併症としての悪性症候群syndrome malinが脳障害者に襲い易いこと,その他障害児独特の未知の要因の関連が考えられ,この不幸な結末が一精神薄弱児の医療管理中に発生した偶発事としてすまされない深刻さを見せつけられた思いがした。現今,心身障害者対策基本法にもとついて福祉行政の重要な柱の一つに障害児の医療面での充実があげられ,全国的にも専門の医療機関も設けられている。精神科においても心身障害児の診断や情動面で,あるいは合併症の治療や処遇に関して果たしている役割は決して少なくなく,そして現在,各種の児童福祉施設や自閉症児施設などに勤務している児童精神科医の数は必ずしも多くはないが,関係職員と協力して独自の計画による実践を地道に続け,精神薄弱児の不適応行動の改善にあるいは自閉症児との疎通をさぐっての実際的効果をあげている。しかしながら一方では,予算や人員の不足などの行政面の厚い壁に慷慨し,自らの方針を見出せないでマンネリ化するかもしくは無力感を抱いてその場を去って行くものもあると聞く。まして精神科といっても全面的ないしは部分的にも責任を担わざるを得ない身体的側面での治療や管理ともなると,さまざまな合併症をもつ重症心身障害児ではもとより私どもの苦い体験からも懸念されるように障害児なるが故に不測の事態が生じる虞れもあり,精神簿弱児をはじめとする精神的障害児の精神科医療のどの面をとっても生やさしいものはないはずである。しかるに最近では精神的障害児の問題は児童精神医学を志向する医師だけのものとは限らず,一般精神科医にとってもかなり身近かなものとなりつつある。というのも近年養護学級をもつ小・中学校がふえ,さらには昭和54年度よりの養護学校の義務化に向かっての文部行政に伴って,全国の市町村で設置を急がれている心身障害児就学指導委員会などへの参加や直接学校医として精神科医の協力が求められるようになったからである。ところで精神科医の立場から判別と就学指導に介入すべき障害児とは,文部省特殊教育課編「特殊教育執務ハンドブック」にあげられているように,かつては教育より保護や医療が先決するとされた白痴ないし重症痴愚,また重症のてんかん,児童精神分裂病,自閉症および接枝性精神病または極度の凶暴性をもっている精神薄弱児などであり,今日の精神医学の教科書にすら依然としてほぼこの通りの診断名や分類がみられ,困難な治療や不良な予後についての記載はあっても具体的な取扱い方法や療育に関してはほとんどふれられていない子ども達のことである。このように精神科医の福祉行政から教育行政面への連携の拡がりにしたがって,従来のように親や福祉施設からの他に学校や教育委員会からの依頼によって,現存の教育環境では適当でないと判別された,つまり行動上に問題があり集団になじめないなどの障害児が公私を問わず精神科診療機関の外来にますます増加する傾向がみられる。そしてなかには問題行動のコントロールの目的で投与された精神薬物によって,かえって過鎮静,無気力あるいは興奮を呈した事例も少なくはなく,精神的障害児の薬物療法の在り方が見直されたり,また教育の機会を奪われた精神科病棟長期入院児もいる現状に精神科医内部からも自らの受動的態度を反省する風潮が出現している。
 さて,関係者の精神科dependenceとは別に,今,養護学級や養護学校の教育現場には重度または不適応行動をもつ精神薄弱児のみならず,自閉症児や精神病的徴候をもつ子どもまでも積極的に養護,訓練そして教育の対象へ組み入れようとしている教師達の姿勢があり,またそのための努力が重ねられていることを強調しておかねばならない。とはいうものの障害の実態が外面からも指摘し得て,しかも療育の課程が一応成立している盲,聾児や肢体不自由児とは異なり,精神的障害児を前にして「この子の頭の構造や心の働きはどうなっているのだろうか」という疑問に教師達は常にぶつかり,ここでもやはり精神科医に向けて彼らの教育目標や技法にかなった解答を求めようとしていることは否定できない。しかし残念ながらそれに対する精神医学の蓄積はきわめて乏しいのである。こうしたことに関連して再び私どもの経験を述べることにする。ある養護学校での修学旅行に多動で目ばなしのできない一重度精神薄弱児を東京に連れて行くことの是非について相談をうけたことがあった。教師の間ではどんなに苦労しても生涯で唯一の機会を与えるべきとするものと引率はとても無理とするものに分れたという。そこで私はこの子には脳幹における調節能の弱さがあり,多動は外界からの刺激に無選択に対応するためと解釈せられる。だから今回の旅行は過剰な刺激にさらすことになりかねず,この子にとって苛酷な仕打ちかも知れない。それよりもこの期間中静かになった校内で教師がより多くの時間をさいて接するほうが望ましいのではないかと答えた。私のこの提案はすべての多動児について妥当性をもつものではないが,私自身この子を観察していて,また直接感覚誘発電位による検討からも適合すると思われる精神生理学的仮説を応用したものであった。次にテレメータによる脳波の実験では,重度精神薄弱児のあるものには言語による働きかけだけでは学習に必要な脳の覚醒度を高めることは不十分で,子どもの視,聴覚さらには運動感覚とすべての感覚機能を動員させることが不可欠なことを認めたが,知人の教育学者からイタールよりセガン,モンテッソリーに至る精神薄弱児の感覚教育の理念に通ずる所見として評価されたことがある。私はこれらのささやかな試みをあえて引用した理由は次のとおりである。第1に養護教育への精神医学的寄与をめざした具体的な方途の一つを参考までにしめすためである。それにもまして第2には,今後精神薄弱児との全人格的な日常のかかわりの中で障害の本質を一層よく理解するための基本的科学,すなわち障害脳の構造や機能の特徴およびその成熟の様相をふまえながら,子どもの可能な限りの発達を保障するための精神科医療を推進するのでなければ,心身障害児問題においては精神科医としてのidentityは早晩おぼつかなくなるという不安にかられているからである。

