icon fsr

雑誌詳細

文献概要

古典紹介

V. E. v. Gebsattel—離人症問題に寄せて—メランコリー理論への一寄与—第1回

著者: 木村敏1 高橋潔2

所属機関: 1名古屋市立大学医学部神経精神医学教室 2尾西病院

ページ範囲:P.1185 - P.1197

I.はじめに
 離人症の問題については近年何人かの研究者1)が注目すべき論究を発表している。それらには或る共通の傾向--離人症問題をより広い臨床的基盤の上に据え,この拡張された基盤に理論面より光を当てようとする傾向--が見られる。こういった傾向はすでにSchilder(1914)2)の基礎的な研究のなかに準備されてはいたが,Hocheの下で培われた疾患単位に対する否定的な見解のために発展をみるには至らなかったものである。このような傾向をもつ研究のほかに,離人症を定義しようとする試みも少数ながらみられる。たとえばL. Dugas3)(Sur la depersonnalisation)がそれであって,彼はこの「離人症」(depersonnalisation)の概念を自ら導入してから38年の後に,改めてこの現象を同定しようとする大変な努力を見せている。さらにもっと少数しかみられない研究方向として,離人症の実存的意義を論じて,そこからその精神病理的構造に迫ろうとする研究もある。
 広大な臨床領域をくまなく探索すれば,離人現象の範囲は確かに拡大するだろう。しかしその反面,臨床体系のそのような航空撮影というものは,根本的な論考による修正を必要とすることも確かである。Haugは,彼の魅力的な意見が批判的な読者からの物議4)をかもすのを防ぐために,「離人症様」(depersonalisationsartig)の体験と明白な「古典的」(klassisch)離人症体験を区別しようとした。この区別に従うことにはわれわれもなんら異存はない。われわれも,病的現象がいわゆる「古典的」な,つまり完全に明確な形をとった現れ方に達するまでには,実際いくつもの段階があるものと考えている5)。そしてほかならぬこの区別にうながされて,われわれはここで古典的な離人症の1例を手懸りとしてこの症状の意味に関するいくつかの未解決の問題について自説を表明する必要を感じたのである。
 Haugとは違って私自身の経験では,離人症状態は精神衰弱とか分裂病の初期とかに確かにしばしば出現するけれども,古典的な形での離人症症状が現れるのはなんといっても躁うつ病的体質類型であり,それも,まだまとまった記載のなされていないその1特殊型である。最近K. J. Johnson〔Amer. J. Psychiatr. 31, 1327(1935)〕は--離人症症状を特に取り上げているわけではないが--「感情の喪夫」(the loss of feeling)を標識症状として,メランコリーの1特殊型をありふれた抑止型うつ病から区別しようとしている。この論文の結論は,われわれが念頭に置いているメランコリーの1亜型を「無感覚性メランコリー」(Melancholia anaesthetica)という名称ですでに1880年に取り出しているSchafer(Allg. Z. Psychiatr. S. 215)の試みを想起させるものである。Haugは,離人体験がメランコリー患者にあまり見られないのは,彼らの「心の中の抑止があまりにも強すぎて,自己観察ができなかったり,それを表出することができなかったり」するためだと述べているが,この主張は或る意味では正しい。というのは,躁うつ病圏の離人症患者は,さまざまな抑止感にもかかわらず,彼らが自分の状態を描写する生きいきとした表現能力や多彩な言いまわしの能力によって,単なる制止のみの患者,ことに心気症状を示す患者とは違った臨床的印象を与えるからである。さらに彼らは,平均をはるかに超える自己知覚能力を特徴としており,これは彼らの多くの場合平均以上にすぐれた一般的知能とも照応している。いまひとつ彼らに特徴的なのは,すべての研究者が口をそろえて述べている自己観察強迫の苦痛であり,高度の自己抑制である。この自己抑制は,ときとして面接医に対してすら示されるかたくなな閉鎖的態度の性格をおびることもある。抑うつ性の妄想形成の傾向とか,心気症特有の色彩とかは認められない。さらに彼らに共通しているのは自己自身の存在感(Daseinsgefuhl)の独特な変化であるが,ここではこの変化を「実存的空虚」(existentielle Leere)の概念でもって指摘しておくだけにとどめよう。
 この「実存的空虚」を指摘することによって,私が以下の報告を書くことになったひとつの動機に触れることになる。私の注意をひいているのは,Janetのいう「空虚感」(sentiment du vide)が見られるときには必ず,Dugas以来「離人症」と呼ばれている独特の疎隔体験を伴っているということである。逆に,離人状態があっても特に空虚の訴えがないという場合はある。ただしこの空虚の現象というものを念頭に置いた上で患者に質問したりその症状を調べてみたりすると,この現象がときとして抑うつ症状の奥深くに,まったくそれと気づかれないような形で入り込んでいることも少なくない。この事実は,全面的な空虚の状態の中にある患者は空虚感を失うものだ,というJanetのすぐれた観察(De l'angoisse a l'extase 2,84)とも合致する。しかし,疎隔体験についてのStorring,Mayer-Gross,Haugなどの最近の諸論文に空虚症状のことがまるで述べられていないのは,単にこの症状の発見が困難だという事情からだけとは考えにくい。疎隔感を伴わない空虚体験は存在しないが,はっきりした空虚体験を伴わない疎隔感は存在しうるということは認めなくてはならないだろう。ことに,われわれの経験からいうと,Storringが離人症状の分析の中で特に強調している「夢幻様茫然状態」(traumhafte Benommenheit)はつねに自己知覚の縮小と内省力の減退を伴っているため,多くの場合実存的空虚とか体験された空虚を気付かせずに済んでしまうものである。ただ私の見るところでは,この「夢幻様茫然状態」を主たる基盤として出現してくる離人状態は躁うつ病圏に属するものではなくて,それ以外の臨床領域,たとえば頭部外傷,中毒,精神衰弱,分裂病,てんかんなどに属しており,躁うつ病圏の離人症患者はむしろときには過度の意識の清明さを特徴としているようである。
 私が離人症問題について発言することになった直接の動機は,きわめて知的な1人の躁うつ病患者との2年半にわたる接触において,この患者が離人症状を空虚体験の形でとくに印象的に示してくれたことであった。私が以前の論文で報告した「時間に関する強迫思考」の症例も,その後よく調べてみると,躁うつ病性の離人精神病であることがわかった6)
 まず症例Br. L. を呈示しておこう。

掲載雑誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-126X

印刷版ISSN:0488-1281

雑誌購入ページに移動
icon up
あなたは医療従事者ですか?