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雑誌目次

論文

精神医学23巻6号

1981年06月発行

雑誌目次

巻頭言

これからの高齢者医療

著者: 山田通夫

ページ範囲:P.536 - P.537

 世界的規模の悪性インフレーションの進行は止まるところを知らぬ。当然のことながら,そのあおりをうけ,研究や医療は財政に,もっぱら支配され,まさに,危機的状況にある。財政再建の名のもとに,強行されようとしている都立医学系研究所法人化の動きには,絶望という以外に適当な言葉が浮んでこない。「研究」と「医療」という車の両輪的作用が否定されんとしているといえよう。
 「ない袖は振れぬ」と居直る前に,打つべき施策は,ほかにないものであろうか。悪評高い現行の医療制度のうちでも,とくに高齢者の医療については,長期展望に立った確固としたものとして,対処しなければならない。この点について,われわれ医師や研究者は十分に認識しているのであろうか。国家予算にしろ,自治体の財政にしろ,その帳尻をあわせることのみに,きゅうきゅうとしている。まさか,このことが,国や自治体の最後の目的ではあるまい。明治政府成立に奔走した「元勲」たちは,結果の是非は別として,国家存立の理念を財政のみには置かなかった。21世紀を間近かにひかえ,高齢者医療について,われわれは自戒をこめて,思いをめぐらせねばならないだろう。

展望

向精神薬による脳波変化—その臨床精神医学への寄与

著者: 斎藤正己

ページ範囲:P.538 - P.549

I.はじめに
 中枢神経系に作用する薬物が脳波に明らかな変化を生じることは,1937年Bergerによって指摘され,中枢刺激物質と抑制物質とを用いた実験で行動の変化と脳波の変化との間に相関があることも示唆されている。当時,大脳の電気活動を導出して記録する方法を研究していた人たちは,常態におけるヒトの脳機能を反映するmediaとして期待していたものであり,精神と身体をつなぐmissing ringを発見しようとさえ意図していたといっても過言であるまい。しかし,epilepsyの診断における脳波の有用性があまりにも衝撃的であったために,またschizophreniaなどで得られた脳波の知見がepilepsyの場合に比べて地味なものであったために,その臨床的普及がめざましかった半面,その臨床的応用はしばらくの間かなりせまく限られた範囲に止まってしまった。
 脳波の基礎律動に関する研究はもちろん絶えることなく続けられて来たし,その深さは突発波動に関する研究の比ではなかった。臨床医学における脳波の応用が,睡眠の性状や深度の客観的指標とか,一次的ないし二次的脳機能障害の性質や程度の客観的評価に次第にひろがってゆくにつれ,脳波の有用性はあらためて見直されて来たのである。換言すれば,特異的異常脳波に向けられていた関心が,非特異的異常脳波に向かいはじめたといえよう。
 今日では薬物療法が精神療法と並んで精神科治療の主流を占めるに至っている。しかし,向精神薬の大部分はいわば偶然に発見されたものであり,その作用機序についてもまだ仮説の域を出ない。効果の評価も十分客観的に行なわれているといえない。現在入手が容易であり,もたらす情報が豊富であるという点では脳波をおいてほかに見当たらない。向精神薬による脳波変化はこのような観点からさまざまな方法によって検討されて来た。著者は本論文で比較的最近の研究に絞って展望を試みる。

研究と報告

出稼ぎ者精神障害についての臨床精神医学的研究—精神分裂病,非定型精神病を中心として

著者: 布施清一

ページ範囲:P.551 - P.559

 抄録 出稼ぎ者精神障害(精神分裂病80例,非定型精神病22例)の発病を,出身地と異った社会・文化,言語(特に方言)環境との接触という視点からとらえ,以下の結論を得た。
 1)津軽の小都市,農漁村から,大都市およびその周辺地域に出稼ぎに出ることは,精神分裂病,非定型精神病の発病,病像,経過に少なからざる影響を与えることが認められた。
 2)発病の契機として,言語,社会・文化的環境の差異があげられるが,特に方言の問題が大きな要因となっており,入院後の患者の言語表現,変化が,病像改善の指標となり得た。
 3)出稼ぎ者精神障害の発病状況と,海外留学中に発病した精神障害者の発病状態との間に,共通点が多かった。しかし精神分裂病,非定型精神病の発病状況の間に相違点がみられた。