展望

薬物依存をめぐって—第2部

著者: 加藤信 ,   広瀬徹也

ページ範囲:P.926 - P.940

Ⅴ.アンフェタミン型依存
 戦後爆発的に流行した覚醒剤の乱用(昭和29年の中毒者数20万人)113)は一時その影をひそめたが,昭和45年以降再び急激に増加しはじめ,現在なお増加の一途をたどっている(表1,図2)76)。昭和48年には,覚醒剤取締法の一部改正による法規制の強化や,取締の強化徹底が行なわれたため昭和49年には一時減少を示したが,昭和50年には昭和48年の水準に再び戻った。
 第二次世界大戦中,わが国の軍需工場の労働者達は,精神力と作業能率を高めるためにmethamphetamineを使用していた。製薬会社はこの薬物の莫大な在庫をつくりあげ,ヒロポン(ギリシア語のphiloponos―仕事を好むこと―に由来する)等の商品名で売り出された。

研究と報告

恋愛妄想と嫉妬妄想の併存例—恋愛妄想の臨床的研究(その2)

著者: 石川昭雄 ,   高橋俊彦 ,   小笠原俊夫

ページ範囲:P.941 - P.950

I.はじめに
 われわれは先に了解性の高いパラノイア的恋愛妄想22例を取り上げ,恋愛妄想がその当人にとって持つ意味により,「価値追求型」,「受容希求型」,「共存希求型」の3群に分類した1)。ところでそのうち第2の受容希求型恋愛妄想は全症例が既婚婦人であるのに対し,第1・第3群はほとんど未婚者,特に第3群は全例が未婚であった。このことからも解るように,恋愛妄想を既婚者のそれと未婚者のそれに分ける見方も成り立つであろう。今回は既婚婦人に発症した恋愛妄想を取り上げてみた。これらは上述の如くすべてわれわれのいう受容希求型恋愛妄想である。つまり患者が恋愛妄想の対象に求めるものは,自分のすべてを無条件に「受容」し,理解してくれる絶対的優しさであり,それを与えてくれなかった夫との対比でそれが求められる。結論を先取することになるが,この既婚婦人の受容希求型恋愛妄想では,見逃がされやすいことではあるが,その多くに嫉妬妄想が併存している。この小論は今まであまり注目することのなかったこの点に焦点をあてている。

