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雑誌目次

雑誌文献

精神医学21巻2号

1979年02月発行

雑誌目次

巻頭言

労働精神医学の課題

著者: 小沼十寸穂

ページ範囲:P.114 - P.115

(1)
 私は,労働科学研究所(労研と略称)に復帰して,労働精神医学の研究を標榜し,これを提唱して,すでに8年余りを経た。
 「産業での精神医学」Psychiatry in Industry,つまり産業場裡における精神科,精神衛生ないし精神健康管理という狭義のものではなく,「労働科学としての精神医学」Psychiatry as Science of Labour,つまり労働科学(これは労働に関する体質・体力学,生理・心理学—心身医学も—,衛生・公衆衛生学,生化学・栄養学,人間工学などから公害学,さらにはその社会学・経済学にも及ぶ広汎なものの綜合科学)において,広義の神経精神医学(あるいは神経学と精神医学)の占めるべき研究領域のものを追究するのを目的としている。

特集 妄想

序論

著者: 笠原嘉

ページ範囲:P.116 - P.116

 何よりもまず,この「妄想」というシンポジウムの行なわれた「精神病理懇話会・富山」について一言することをお許し願いたい。富山在住の精神科医8名が実行委員になって開かれた会である。河合義治(県立中央病院),刑部侃(厚生連滑川病院),高柳功(有沢橋病院),武内徹(高岡市民病院),谷野亮爾(谷野呉山病院),高田信男(市立砺波厚生病院),平野正治(県立中央病院),福田孜(福田病院)の8氏。そして実行委員会を代表して高柳功氏がプログラムに掲げておられる趣意書は本会の性質をよく表わしていので,一寸引用させていただこう。
 「……御承知の如く,近年精神病理学の分野では研究発表の場が著しく制約され,研究の成果を公表し討論する機会にもほとんど恵まれないのが実情である。このような事態は,日本の精神病理学の将来にとって大きな損失であり,また多くの精神科医にとって不幸なことと考えます。そこで数年来ささやかな勉強会をつづけている富山県下の精神科医有志が"精神病理懇話会・富山"を開催し,研究発表の場を提供しようと,かねてより準備をすすめて参りました。このほどその要綱がまとまりましたのでここに御案内申上げます……。」

老人の妄想について—その2つの特徴:作話的傾向および「共同体被害妄想」

著者: 原田憲一

ページ範囲:P.117 - P.126

Ⅰ.まえおき
 老人が妄想的になることは稀でない。しかし老人の妄想はあまり臨床医の注目をひかない。それは老人では一般に,ましてや器質性痴呆や記憶障害を多少とも示す老人ではとくに,その妄想のために実際上の処遇に困ることは少ないし,若年者の妄想の場合のように老人はその妄想をふりかざしてわれわれに立ち向ってくることが少ないからであろう。さらに,妄想のような産出性心理現象が,器質性精神症状によって形を崩されるため,精神病理学的にも関心が薄められる。いいかえれば,老人一般,とくに老人の痴呆が1つの生物学的欠陥として心理学的関心から遠ざけられる時,一緒に,そこにみられる妄想現象も関心からはずされてしまうのである。
 老人の妄想を論じる場合,当然疾病学的な問題がある。妄想を伴った器質性精神病か,年をとった分裂病か,老人の妄想反応か,あるいはパラノイアやパラフレニーかなど。また器質性精神病にしても,それが老年痴呆か,動脈硬化性痴呆か,などの問題がある。しかし,ここではこの観点からの分析は敢えて行なわない。器質性痴呆のあるなし,記憶障害のあるなしに関係なく,精神障害をもって入院を余儀なくされている老人を私が臨床的に診察している過程で,私の注意を惹いた老人の妄想についての2つの側面,特徴について述べる。