母子心中を企てたfolie à deuxの背景と経過について

著者: 鈴木康譯 ,   星野良一 ,   藍澤鎮雄 ,   大原健士郎

ページ範囲:P.561 - P.568

 抄録 母親(57歳)・息子(26歳)の間でみられたfolie à deuxについて,心理学的背景とその経過を中心に,臨床精神医学的な考察をおこなった。発端者は息子であり,劣位者であるはずの息子から優位者である母親に妄想が伝播しており,西田の『二重の結合』があてはまる。息子の妄想発症には,わずかな刺激で動揺する感情面の未熟さ・敏感さが関係しており,心因反応性に生じている。継発者の母親において妄想が強固であるが,①思考の発展性や可塑性が十分といえず細かいことに拘泥しやすいこと,②主観性の高いこと,③内的洞察力の不足,等といった心理状況が大きく左右していると思われる。従来folie à deuxの心理機制として,同情と共感・被暗示性などが言われているが,上記の事実も無視できない。なお,本症例では,経過中に母子心中未遂がみられているが,それがfolie à deux解体の動因となっていることも注目される。

漢字新作について

著者: 塚本嘉壽

ページ範囲:P.569 - P.577

 抄録 漢字新作の2例について論じた。この2例は対照であり,一方は漢字が複雑であるのに意味が乏しく,他方は漢字は単純であるが各漢字が明確な意味を与えられている。言語学的に考えると,前者では貧困化したsignifieを補償するために不自然なsignifiantが出現し,後者では肥大したsignifieにsignifiantを与えることで安定が求められる。さらに後者の場合には,漢字新作が単なる遊戯性の所産ではなく,コミュニケーションへの志向が含まれていることを述べた。
 また,この2つのタイプの漢字新作は,漢字のもつ相貌性と物神性という2つの要素のうち,いずれかを誇張したものであることを指摘した。すなわち,不明確な内容を複雑な字体で表現した前者は,相貌性優位の例であり,簡単な字形の新作漢字に不安鎮静とか病気の治癒といった魔術的な力を与える後者は,物神性優位の例である,と論じた。

抗精神病薬による乳汁漏出について

著者: 井上寛 ,   狭間秀文 ,   小椋力 ,   田村辰祥 ,   井上絹夫 ,   永見実

ページ範囲:P.579 - P.584

 抄録 抗精神病薬服用中の女性精神分裂病者の20,30歳台(79名),および50,60歳台(32名)について自然あるいは軽度乳房圧迫により乳汁漏出の有無を確認した。その結果,前者で56.9%,後者で40.6%に乳汁漏出が認められた。血漿プロラクチン値は乳汁漏出のある群がない群に比し高い傾向にあることがわかった。服用中の抗精神病薬1日量をchlorpromazine(CPZ)に換算して乳汁漏出との関係をみると600mg/日以下では乳汁漏出のあるものは55%であるが,CPZ 600mg/日以上になると乳汁漏出は62%と多く認められ,血漿プロラクチン値は著しく高くなる。乳汁漏出のあるもののうち6cc以上採乳可能な3症例の乳汁についての成分分析を行ったが,正常婦人の乳汁分析結果とは著しく異ったものであった。

失語発作重積状態を呈した1例

著者: 竹下久由 ,   川原隆造 ,   挾間秀文

ページ範囲:P.585 - P.592

 抄録 左前頭部外傷後の夜間てんかんに合併して,数日間にわたり失語発作が重積様に頻発し,経過の途中から間歇期にも種々の精神機能の低下を来たした,56歳の右利き男子例を報告した。失語発作時は他覚的には簡単な口頭指示にも従えず,応答は的はずれで,自発言語量は少なく,保続的傾向や錯文法が認められ,読字や書字にも障害が認められたが写字は可能であった。その間粗大な意識障害や片麻痺などの神経学的異常所見は伴わなかった。脳波所見上,失語発作に相当して左半球の全導出部位に,高振幅の徐波が連続して出現しており,類似のsubclinicalな脳波変化も認められた。また発作間歇期にも模倣言語の障害,復唱(数字)の悪さ,記銘力の低下などが認められたほか,健忘失語,保続的傾向,錯語,錯文法などを呈していた。上記についててんかん発作としての観点と,失語症としての観点から若干の考察を加えた。

精神症状のみを主症状とし,予後良好であった脳室内穿破を伴う脳内出血の4例

著者: 佐々木高伸 ,   森田博方 ,   好永順二 ,   井手下久登 ,   引地明義

ページ範囲:P.593 - P.598

 抄録 一見痴呆様の精神症状のみを主症状とし,神経学的局所症状を欠き,極めて予後良好であった脳室内穿破を伴う脳内出血の4例を報告し考察を加えた。
 4例の内訳は左尾状核出血2例,左視床出血1例,左側脳室三角部内側出血1例でいずれもCTスキャンにて初めて病態が把握された。これらの症例は出血部位は様々であるのに記銘力低下,判断,認識の誤り,失見当識を中心に作話も出現するという共通の精神症状のみが前面に出ており,脳室近傍の小出血が脳室内に穿破することにより,局所の脱落症状が少なくて済み,脳室内出血による脳機能低下に基づく健忘症候群が前面に出たものと考えた。一方臨床的には,比較的急激に出現して来た"ボケ"様の精神症状(健忘症候群)を常に意識障害の観点からみることが重要であると同時に,早期にCTスキャンによるスクリーニングが必要であると思われた。