分裂病家族における感応現象について

著者: 山田通夫 ,   村田正人 ,   山本節

ページ範囲:P.951 - P.955

I.はじめに
 親密な人間関係の場において,たとえば血縁者内で,発端となる患者の強烈な精神症状が,周辺の者を異常な心的世界の中へ巻きこむ形で生じる精神病を感応精神病と呼ぶ。
 Lasègue et Falret8)によりfolie à deuxと命名されて以来,欧米では多くの報告がなされている。その間,本症の疾病概念の変遷が見られている。
 さて,わが国においては本疾患は少なく,最新の精神医学全書においても「比較的まれな精神医学的症状群」の項にその疾患名があげられているにすぎない10)
 従来の報告例の多くは,迷信的宗教の影響をうけた集団性精神異常状態や祈祷精神病に属するものであった3,11,14)。この種の症例は文化的水準が平均化される過程で,急速に姿を消しつつある。
 しかし,はたしてJanzarik5)をしてdas “indizierte Irresein” ist Angelegenheit des Historikers gewordenといわしめるほど,この疾患は過去のものとなってしまったのであろうか。
 最近,これまでの感応精神病とは若干趣きを異にしたものが見られるようになったという報告もある13,15)。たとえば,精神病院内でのfolie a deuxの報告例などである16)
 さて,われわれも発生状況やその経過などに興味のある1家族例を経験したので,ここに報告し考察を加えたい。

躁うつ病の非定型病像に関する一考察—思春期症例を中心に

著者: 乾正

ページ範囲:P.957 - P.964

I.はじめに
 「内因精神病」を,「精神分裂病」と「躁うつ病」に二分するというKraepelin, E. の体系に封じ込めきれないいわゆる「中間症例」に対しては,これまで数多くの概念や見解が提出されてきた。この疾病学的な位置は「非定型精神病」2,3)という新しい臨床単位を設定することにより一応の妥協が成立したかにみえる。しかし,その独立性については今なお整理が行なわれておらず議論が続いている。このこと自体が古典的二分主義に対する疑問と批判であるといえるし,またあらたに臨床単位を設けるという立場を認めるにしても,このような混乱を生ずる最大の理由は古典精神病の範囲が明確に規定され得ないこと,つまりそれぞれの非定型病像をどのように取り扱うかという境界設定の困難さにある。
 私は先に,人格統合機能の低い個体では躁うつ病はとくに思春期に非定型病像を呈しやすい傾向のあることを,精神遅滞者の症例について報告した4)。この非定型病像は,躁うつ病の病像に意識障害や幻覚妄想など,人格統合機能の破綻を反映した症状が加わったものである。そしてこれは,現在非定型精神病として分類されている疾患群の中心的位置を占める病像と同一であった。
 今回は思春期の病相の一部において非定型病像を呈した3例の症例について報告する。これらの症例には知的欠陥はみられなかったが,その個体の人格統合機能の低格性を示唆するいくつかの特徴があった。この特徴を抽出し,思春期の特性との関連において精神遅滞者の症例と比較しながら,躁うつ病の非定型病像,さらには非定型精神病について若干の成因論的考察を試みた。

隠岐島の精神障害に関する比較文化精神医学的研究(第2報)