分裂病型妄想の理論的問題点

著者: 安永浩

ページ範囲:P.127 - P.137

Ⅰ.全体の前おき
 「妄想」という言葉は実際上大へん幅ひろく用いられる。「常識に反する」思考は皆妄想,と呼ばれかねないし,話を分裂病領域に限ってさえも,多少とも逸脱した言動の大群,また,自我障害や幻覚の忠実な体験報告に過ぎないものも,皆妄想,と呼ばれてしまうことが多いのである。
 これらをいっぺんに論ずることはとてもできないので,本稿ではまず,いわゆる真正妄想echte Wahnideen(Jaspers, K.)1)の型の現象にしぼって考察を行なうことにする。いうまでもなく,これは妄想知覚,妄想着想,妄想気分等の諸形態を含むが,いずれにせよそれ以上の心理的遡及が「不可能」な,疾患過程からの「原発的」なものとみなされた症状で,病的形態としては最も純粋(むしろ単純)と考えられるものである。

妄想患者とのつき合いと折り合い—してはいけないらしいことと許されるだろうことと

著者: 中井久夫

ページ範囲:P.138 - P.142

 われいまだ妄想を知らず,いわんや妄想患者の精神療法をや,というのが,いちばん正直なところかも知れない。
 私の思考の中で,妄想はいつも焦点に据えられたことがなかった。妄想はどうも私にとって思考の中心にやってくることを拒むようだった(本稿はしたがって苛酷な課題論文である)。私は患者の話を聞いてはきた。時には耳を傾けて聞いたこともないではない。けれども,私は患者の妄想を聞いたのではなかった。患者の語るところをあるいは沈黙を聞いたにすぎないのである。