産褥期にてんかん性要因と心因が相交錯してけいれん発作と多彩なもうろう状態を呈した1症例

著者: 加藤秀明 ,   植木啓文 ,   田村友一 ,   森俊憲

ページ範囲:P.599 - P.605

 抄録 産褥期(分娩1週間後)に約9日間にわたって,応答のない状態→強直間代性発作→運動不穏→昏睡様意識喪失→ヒステリー症状(片麻痺,円筒状視野狭窄,小児症,偽痴呆,心因性健忘)を呈した1症例(27歳,女性)を報告した。この症例には,①棘徐波放電が頻発し,脳波上はてんかんといってよいこと(てんかん性要因),②産褥期における高血圧性脳症的機能異常(身体的要因),③発症前後のヒステリー症状,十分な心因,人格特徴などからヒステリー的特徴も備えていたこと(心因)の3つの要因が,病因論的にも病像賦形的にも相交錯して,相補的に関与していた。その器質因と心因のとらえ方について論じた。
 さらにとくに興味があった,①発作後もうろう状態,②てんかんとヒステリーの関連,③特異な心因性健忘(夫との結婚生活に関することのみの健忘)についてはそれぞれの観点からも検討した。

短報

Phenothiazine系,Butyrophenone系薬物の併用で発症した顆粒球減少症

著者: 島田均 ,   小林一三 ,   村木健郎

ページ範囲:P.606 - P.609

I.はじめに
 向精神薬とくにphenothiazine系薬物による治療中に発症する顆粒球減少症については,米国1,2,4,6,7,12),その他3,14)では少なからず報告されているが,日本では意外に少ない。顆粒球減少症は向精神薬の重大な副作用の一つであるので,その広汎な使用状況に鑑み今後のために,最近経験された例を報告して使用上の注意を喚起したい。

古典紹介

Robert Gaupp—Krankheit und Tod des paranoischen Massenmörders Hauptlehrer Wagner. Eine Epikrise.〔Z.f.d.g. Neur. u. Psych., 163;48-82, 1938〕—第1回