著者: 井上寛 ,   福間悦夫 ,   角南譲 ,   梅沢要一 ,   福田武雄 ,   杉原寛一郎

ページ範囲:P.965 - P.972

I.はじめに
 第1報において,著者ら5)は,社会文化的背景の異なる隠岐島と山陰本土における精神分裂病(以下「分裂病」と略す)について報告した。すなわち,独自の社会文化的諸条件をもち,交通の不便さから新しい時代の影響を比較的受けにくい離島である隠岐島住民に起こった分裂病および神経症と,山陰本土の米子市,松江市住民に起こったそれらを,おもにその精神病理現象的面から比較した。その結果,同じ山陰地方に属しながらも隠岐島の分裂病には親族の死,家族内葛藤の閉鎖的,血縁的社会環境を軸とした妄想形成や精神運動性興奮,atavisticな奇異な言動などが初発症状として多く認められ,経過上は人格障害の著明群と発作反復を繰り返すものが多いなどの特殊性が指摘された。
 以上の研究は,両地域の病院を受診してきたものについての調査結果であるので,対象そのものに社会的選択が行なわれ,正確な比較がなされていない危険性がある。また両地域における有病率の比較ができないのも当然のことである。そこで今回は,隠岐島,山陰本土都市部の2地域にあらかじめ調査地区を設定し,精神医学的一斉調査を行ない,精神障害の有病率や,病像,経過,遺伝的負因などを比較した。ただ一斉調査の性質上神経症,躁うつ病圏のものについては把握が困難であったので対象を分裂病に限定した。

非定型精神病者と覚醒てんかん者の精神病理学的比較(第2報)

著者: 新宮一成 ,   河合逸雄

ページ範囲:P.973 - P.979

I.はじめに
 第1報において,非定型精神病者における「受身の生」について考察した。彼らは他人との「約束」の中に自分のかたちを紡ぎ出そうとして,その時その時に変化する状況に応じて,絶え間なく緊張した作業を行ない続けている。「約束」の中に自己の現われを求めるのは,先験的な自我が世界の内で「実現」されるという保証のもとに生きるのとは対比的な生き方である。彼らは「現実志向性」が強いが,このことは彼らがある程度確立した自我境界を前提として,その上に役割性によるセキュアリティを打ち建てることを自らの生として選んでいるということを決して意味しない。むしろ「現実志向性」は,自我の手応えのなさの中へ拡散してしまいそうな人間が,日常論理の中に辛うじて自己を切り刻みながら調整していこうとしている休みなき営みの表現であると考えられる。彼らは,「私」というもののあいまいさに常に足元をすくわれながら生きている。「私」とは,「私」と名付けられることによって去って行った体験たちの残した,巨大な不在である,というところから,彼らは生き始めているようである。彼らは情緒性にすぐれているが,立脚点である「私」のあいまいさのために,その情緒性も,人づき合いの中で消費されてしまうところのひそかな関係性の感覚としてしか残らない。他者と自己との位置を測るパラメーターとしての明快な感情を生み出さない。そのような情緒性を,「ものいわぬ情緒性」とした。次に,非定型精神病者の中に,転換症状を示す患者と共通の性格の見られること,非定型精神病者の中にしばしばヒステリー的色彩が見られること,いわゆるヒステリー性性格が非定型精神病者の性格像の中に透視されること等を指摘した。そしてヤスパース1)の言うような,「取り替る殻だけから成り,自己の内には何もない」ように見えるいわゆるヒステリー性性格が,実は上に述べた非定型精神病者の「受身の生」の,極端な尖鋭化であるという視点から,逆にフロイトのヒステリー者に関する記述を出発点として,非定型精神病者の「受身の生」を論じた。
 さて,次に示すように,覚醒てんかん者についてJanz2)の行なった性格描写も,やはりヒステリー性性格と共通した要素を含んでいる。
 「覚醒てんかん者を区別する特徴は,不安定性と思慮のなさへの傾向である。また容易に影響され迷いやすいことや,辛抱と野心のなさ,仰々しさ,怠慢などが特徴であり,時には誇大癖や自慢癖があって,極端な場合にはこれが虚言癖にまで進む。彼らの情動は激しく,気まぐれな不機嫌に落ち込みやすいがすぐにまた平穏となる。ふつうのよく働いている人々に比べて自分が不利な立場に置かれていることがわかると,彼らはしばしば不信や嫉妬や頑迷さをもって反応するので,彼らの行動はややもすると子供っぽく見える。彼らの絶望の期間は決して長く続かないし,また自責の念にしても同様である。彼らは自分自身に対して無関心であり,また自分の健康に対しても無関心なため,彼らの間には心気症はない。しかしこの無関心が,しばしば治療上の困難を生む。生活を規則正しくしてゆくことに治療上の力が注がれねばならないのだが,これがなかなか守られにくい。彼らは性格においても,植物神経系の機能においても,不安定さが目立つ。ビンスワンガーやクレペリンもすでにこの種の人格を描写しており,『てんかん性ぺてん師』とか,『てんかん性精神病質者』とかいう誤解を招きやすい名前で彼らを呼んでいる」。
 人格の内部に一貫した自我感が感じとられにくいこと,その一方で誇大,自慢癖等の傾向のあること,そして子供っぽく見えることも,これらの特徴は,ヒステリー性性格とその基本的な枠組を同じうするように見える。その枠組の意義については後に考察することになるが,非定型精神病者においても覚醒てんかん者においても,その生き方の基本的な事態が,ともにその標識としてヒステリー性性格という極端型を示すことが非常に興味深い。言い換えれば,両者に含まれる受身の姿勢のいくぶん人工的な尖鋭化が,ヒステリー性性格であると言えないであろうか。そしてこのことは,性格論的見地からばかりでなく,ヒステリーという病理現象と,覚醒てんかんという病理現象の関連を考察する上でも,常に計算に入れておいて良い点ではないかと思われる。
 以上のことと密接に関連して,非定型精神病者と覚醒てんかん者に関する臨床的事実も,両者の間のいくつかの対応点を示唆している。たとえば,両者はともに現実に対し,それを受身に受け入れてゆくという形での強い志向性を示す反面,必ずしも現実適応が良好でなくて,閉塞的な神経症状態に陥りやすい。また環境の変化の与える影響に敏感で,たとえば,発症の前に不眠が出現すること(これは病気の経過の一部とも考えられるが),しばしば何らかの心的あるいは身体的な無理(負荷)がかかっていることが見出される。家族力動の点から見ると,患者に積極的かつ天真らんまんに密着したがる親の存在が目立つ。また,家系の中に,それぞれ分裂病,睡眠てんかんに比して,遺伝負荷の見出される率が高いようである2,3)。重要なことに,型の移行の問題がある。てんかんにおいては,覚醒型は睡眠型ないし汎発型へ移行する。内因性精神病においては,非定型精神病者の一部は,入退院を繰り返すうち,分裂病類似の病態へ移行する。この2系列の移行の間には,何らかの類比点が見出されはしないだろうか。覚醒てんかん者の性格像がヒステリー的なものを介して非定型精神病者の性格像とつながるものを持ち,一方睡眠型てんかん者の示す精神面の異常が,しばしば分裂病様であること6)は,そのことを裏付けてはいないだろうか。上述した臨床的観察の検討はこれからの課題であるが,ここではまず,非定型精神病者と覚醒てんかん者の人となりに関する比較考察をさらに進めておきたい。