分裂病の妄想—その日本的特質

著者: 宮本忠雄

ページ範囲:P.143 - P.152

I.はじめに
 精神分裂病の妄想にどういう日本的特質が認められるかという問題については,すでに1939年に宮城19)の発表した研究がある。「家族を被害者とする被害妄想」というその表題で簡潔に集約されているように,彼はこの種の妄想がわが国に多くみられる特殊な被害妄想の形式であることを指摘し,さらに,この現象を自我の範囲という面から考察して,いわゆる社会的自我の範囲が日本のような家族主義社会では家族全体におよびやすいことを強調したわけだが,宮城の着目したこの主題は30年後に小久保14)によってふたたび取り上げられ,共同体感情の障害という視角から補強されるにいたる。小久保の論考は,共同世界における「ともにある」存在の挫折から病者を中心とする家族共同体の意識がいっそう密な結合性をつよめていくその力動に重点をおいたもので,必ずしも日本的特質をうたってはいないが,いずれにせよ「家族を被害者とする被害妄想」が分裂病の臨床でなお頻繁な発生をみている事実に変わりはない。
 ところが,この問題は前記の先駆的研究以後あまり関心を呼んだ形跡がないし,まして分裂病の妄想をめぐる日本的特質が正面から論じられたことはなく,荻野27)や笠原ら12)のすぐれた総説にもこの点の記述はない。近年,海外諸国との国際交流の機会がふえ,精神医学の分野でもtransculturalな研究方向が次第に活発化している現状からみると,これはいかにも不可解であって,culture-boundな症状やkulturlabilな現象への入念な配慮をおこたるところからは均衡のとれた精神医学の発展を期待することはできまい。
 このたび,精神病理懇話会・富山の第1回集会で妄想のパネルディスカッションが持たれたのを機会に,筆者は「分裂病の妄想―その日本的特質」と題して上述の問題圏を粗描することにしたが,この構想にきっかけをあたえたものとして2つの契機があるので,本論へ入るまえおきとしてこの点からまず述べておきたいと思う。
 1つは西欧(といっても主にドイツとフランス)の患者と日本の患者とのあいだに見られる具体的なありようの違いである22)。われわれはふつう教科書や文献のたぐいから得た知識をとおして,分裂病のイメージというのが大体均一で,どこへ行ってもあまり変わらないと思いこんでいるが,実際は必ずしもそうでなく,ヨーロッパと日本人ではかなりの差がある。筆者ははじめてドイツへ行った折「こちらの患者は興奮してあばれたりどなったりすることがない」と聞いて驚いた経験があるが,日本の病院でよく見かけるそういう光景はなるほど向こうにはない。では,彼らはどうふるまっているかというと,たとえ一方的な論理にせよ,自分の立場を言葉で徹底的に押し通そうとする。つまり,日本の患者たちが自分を見失って感情や行動で反応しがちなのに対し,向こうの患者たちは言葉や理屈でいわば武装しながら自分をつらぬこうとする。それゆえ,日本の患者のように,馴れてくるにつれて医師や看護者に「ベタベタつきまとう」ようなこともない。また,日本ではとかく守勢にまわりがちで,簡単に「被害的」になってしまい,そのくせ彼らの被害妄想はamorphで形態も構造も脆い場合が多いのに,向こうではむしろ攻勢に出ることが少なくなく,いきおいその妄想も明確な主題と強い骨格をそなえることになる。日本では患者が暴力をふるうとはいっても,せいぜい運動乱発的に周囲の人になぐりかかったりするのがおちなのに,ヨーロッパでは特定の個人に狙いをさだめ,ピストルなどで殺傷する事件が跡を絶たない34)のも,上述のような両者の違いに由来するだろう。
 もう1つは,宗教精神病理の分野で分裂病と宗教の関係をしらべていた折20,23)に気づいたことだが,たとえば,この方面の簡潔な古典として知られるK. Schneiderの『入門』32)は分裂病者の宗教的体験として,神の声を聞くなどの幻聴,神の姿を見る幻聴,妄想性啓示(wahnhafte Offenbarung),ある特殊な使命を与えられたという妄想性信仰(wahnhafter Glaube),見えないものの現存感(神の実体的意識性),超越者からの支配感(被影響体験)その他をならべている。これらはどれも病者の主体を超えた神やその等価物の存在が前提となって生起する現象で,それが外部から病者にさまざまな作用をおよぼすという形で「宗教的体験」が現われてくる。こういう種類の体験はむろん日本の分裂病者にも観察されないわけではないが,これよりはるかに多いのは,神や人の霊が「のりうつる」「つく」「よる」といった憑依体験とか,自分が「神になった」「○○の神である」という一種の化身妄想などで,これらをぬきにしてはおよそ日本人の宗教体験を語ることができない23)
 ところが,こういう憑依体験にせよ化身妄想にせよ,融合ないし合体を本質とするような宗教体験は,あとにも見るとおり,ヨーロッパ系の文献ではほとんど問題にならない。神に関してはTheomanieとかEntheomanieの用語があり,前者は一般に宗教的内容の妄想を漠然と指し,後者はU. H. Peters30)によると「神に憑かれているとか,神であるという妄想的確信」に相当するが,これを症例で厳密に跡づけた文献は見当たらない。キリストへの化身,すなわち「キリスト妄想」(Christuswahn)でさえけっして多くはない16,32)。DamonopathieないしDamonomanieのほうはDamonenwahnとともに精神医学史上重要な概念であるが41,44),これも厳密に「悪魔憑依」にあたる"demonomanie interne"1)はごく一部をなすにすぎない。―
 以上に述べた2つの契機はたがいに無関係なものではけっしてなく,日本人の自我の特有なあり方をともに示唆しているようにみえる。この点の議論はあとへ回すことにし,順序として,日本の分裂病の患者にどういう種類の妄想が特有な形態として現われるか,そこになにか共通の構造が見いだせるか,といった問題からまず検討していくことにしよう。

