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特集 失行
Apraxia of Speech—その臨床像と障害機構をめぐって
著者: 笹沼澄子12 伊藤元信2
所属機関: 1横浜国立大学 2東京都老人総合研究所
ページ範囲:P.1025 - P.1032
文献購入ページに移動1968年American Speech and Hearing Associationの総会において,F. L. Darley1)は,言語表象の操作機能の障害として失語症とは別に,また,発語筋の麻痺・失調などに基づく麻痺性構音障害とも独立して存在する,特殊な構音障害の問題を取り上げて歴史的概観を試み,それを“apraxia of speech”という術語を用いて臨床的に分離することの妥当性を主張した。以来,この問題をめぐる一連の研究が相次いで報告され2〜6),その臨床症状については,表1に示すような特徴が明らかにされている。
Darleyらは,こうした臨床症状をもたらす障害機構として“motor programming for speech”または“programming of articulatory rnovements”に破綻が生じた状態を想定しており,1975年のMotor Speech Disorders6)においては,次のように述べている。
“It is defined as an articulatory disorder resulting from impairment, due to brain damage, of the capacity to program the positioning of speech musculature for the volitional production of phonemes and the sequencing of muscle movements for the production of words.”(p. 255)
発語行動に関与する諸過程を,もし図1のように模式化7)しうるとすれば,Darleyらのいう“motor programming for speech”は,〈構音運動の企画過程〉(レベル3)に代表されることになろう。すなわち,〈思考過程〉(レベル1)から出力された特定の概念ないし情報は,<符号化の過程>で意味規則や統語規則の適用を受けて抽象的な文の形に符号化され(レベル2-a),音韻規則に従って音韻の選択と系列化が行われる(レベル2-b)。これを入力として,発話に必要な構音運動のprogramming注1)が行われるのが〈構音運動の企画過程〉(レベル3)であり,次のく構音運動の実行過程〉でそれが実際の音声に実現される(レベル4)。
Apraxia of Speech(発語失行症)注2)についての,おおむね以上のような考え方は,主として米国の言語病理学の領域に浸透しつつあり,特に臨床診断の精密化,ならびに,より適格な治療プログラムの開発へ向けての大きな推進力となってきた。
しかし一方,発語失行症を特徴づける臨床症状の詳細,障害の発生機序ないし障害機構についての概念,さらにはapraxia of speechなる術語の妥当性をめぐって,さまざまな論議が交わされていることも事実である。こうした論議の1つは,Darleyらの記述になる臨床症状が,はたして<構音運動の企画過程>の障害に基づくものであるのか,それとも音韻論的レベルの障害,つまり<符号化の過程>における音韻規則の適用の障害,を反映するものであるかという問題である。
たとえばMartin8,9)は,“発語失行症”を合併する失語症患者における構音の誤りを弁別素性を用いて分析した諸研究(Lecours and Lhermitte,196910)3;Martin C13 and Rigrodsky,197411);Trostand Canter,19744))に言及し,これらの研究で対象とした患者の構音の誤りの大多数が弁別素性の1つないし2つしか違わない“似た”音への置換であることを指摘している。彼によれば,このような規則性の存在を示唆する誤りは,発語運動の企画の障害よりも,むしろ音韻操作の誤り,すなわち,音韻論的(言語学的)レベルの障害を反映するものであり,したがって,apraxia of speechという用語の使用は適切ではないと主張している。
この点を明らかにすることが,理論的にも臨床的にも重要であることはいうまでもなく,事実この点に着目したいくつかの研究成果(Martinへの反論も含む)7,12)も報告されている。しかし問題は,対象となっている症例の大多数において,これら2つのレベルの障害が混在していること(つまり,純粋な発語失行症例がまれであること)であり,したがって発語失行症本来のく構音運動の企画過程>の障害を〈符号化の過程〉の障害から分離することが実際上困難なことである。こうした問題を切抜ける1つの方法は,<符号化の過程>の障害の合併しない,できるだけ純粋な発語失行症を示す症例を探しあて,その障害の実態を,現在可能な複数の検索法を組み合せて系統的に観測することだと思われる。幸いにして,このような比較的純粋な発語失行症を示す症例を長期にわたり追跡する機会を得たので,今回は,この症例に対して行なった一連の検索の一端を報告させていただく。特に,図1の発話過程の模式図における〈構音運動の企画過程〉(レベル3)が,先行する〈音韻規則の運用過程〉(レベル2-b)ならびに後続の<構音運動の実行過程>(レベル4)のそれぞれから,はたして分離しうるかどうかという点に問題をしぼって考えてみることにしたい。
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