向精神薬療法時における休薬日(Drug Holiday)の試み

著者: 田中潔 ,   柏木徹 ,   今井司郎 ,   久田研二 ,   田中雄三 ,   挾間秀文 ,   小椋力 ,   織田尚生

ページ範囲:P.981 - P.988

I.はじめに
 精神科領域において薬物療法が広く行なわれるようになるとともに,向精神薬が漫然と長期間継続して投与される傾向が多くなってきており,最近では長期服薬による患者の不利益が大きな問題としてクローズアップされている。特に,角膜,水晶体の混濁,皮膚異常色素沈着,遅発性ジスキネジアなどの副作用は,一般に1日の服薬量が多いものや,服薬開始時からの総服用量が多いものに出現しやすいことが知られている(小椋ら1〜3))。また,患者の経済的負担や社会的活動への影響なども,長期服薬による患者の不利益として当然問題となる。今日の向精神薬療法は,このような患者の不利益という角度から再検討される時期にきている。
 このための一つの動向としては,長期持続性薬剤の開発によって,1〜2週間に1回投与する薬物療法を行なおうとするものがあり,他方では現在の投薬スケジュールを再検討しようとするものである。後者の中には,従来広く行なわれている1日量の分割投与法は,1日量1回投与法と比べて,薬物血中濃度や,臨床的効果の面からほとんど差がなく,必ずしも1日3回分割投与する必要性はないとの報告(大塚ら4),Rivera-Calimlimら5))もある。この考えをさらに押しすすめるものに間歇的投与法,すなわち休薬日を設ける方法がある。しかし,これについてはいまだ十分に検討されておらず,わが国でもほとんど研究されていない。
 そこで,著者らは向精神薬療法中の精神分裂病者に,治療効果を減弱させず総服薬量を減らすこと,薬物の長期連続投与によって懸念される生体の諸種の障害を軽減させる可能性,あるいは,与薬業務に要する時間短縮,患者の経済的負担の軽減などの利点を目的にした薬物間激的投与法,すなわち休薬日の設置を試みたので,その結果の概略を報告する。