研究と報告

自閉症児における知覚について

著者: 野上憲彦

ページ範囲:P.153 - P.160

Ⅰ.まえがき
 自閉症の病因に関しては,現在種々の議論がなされており,その中で,最近注目されている仮説の一つにOrnitzら5,6)の唱える知覚障害説がある。これは,自閉症児は外界の刺激を適切に調整できず,そのためある刺激には過反応を示し,熱中したり恐慌を起こしたりするが,ある刺激には無反応であるといったperceptual inconstancyの状態であるとしたものである。そして,その結果として発達に障害を来し自閉症状を生じるとした。その障害の原因としては,central nerve systemのhomeostasis調整の失敗を仮定し,その病理的メカニズムとして神経生理学的なものが考えられている。Ornitzらはvestibular systemのcentral connectionを伴う脳幹の機能異常ではないかと述べ,その生理学的確証を求めて誘発電位等の研究を進めている。一方,こうした知覚障害説に対しRutterら1)は自閉症児がpsychometricな評価でvisual perceptual defectの存在を示す結果を示さないことから自閉症の病因としてのvisuospatial defectの存在を疑問視した。さらに,盲児や聾児といった知覚的障害を持った子供が,必ずしも自閉症状を示すとは限らないことより,知覚障害と自閉症状を結びつけることへの反論も出されている3)
 このように,自閉症の病因論ははなはだ混沌とした状況を呈している。しかし,自閉症の中には確かに知覚的な障害を示す子供達が存在し,一次的病因であるか否かは別としても自閉症児の知覚のあり方を明らかにしてゆくことは重要である。だがその場合,知覚とは何かということが問われなければならないだろう。知覚の問題は必ずしも生理的レベルのみで論ずることはできず,心理学・哲学の分野においても広く論じられている。

向精神薬長期服用者の自律神経機能—第3報 心・血管運動機能に関して

著者: 岡田文彦 ,   大宮司信 ,   木下真二 ,   山鼻康弘

ページ範囲:P.161 - P.168

I.はじめに
 われわれは種々の向精神薬と抗パーキンソン剤(抗パ剤)を長期間多量に服用している患者の自律神経機能について検討を加えているが,これまでに,その一部として,瞳孔機能に関する検索結果を報告してきた1〜5)。また一連の研究の第1報には,一地方都市の総合病院併設精神科に入院あるいは通院中の患者における心・血管運動機能を検索した結果についても言及した1)。すなわち,調査しえた入院患者50名中,起立による収縮期血圧が臥位の血圧の22%以上低下する症例が約1/4も認められた。このような起立性低血圧の出現は向精神薬による血管壁の交感神経αリセプターのブロック作用によるものと推定される。ところで向精神薬の心・血管系への影響に関して,頻脈や心電図変化などの報告6〜8)は多いが,体位変化に伴う心・血管系の動的変化との関連で向精神薬の影響を検討した報告はきわめて少ない9)。本報告では,向精神薬と抗パ剤を長期間服用中の患者について,体位変化による脈拍数,血圧,心電図T波高の変動を,β遮断剤併用の前後で検討を加えた結果について述べる。さらに,β遮断剤併用による交感神経活動の変化を調べる目的で血漿ドーパミン・β・水酸化酵素(DBH)活性,交感神経および副交感神経のリセプター側の反応を知る目的で,それぞれ血漿cyclic AMPおよびcyclic GMP濃度を検索した結果も報告する。

抗てんかん薬血清濃度の入院患者と外来患者間の差異

著者: 風祭元 ,   小原逸子

ページ範囲:P.169 - P.172

 抗てんかん薬を持続的に処方されているてんかん患者89名のDiphenylhydantoin(DPH)およびPhenobarbital(PB)の血清濃度を酵素免疫測定法および紫外部吸光光度法を用いて測定したところ,外来患者では入院患者に比べて,平均血清濃度,血清濃度/与薬量比の平均がいずれも有意に低値を示した。この差異の主な原因は,外来患者における不確実な服薬情況(drug deviation)にあるのではないかと推定され,抗てんかん薬の血中濃度の臨床的研究にあたっては,患者の服薬情況を正確に把握することが重要であることを痛感させられた。

