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雑誌目次

論文

精神医学22巻10号

1980年10月発行

雑誌目次

都立松沢病院創立百年を記念して 巻頭言

特集にあたって

著者: 後藤彰夫

ページ範囲:P.1022 - P.1022

 都立松沢病院は,昭和54年11月7日,明治十二年東京府癲狂院として発足して以来創立百周年を迎えたとして記念行事を行った。記念式典は,同病院講堂において,秋元波留夫院長の式辞と関係各方面の来賓祝辞をもってはなやかに催された。ひき続き同日午後,「日本精神医学と松沢病院」と題する創立百年記念シンポジウムが世田谷区立烏山区民センターで行われた。秋元院長の序論に続いて,大阪大学中川氏,松沢病院金子氏,都精神研石井氏,京都府立医大加藤氏,熊本大学立津氏の講演が行われた。
 都立松沢病院は,少なくとも戦後ある時期までは,よい意味でも悪い意味でもわが国の精神医学と精神医療の象徴的存在であった。したがって,その歴史の回顧は現在までのわが国の精神医学史と精神医療史の重要な部分をなすとともに,それに基づく将来への展望は今後の歩みの指標として役立つと思われる。これが,本特集の企画された意図である。

序論

著者: 秋元波留夫

ページ範囲:P.1023 - P.1023

 都立松沢病院は,その源流である東京府癲狂院が開設された明治12年(1879年)から数えて百年の歳月を経たことになる。それが歩んだ道とそれがになってきた役わりはただ単に東京という一地方だけではなく,わが国全体の精神医学と精神科医療に通ずるものであり,関連をもつものであった。
 都立松沢病院創立百年を記念する式典において,私は新任の院長として挨拶を述べたが,そこで強調したことは,松沢病院がいたずらに古い伝統にあぐらをかくことなく,精神科医療のあるべき姿を模索する実践の場として新しい歴史をきりひらく決意をもつということだった。

医学史の中の精神病院

著者: 中川米造

ページ範囲:P.1024 - P.1030

I.はじめに
 医学史の中の精神病院というテーマを与えられて小論をまとめることになっだが,このテーマは,かなり種々な扱い方が可能である。まず医学史を,どのように理解するかで問題がわかれる。医学史(medical history or history of medicine)を医史学(medical historiography)と区分して言う場合と混同する場合とがある。前者の場合,医史学は,より記述の正確さ,実証性に重点をおくことを,ことさらに訴えようという意図をもつ。これに対して医学史は,より柔軟にstoryの強さを前面にだそうとする。論証性・実証性もさりながら,追体験の現実性を重視する傾向がある。
 人が歴史を顧みるのは,集団的エゴのアイデンティティを求めるためである。アイデンティティを過去に求めながら,前進のための踏み台とする。また自我のアイデンティティを明らかにすることで,葛藤状況からの脱出も可能になる。
 いささか古典的ながら,歴史記述についてベルンハイムは,物語り的歴史,実用的歴史,および体系的歴史を区別した。物語り的歴史は,もっぱら感性レベルにおける基準によって史実が求められ構成されることによって出来上った歴史を通じて同一の感性的体験をもたせようというものである。実用的とは,日常的な実用性を準拠として選択された事実を伝承しようというもので,人間の文化自体が過去のつみかさねの上に成長している以上これも重要な記述方法である。しかし,もっとも歴史的だといわれるのは体系的な歴史あるいは史観をもって史実が選択構成されたものであろう。これは,対象とする領域自体に,一定の視点を提供するものである。
 とくに医学史について,体系的歴史という点から整理を試みると,①伝記と系譜,②発達史観,③社会史観の3種類を区分でき,それぞれが大むね時代の医学のみかたを反映している。
 伝記や系譜は,洋の東西を問わず,歴史記述の意識が生れると,まず登場するもののようである。それは,概ね,そのような歴史記述を求める集団か,社会的にかなり地位を確保してきたとき,それを一層強化すべく,先人の顕彰や,自分たちの集団への系譜を編もうという運動がおこる。ついで,それを客観化して,医師の場合ならば,医学の発展の歴史として,発達史の記述がおこなわれる。現在を頂点として,医学は未開から次第に進歩してきた。将来においては,現在持つ方法を踏襲すればよいとする現状の肯定を言外に要請している。
 社会史観となると,さらに客観的に,医学自体をも社会史の一環としてとらえようとする。アイデンティティは,医学にではなくて社会にある。
 さて,"医学史の中の精神病院"というテーマに対しては,まず,医学史とくに精神病学史の記述様式を時代的に追求してみよう。ついで,病院Hospita1という施設の変遷を探り,医学との関係を検討してみよう。
 自明のことのように思われるかもしれないが,Hospita1という字の中に「病」という意味は全くかくされていない。それが病気と関係をもつようになり,さらには現代社会では医療のセンター的な位置についていることを思えば,これは現代医学の構造を理解する上で,かなり重要な対象であることを失わない。
 とくに病気概念の形成に,病院の果した役割は大きい。精神病という概念自体も同断であり,現在の精神医療,または精神衛生の混乱の原因を明らかにする有力なアプローチともなろう。