向精神薬長期服用患者の剖検でみられた肺動脈血栓,肺梗塞について

著者: 荻田和宏 ,   中野嘉樹 ,   河内泰彦 ,   古賀良彦 ,   伊藤斉 ,   山口寿夫

ページ範囲:P.989 - P.997

Ⅰ.序
 1952年のCPZ脚註)の精神科治療への導入以来,20余年が経過し,その間多数の向精神薬が開発され,臨床に供されている。他方,向精神薬療法の多様化と平行して,副作用の報告も莫大な数に達し,現在は薬物療法が有効性,毒性の両面から再検討される時期に至っているといえる。
 ところで,向精神薬の重篤な副作用の1つとして,静脈血栓,肺血栓,肺梗塞が欧州中心に多数報告されているが,われわれの知る限り本邦では報告がない。われわれの勤務する精神病院では20数年来,精神病患者の剖検を行なっているが,最近10年間に8例の肺動脈血栓,肺硬塞による死亡例を経験したので,ここに症例報告するとともに,若干の検討を加えたい。

抗てんかん薬服用者の臨床検査所見—γ-GTP,アルカリフォスファターゼ,血清Ca値を中心として

著者: 竹下久由 ,   山根巨州 ,   古賀五之 ,   岡崎哲也 ,   川原隆造 ,   田村辰祥 ,   挾間秀文

ページ範囲:P.999 - P.1009

I.はじめに
 てんかんの治療は薬物療法が主体で長期間にわたる規則的な服薬が原則とされ,しかも日常診療上2種類以上の抗てんかん薬の併用を余儀なくされることが多い。したがって抗てんかん薬の使用にあたっては,生体にとって好ましくない副作用の発現に十分な注意が払われなければならない。
 これまで抗てんかん薬による副作用として一過性の中毒症状のほかに,肝機能障害,造血器官障害,骨病変,免疫機能抑制,催奇形成などが知られており25),血液検査でも前記副作用と関連して血清アルカリフォスファターゼの活性上昇15,34),血清カルシウムの低下11,14),血清無機リンの低下13,24),γ-GTP(γ-glutamyl transpeptidase)の活性上昇1,28,30),葉酸の欠乏21),免疫グロブリンA(IgA)の低下35)などが報告されている。しかし現在までのところ,これらの検査項目の異常値出現に関与する成因については十分に明らかにされておらず,また検査項目相互の関連性などについても不明な点が多い。著者らは抗てんかん薬の投与を受けている外来通院患者に種々の尿・血液検査を施行し血清γ-GTPの活性上昇,血清カルシウム値の低下,血清アルカリフォスファターゼの活性上昇などを認めたので,これらの異常値出現に関与すると思われる状況要因や,検査項目間相互の関連性などにつき検討し若干の考察を加えて報告する。

Carbamazepine血清内濃度の問題点—とくに単独投与初期について

著者: 兼子直 ,   鈴木喜八郎 ,   佐藤時治郎

ページ範囲:P.1011 - P.1014

I.はじめに
 抗てんかん剤Carbamazepine(CBZ)はてんかん治療にひろく使用されている。本剤を単独投与群と他剤併用群について調べた結果,両群とも投与量が増大しても血清内濃度(以下,濃度と略す)はそれほど増加せず,投与量と濃度との相関が低くdose-dependencyはないことはすでに報告3,5,9,12,13)されている。この原因について服薬期間の長短による代謝速度の変化,薬物相互作用などを想定して検討5,7)しているうちにCBZ単独投与中の初期に濃度が低下する3症例がみられたので報告する。