てんかん者の挿間症とけいれん発作の関係について

著者: 小穴康功

ページ範囲:P.173 - P.179

I.はじめに
 てんかんの精神症状は複雑かつ多彩であるが,おおむね,精神発作,挿間性精神症状,慢性の持続性精神症状に分類される。なかでも,精神分裂症様挿間症や精神発作について言及した文献は数も多く,研究の歴史も古い。過去において,てんかんと精神分裂病が合併しうるか否かといった疾病論的見地からの数多くの学説があった。
 1913年Kraepelin1)はてんかんと分裂症の関係について,精神分裂症患者の15〜20%にてんかん様発作を認めている。1914年Giese2)はてんかんと分裂症の合併説を展開したが,Krapf3)(1928)はてんかんの側から把え,てんかんと分裂病の合併はありえないとし,てんかんの分裂症様症状は病因論的にepileptischer Defektすなわちてんかんの本態性変化の上に成立するとした。
 一方,Meduna4)(1935)はこれらの2つの疾患に拮抗作用があり,合併はありえないとの考えを明らかにしたが,Jasperら5)(1939)はてんかんと精神分裂症の拮抗学説に反論し,分裂症状もてんかん発作も合併しうると考え,分裂症様症状は,ある特定の皮質焦点と関係があるのではなく,大脳活動の種々の因子が作用しているのであろうと推定した。さらに秋元6)(1937)は「合併」および「混合」の概念は病像成因論を含むがゆえに合併説に批判的見解を示した。
 以上のように,精神分裂症とてんかんの問題は,分裂症様症状として,てんかんの側から把えることがすう勢となってきているが,てんかんの精神症状については,臨床脳波学の進歩から数多くの病因論が次々と展開されることになった。
 しかし,挿間性精神症状と精神発作の境界は不明瞭な点も多く,臨床の場で遭遇する症例の中には過去の病因論のみでは解決されえない問題点があり,てんかんの精神発作と挿間性精神症状をけいれん発作との関係の中で把え,両者の関係を臨床脳波学的に検索することはこの問題についての一つのとらえ方として意義深いことと思われる。そこで,本論文では,てんかんの挿間症とけいれん発作との関係を脳波所見等と合わせてこまかく研究し,てんかんの精神症状発生機転について若干の考察を行なった。

1てんかん者にみられた分離ヒステリー

著者: 加藤秀明

ページ範囲:P.181 - P.188

I.はじめに
 てんかんとヒステリーの関連については,古くから多くの人々によって種々の立場から論じられているが,現在でもなお鑑別困難な場合が少なからず存在し,十分な合意には達していないようである。ここに報告する症例も,てんかん発症と同時に,全生活史健忘,もうろう状態,遁走,疾走発作などの多彩な臨床症状を呈し,ヒステリーとの鑑別が問題になった症例である。本稿においててんかん発症とともに混乱に陥った1てんかん者の過程を,てんかんとヒステリーの関連から論じてみたい。
 なお,臨床症状のなかで全生活史健忘状態はそれ自体興味ある現象なので,項を改めて本症例を全生活史健忘の観点からも検討した。

一過性にKlüver-Bucy症状群を示した亜急性脳炎の1例

著者: 松島嘉彦 ,   挾間秀文 ,   国元憲文 ,   入江秀樹

ページ範囲:P.189 - P.198

I.はじめに
 1937年,KlüverとBucyはサルの海馬,扁桃核を含む両側側頭葉切除によって特異な行動変化が生ずることを報告した。観察された症状は,1)精神盲を思わせる行動様式,2)oral tendencies,3)hypermetamorphosis,4)情動変化,5)性行動の増加,6)摂食行動の変化である15)。この症状群がヒトの両側側頭葉切除例11,19,31)および各種脳器質性疾患6,7,10,20,23,26,30)の際にもまれにみられることから,本症状群の病態をめぐって活発な論議が行なわれるようになったが,精神盲についてはこれを記憶障害によるとする立場をとり,視覚失認に批判的なものもある2,16)。一方van Bogaertら33)は側頭葉に広範な炎症性壊死病巣を有する特異な脳炎例を急性壊死性脳炎(acute necrotzing encephalitis)として報告したが,その後これと亜急性封入体脳炎(subacute inclusion encephalitis)との類似性が指摘され9,17),その病因としてヘルペスウィルスの感染が重視されるようになった14)
 今回われわれは,亜急性脳炎の経過中に一過性にKlüver-Bucy症状群(以下K-B症状群と略す)を示し,その後の検索でヘルペス脳炎あるいは,壊死性脳炎の可能性が推測された長期生存例を経験したので報告する。