松沢病院の歴史的沿革

著者: 金子嗣郎

ページ範囲:P.1031 - P.1040

I.はじめに
 昭和54年(1979年)10月10日都立松沢病院は創立百年を迎えた。
 明治12年(1879年)10月10日上野公園内に東京府癒狂院として発足して以来の歴史をもつ。
 この間,病院の所在地も,上野,本郷向ケ岡,巣鴨,松沢とかわり,病院名も東京府癲狂院,東京府巣鴨病院,松沢病院(府立→都立)と改められた。これらの変遷については,図1,2およびⅢを参照されたい。
 また東京府癲狂院は養育院の癲狂室が独立した形ではじまったが,養育院以来,東京大学医学部との関係が深いが,その名称の変化は表1を参照してほしい。本文中では繁雑であるので東京大学医学部として統一しておく。

日本精神医学研究史と巣鴨・松沢病院

著者: 石井毅

ページ範囲:P.1041 - P.1049

 筆者に与えられた課題は日本精神医学研究史であるが,そのすべての面にわたってこれを総括することは困難であり,筆者の能力を超える問題である。周知の如く,明治の頃の日本精神医学研究は主として東京大学精神病学教室のおかれていた巣鴨病院において行なわれ,以後も東大・巣鴨育ちの学者が全国に散ってその地の精神病学の中心となった。この巣鴨の精神病学の研究方法の主体は神経病理学であったという事情もある。そこで本稿では,松沢病院の100年祭を記念して,神経病理学を中心とした巣鴨・松沢の精神医学研究を述べよう。
 ここであらかじめお断わりしたいのは,巣鴨・松沢病院の研究といっても,昭和24年までは松沢病院長は東大教授兼任であり,始めの頃は東大精神病学教室が巣鴨病院の中におかれたという特殊な事情もあって,初期のものは東大精神病学教室の研究と区別することは困難なので,両者を一緒にして述べる。

作業療法からリハビリテーションへ

著者: 加藤伸勝

ページ範囲:P.1051 - P.1059

I.はじめに
 精神障害者の治療の歴史の中で,最も古くかつ最も新しい命題の一つに作業療法がある。
 その源流はAsclepiadesにまでさかのぼるといわれている1)。それは精神障害者に最初に施された活動療法であった。今日,われわれが作業療法を語るときのようにそれがより身体療法に近いものか,あるいは精神療法に近いものかを問題とするような捉え方はしないで,当時は素直に身体療法の一つと考えられていた。その当否は別として,有史以来の精神障害者の治療の中で,その奏効機序の曖昧さを理由にして,その効果を過小評価する不毛の論議が今なおあるにしても,精神・身体両面に及ぶ治療としての作業療法が精神障害者の治療体系の中に占める比重は決して少なくはない。遠い過去の精神科治療の歴史を語るのが筆者の役割ではないが,歴史の中にあり,時間の経過に耐えてきた作業療法が,わが国の精神医療史においても,その時代時代による方法論の差はあっても強靱に生き残ってきている事実を,私は松沢病院百周年の歩みからも拾うことができる。ここでは咋日までの作業療法と今日の作業療法とその延長上に発展したリハビリテーションに関し,松沢病院百年の歴史の中にそれを回顧し,明日への展開へと繋げたいと思う。