短報

分裂病様状態とEEG-Spikeが交替性出現を示した1例

著者: 細川清 ,   山本光利 ,   黒田重利 ,   井口欽也

ページ範囲:P.1015 - P.1017

I.はじめに
 てんかんにおける挿間症のなかで,Landolt1)の治療による強制正常化は,脳波所見が改善されるのに,かえって不機嫌をはじめとする多彩な精神症状を逆に来すことで良く知られるようになった。一方非定型精神病にも,てんかん性要因2)が認められ,病期にかえって棘波をはじめとするてんかん性異常波が抑制され,解離期に逆に出現することがあり,著者3)らの教室で以前症例報告をしたことがある。
 脳波上の強いてんかん性異常波,すなわち棘徐波に限らず,徐波の群発や徐波成分の多寡と精神症状が逆の相関を示す,いわゆるシーソー現象は木村4)が興味ある症例で提出した。
 今回われわれは,病初には確かにてんかん性けいれん発作を有したが,間もなくoligo-epilepsyの様相を示し,精神分裂病像を比較的長い挿間症として認めた興味ある1例を長期間観察した。そしてこの精神病像の出現と脳波上の多棘徐波結合の出現とが明瞭な交替現象(seesaw phenomenon4))を示すのを確認したので,若干の考察を加え,その次第を報告する。

古典紹介

—Gilles de la Tourette—Etude d'une affection nerveuse caractérisée par de l'incoordination motorice accompagnée d'écholalie et de coprolalie—第1回

著者: 保崎秀夫 ,   藤村尚宏

ページ範囲:P.1019 - P.1028

 Bouteilleは80歳時に,それまでの長年にわたる実地での深い経験を基に,「舞踏病概論」を著わしているが,その「序文」原註3)で次のように述べている:《この疾患では,あらゆることが異様である。即ち,その名称はおかしなものだし,症状は奇異だし,特徴は多義にわたり,原因も不明で治療も問題である。偉大な学者達は,その存在を疑ってきたし,ある者は見せかけであると考えたし,それはまた,超自然的なものだと批判した人々もいた》と。彼が,広く賞賛されたその著書を出版した頃は,このような非協調性運動が優位な症状を占める神経疾患は,未だ,それ以外のものと区別されていたわけではなく,その大部分が確かに「舞踏病」の表題のもとに一括されていた。より適切に言うならば,「舞踏病」という表題では,この疾患の本質をほとんど判断できないということである。
 しかし,1818年以来,大きな進歩がなされ,舞踏病は,その神経疾病論に完全に助けられて,日日その病的領域は,狭められてきた。そしてこのフランスの老学者が,いみじくも予測して,次のように述べている:《私は,「仮性舞踏病」ないし,「偽舞踏病」原註4)という名称を用いる。これは,痙性,けいれん性,ヒステリー性などの神経疾患の中で,真正舞踏病の特徴的な症状をもたないことで区別されるし,「身体の異なった部分の不随意的な動きと顔面のしかめ顔様のけいれんによって,真性舞踏病と類似していない」》と。このような,Bouteilleの研究を受けついで,この昔の定義を十分に理解しようとすれば,確かに舞踏病群から切り離して,今日では最早舞踏病ではないことをより完全に示すことができるだろう。

動き

—Cornelio Fazio—電撃についての公開討論—その創始者Ugo Cerletti生誕百年にあたって

著者: 村田忠良

ページ範囲:P.1030 - P.1031

 最近イタリアの精神医学者で電撃の創始者であるUgo Cerlettiの生誕百年が祝われた。
 奇妙な符合で,これもまさに最近,治療方法としての電撃についての論戦が白熱化している。この論争は新しいものではない。ここ10年来,「暴力的で抑圧的な方法」であるとしての電撃に対する戦いが行なわれ,論調はしばしば脅迫的なものであるために,多くの精神科医はこの方法が必須のものであるときでも公の席でそれと肯定する勇気をもたず,他の者はこれを科学的に証明する機会なしに,ただ「戦前派の精神科医」と自認してこの方法を見捨ててしまったのであった。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

雑誌購入ページに移動

バックナンバー

icon up
あなたは医療従事者ですか?