短報

外来治療における1つの試み—Haloperidol筋肉内注射による再入院防止の意義について

著者: 鹿井功 ,   服部英世 ,   三村孝一 ,   荒木邦治

ページ範囲:P.199 - P.201

I.はじめに
 精神科医療において,薬物療法の進歩は軽快退院者を増加させ,それとともに再発防止に関する研究は数多く報告されている3,7,9,11,12)。しかし,再発した患者に対する再入院防止の試み,さらには再入院による患者への影響などの検討が十分なされているとはいい難い。
 今回われわれは精神分裂病の再入院を防止する目的で,外来で連日haloperidolの筋肉内注射を行ない,ある程度の目的を達したのでその結果を報告し,特に再入院防止のもつ意義について少しばかり考察を加えたい。

尿中β-フェニールエチルアミン排泄量の増加を示した月経精神病の1例

著者: 中河原通夫 ,   渡辺明子 ,   仮屋哲彦

ページ範囲:P.202 - P.203

I.はじめに
 β-phenylethylamine(以下PEAと略す)は,脳内に微量存在しているところからmicroamineと呼ばれている生体amineの一つで,catecholamineに影響を与え,neuromodulatorとして作用することが知られている1)。最近,うつ病患者の尿中でPEA排泄量の減少が2,3),また精神分裂病患者の尿中でPEA排泄量の増加が報告され2),精神障害とPEAとの関係が注目されるようになった。さらにPEAの構造式がamphetamineと類似しており,一方,慢性amphetamine中毒により幻覚妄想状態の出現がみられるところから,PEAと幻覚妄想状態との関連についても興味がもたれている。そこで,われわれは,月経数日前より月経直後まで,不眠,被害妄想を示す月経精神病患者について,尿中24時間PEAおよびdopamine排泄量を測定し,精神症状との関連について検討を行なった。

古典紹介

Eugen Bleuler:Freud'sche Mechanismen in der Symptomatologie von Psychosen〔Psychiatr-neur. Wschr.,34;316,35;323,36;338,1906.〕

著者: 下坂幸三

ページ範囲:P.205 - P.215

 シュピールベルクSpielbergは,神経学中央雑誌(Centralblatt fur Nervenheilkunde)において,フロイトの精神分析について,フロイトの問題提起と考想を知った者は,びっくりさせられるであろうと論評した。シュピールベルク自身は,フロイトの精神分析を追試はしなかった。バーデン・バーデンにおける去年の西南ドイツ精神神経学会において,アシャッフェンブルクAschaffenburgは,その見事な講演のなかでおもに,フロイト理論の最も弱い面,すなわち治療の問題を取り上げて,フロイトをはげしく攻撃した。その講演は,成功しすぎた感がある。参会者のそのさいのさかんな拍手は,そのなかに大変好ましい価値のある一人の子供がいるかどうかを観察する時間の余裕がないままに,風呂の中のものをできるだけはやく,すべて流し出してしまおうという傾向をはっきり示していた。
 私が以下に述べるところは,全体の中から一つの現実的な批判を呼び出そうという要求から生じている。私が,フロイトについて思い違いをしているのではないとするならば,フロイトの理論を詳しく調べてみることは,少なくとも低く見積ることのできない利益をもたらすはずである。私が,確信しているように,フロイトの見方の中に,何か正しいものがあるとするならば,そのような重要な認識に対して,学問に至る道は,閉ざされるべきではなかろう。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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