松沢病院における精神科看護

著者: 関根真一

ページ範囲:P.1061 - P.1068

 東京都立松沢病院の源をさかのぼってみると,東京養育院の癲狂室であって,明治12年に東京府癲狂院として誕生し,東京府の唯一の公立精神病院となったのである。その後において東京帝大精神病学教室との間に運営互助の関係が結ばれたので,我国の精神医学と精神医療の建設と発展に一段の影響がもたらされた。一方精神科看護にあっても,精神病者を看護するものの心構えの重要性については古くから注目され,歴代の院長は看護者の教育指導に力を注がれ正式の養成機関を育成した。かくして長年の推移の間にめざましい看護の向上発展をもたらした結果,我国の精神科看護の軌範を築くにいたったのである。ここに年代を追ってそれらの歩みの姿を述べることにした。
 東京府癩狂院は明治12年(1879),さきに宮内省の下賜金によって創立された上野公園内の東京養育院の癲狂室に収容されている精神病患者50名を収容して東京府が運営することになり,初代の院長は東京府病院の長谷川泰が兼任された。これが松沢病院の濫觴である。設立当時患者の看護にあたるものは養育院救助人と称する男子であって,精神病者の看護には何らの知識経験もなく,ただ患者に食餌を与えるのが主な任務であった。病室は男女の区別なく,亢奮患者を鎮静させるためには,手錠足錠が使用される状態であったが,長谷川院長は患者の処遇を重視して,明治13年(1880)初めて「看護人心得」を制定した。その心得の主旨には「看護人は患者に対し言語整然,挙動方正にして,患者自ら我が狂乱せるを覚りて,漸く本心に復するよう之を導くべし」などの条規が制定され,看護人の精神面の指導に関心が向けられた。入院患者が130名に増加し,自費患者30名も入院し得ることになったが,いまだに男女の区分は明確でなかった。

外部からみた松沢病院—病院精神医学懇話会〜病院精神医学会発足当時を中心に

著者: 元吉功

ページ範囲:P.1069 - P.1076

I.はじめに
 表題について執筆するよう編集者から依頼された,副題も編集者によるものであるが,こんなことから書き初めて,あとは随意にという筆者への配慮であろうと推察される。もし松沢病院の問題に正面から取り組めというのであれば,私1人のなしうるところではないし,長い時を要するだろう。編集者がそのような課題を私に課するはずのないのは分かりきっているが,松沢病院の存在は大きく,同病院が日本の精神医学,精神医療に果した役割は他に比類をみないのであり,松沢病院の百年の歴史は,そのまま日本の精神医療史の中の最も重要な部分をしめる。多数の人材を精神医界に送り出したこともまた言うをまたない。以下いくつかの項目に分けて粗末な文を綴ることになるが,私は最近約10年の松沢病院の内部の問題については,ほとんど知るところがない,したがっていずれも私個人が,松沢病院医局の諸氏と何らかの形でかかわりあった問題のみである。課題をそれた部分もあるし,資料不足,私の記憶違いから誤もあろう。一精神科医の雑感として読み流していただきたい。

臨床精神医学研究史

著者: 宇野昌人

ページ範囲:P.1077 - P.1088

序章
 松沢病院の前身,東京府癲狂院の開設によって,日本精神医学の近代化は始まったといえよう。創立から百年を経た今,ここにその歴史を臨床研究の側面から展望するのであるが,記述にさきだち若干懸念するところを表明しておきたい。
 そのひとつは,百年史とはいっても現況に属する部分もあり,これに対して史的考察を加えるのは時期尚早ということである。

松沢病院の戦後の医療実態

著者: 広田伊蘇夫

ページ範囲:P.1089 - P.1096

I.はじめに
 都立松沢病院百年の歴史が,精神医学・医療に多くの足跡を残したことは否定すべくもない。事象を第2次大戦後に限ってみても,呉秀三にはじまる批判的啓蒙の思想は,絶ゆることなく引きつがれ,1965年の精神衛生法改悪反対運動へと結実したことは,なお強烈な印象としてある。また,院内改革を目指す動きの一環として,1959年には医局有志の手による「これからの精神病院シリーズ」第1号が発刊され,以後11号に及ぶ,主として諸外国の病院改革紹介パンフレットが,世に流布されたことも忘れることはできまい。他方で,本特集で石井・宇野が記すように,研究上の足跡もまた,それなりの評価は当然あってしかるべきものであろう。
 ここで私が意図するものは,こうした啓蒙活動,研究活動ではなく,松沢病院の戦後の医療の流れを,資料にもとづいて概観することにある。そして,これにもとついて,いくつかの問題点を指摘してみることにある。私の記すような報告は,戦後において,まず江副・台らによって行なわれており,また蜂矢も昭和30年代に,いくつかの報告を行なっている。
 そこで,これらの報告を一応念頭におきながら筆をすすめてみたい。

東京都立松沢病院創立百周年記念—資料展

著者: 鈴木芳次

ページ範囲:P.1097 - P.1099

 東京都立松沢病院創立百周年を記念してその歴史的足跡を辿る「資料展」が,昭和54年(1979)11月7日〜14日まで院内の厚生棟ホールで一般公開して行なわれた。移転・災害等に遭遇してかなりの資料が紛失しているので不十分ではあったが,大変好評であったので,その賜物として将来公私を超越した立派な"精神医療史料館"(名称未定)を建設しようという議が高まって来たことは大きな収穫であった。
 一般国民への精神衛生知識の普及および精神医療の向上発展のためにも一日も早く実現したいと努力しているので,全国各位におかれましても格別なる御協賛を呉々も御願いする次第である。
 以下,主要な資料だけを御紹介する。

古典紹介

Albert Pitres—Etude sur l'Aphasie chez les Polyglottes (Revue de medecine. 15:873-899, 1895)—第2回

著者: 渡辺俊三 ,   佐藤時治郎 ,   一之瀬正興

ページ範囲:P.1101 - P.1112

失語症による症状の分析
 話しことばの理解--患者はフランス語およびガスコーニュ方言で言われたことはすべて完全に理解した。しかし,イタリア語,スペイン語,英語,アラビア語で言われたことは何も理解せず,最も日常的で最も簡単な文章,たとえばGood morningとかCome sta ellaでさえも理解しえなかった。しかし,彼の前でこれらの言語のうち一つを使うと,英語かイタリア語かアラビア語で話されたことは判別しながらも,その意味は全く理解していなかった。
 単語と音の復唱--フランス語,アラビア語,英語などの単語の復唱は,彼の前で発音してみせると難なくできた。全然,意味のない,またいかなる慣用語句でもない音でも,同じように復唱できた。

動き

WHO主催「うつ病の予防と治療に関する国際シンポジウム」(ワシントン,10月22日-24日,1979年)報告記

著者: 高橋良

ページ範囲:P.1113 - P.1118

I.はじめに
 1979年10月,ワシントンD. C. に在るWHOの汎米州地区事務局PAHOにおいてWHO精神衛生部主催のうつ病に関する総合的研究シンポジウムが行なわれた。従来からWHOプロジェクトとして行なわれていたうつ病疾病分類の問題,うつ病の標準評価の研究,うつ病の追跡研究,一般診療科におけるうつ病の実態の研究や生物学的精神医学領域でのうつ病の成因,病態の研究,薬物治療の比較研究などに関与してきた世界各国の研究者を中心に,疾病分類や一般保健におけるうつ病の問題,特に社会的・心理的側面の研究に独自な研究を行なってきた研究者殊に米国NIMH,New Havenグループ,ロンドングループも加わってほとんど全世界のうつ病の研究者が一堂に会してそれぞれの研究の現状と問題点を討議した。これは同時に国際疾病分類ICD-Ⅸが発効し,米国ではNIMHのPsychobiology of Depressionの協同研究プログラムが進められ,米国精神医学会のDSM-Ⅲ(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders Ⅲ)草案が討議され,今後のうつ病の総合的理解と対策を展望するのに好都合な時点であった。この会議にはPAHOの精神衛生のRegional Advisor,Dr. R. Gonzalesが組織責任者として働いてくれたが,WHO本部からの出席者の他の正式招待参加者は22力国からの31名であり,カナダ,北米,南米,アジア,ヨーロッパ,南アフリカの専門家が参加した。しかし我が国からは新福尚武教授,山下格教授と筆者が報告を行なったが,米国NIMHの研究者やChicago,日本側の同僚もオブザーバーとして参加されていた。この会議は別表のプログラムの様にうつ病の臨床診断や疫学,比較文化の側面から生物学的・心理学的成因,治療,一般診療科との協力の問題,国際協力の問題などほとんどの重要面が網羅されていて,内容は極めて濃密かつ広範であるので,この報告では印象的記述のみにとどめざるをえない。内容は近く出版される予定があるので会議の雰囲気と今後のうつ病の国際研究の趨勢にふれるのみとしたい。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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