著者: 宮本忠雄 ,   平山正実

ページ範囲:P.611 - P.624

 1913年9月に驚くべき事件をひきおこして世界中を震撼させた教頭Wagnerは,1938年4月27日,悪化した肺結核のため,ヴュルテンベルク州のヴィネンタール療養所で死亡した。肺疾はすでに何年も前から始まっており,1930年以後は衰弱が次第に増していた。そのうえ骨結核(Spinaventosa〔風棘〕)がさらに加わった。死体検案によって重い肺の病気が確かめられた。彼の脳はSpatz教授のもとへ送られ,遺体のほかの部分は病理解剖ののち火葬に付されたが,これは自分で希望していたものだった。晩年,Wagnerは,自分の死期が迫っているのを感じて,非常に気むずかしくなり,手もとに置いていた原稿や戯曲の草案,手紙などの多くを燃やしてしまった。けれども,彼のものした創作のたぐいはみな私がよく承知していた。彼は晩年にはもう新しい作品をなにも仕上げなかった。地方裁判所の刑事部はすでに1914年2月に,Wagnerが精神病だという理由で彼に対する訴訟の却下を決定していたが,そこの所長は,私の求めに応じ,1909年から1913年におよぶ例の自叙伝3巻をふくめて,保存されていた彼の原稿類をのこらず私のところへ送ってきた。その自伝は,1913年12月に彼の鑑定書を作成した折,すでに一度私のもとへ提出されたものだった。1905年から1926年までのWagnerの戯曲は,3篇(『フローリアン・ガイアー(Florian Geyer)』『世界大戦(Der Weltkrieg)』『若返った夫婦(Das verjungte Paar)』)を除いて,おなじく私の手もとにある。これら3篇の戯曲は彼がおそらく破棄してしまったのであろうが,私はまえに彼から見せてもらったことがあり,したがってその内容を私はやはりよく知っている。
 ところで,パラノイア患者Wagnerについては私はこれまで何度かくわしく報告してきた。1914年に彼に関して公けにしたの著書原注1)は「犯罪者の類型」という叢書(Hans W. GruhleおよびAlbrecht Wetzel編集)の1冊として刊行され,これには同じ患者についてのRobert Wollenbergの鑑定と「大量殺人」に関して編者の集めた資料とが一緒に載っているが,資料のほうはその後1920年にWetzelの手で補充された原注2)。私はWagnerがヴィネンタールへ移されてからもよく彼と会ったし,また彼と頻繁に文通を重ねてもいたので,彼のその後の運命を死にいたるまでのほとんど四半世紀にわたって私は追跡することができた。ミュンヘン医学雑誌(Münch. med. Wschr.)1914年633〜637ページに載った私の論文「症例Wagnerの学問的意義(Die wissenschaftliche Bedeutung des Falles Wagner)」は,患者が療養所に収容されてまもない時期に書いたものであるが,そのころ彼は,自分の処刑が免除されるような鑑定書を私が書いたことに対して,私をはげしく憎悪していた(「私はあなたに隠しだてしたくないのですが,あなたとWollenberg教授とは私が死ぬほど憎んだ人間の部類に入ります。私はあなた方ふたりを引き裂いてやりたいと思う時が多いのです」)。1913年12月,観察のためチュービンゲンにいたころからすでに彼は,ミュールハウゼン村とその男子住民に対する自分の憎悪に満ちた弾劾が私から妄想とみなされたことを,うすうす気づくようになっていた。そのことは当時すでに彼の機嫌をはなはだ損ねていた。ヴィネンタールから1914年2月25日付けで出された彼の手紙のなかの文句は,これに関連している。「あなた自身を私は,個人的に尊敬しているにもかかわらず,私の敵と見なさざるをえません。なにしろ私はまちがいなく嗅ぎつけたのですから。」彼は療養所のなかからくりかえしきわめて精力的に審理の再開を求めたのだが,結局は,公安を害する恐れのある精神病のゆえに監禁される身になり,はげしい憤懣をいだいた。彼が望んだのは,首を刎ねられることだった。そんなわけで,彼が病院へ収容されてからのはじめの数年間というもの,私への信頼をとりもどすのは容易ではなかったものだが,その1年まえの1913年の予審のころには私はまだ彼の信頼を得ていて,そのおかげで,彼がチュービンゲン大学に滞在していた6週間のあいだにその全生涯や思想や感情をすっかり知りつくすことができたのだった。1914年から1920年までの期間については私はかつて本誌〔Zeitschrift für die gesammte Neurologie und Psychiatrie〕に報告し原注3),当時すでに彼の妄想のある種の内容的な変遷と拡大を指摘したことがある。ついで彼が,みずからの悲劇的な拘留生活を文学の世界へ逃避することで克服しながら戯曲『妄想(Wahn)』を執筆したとき,これがきっかけとなって私は,さらに別の論文原注4)で,患者の妄想体系における変遷や,自身の思想の内面的な解明および作家としての評価を求めての彼の苦闘を,専門家たちにまざまざと示すことになった。だが,パラノイア論の分野からの論著をいくつか読んでみると,Wagnerとその病気の経過について私の構想したものが必ずしも明瞭かつ正確には理解されていないことが,のちに判明した。Kretschmerの『敏感関係妄想』という本は精細かつ貴重な知見を非常に多くふくんでいて,パラノイア論をたいへん発展させたが,このなかで彼がWagnerについて行なった記述も,症例の理解における多くの空隙をなお十分には埋め合わせていないように思われた。それにしてもKretschmerは患者を私自身とおなじくらいくわしく知っており,だから私の構想したWagner像の正当さと忠実さに対する信頼できる証人だったわけである。とりわけ,Wagnerの性格構造はもちろん専門家たちにとっても相変わらず十分明瞭になってはいなかった。これがきっかけになって私は,12年後の1926年に,Utitzの励ましにしたがって,「性格学年報(Jahrbuch der Charakterologie)」(第2巻と第3巻)に彼の性格とその精神的創造のくわしい叙述を寄稿する気持になった(「ある精神病者の文学的創造について(Vom dichterischen Schaffen eines Geisteskranken」)。しかし,これを発表したあとでも,Wagnerをほかの慢性の妄想患者とおなじく分裂病の周辺地帯に押し込んだり,彼を慢性分裂病の軽症例と見たりする考え方はなお消えなかった。そこで私は,1932年の秋,チュービンゲンでの第55回西南ドイツ精神医学会の折に,患者自身を皆に供覧し,2時間ほどの問診をつうじて彼に自分の-たびたび変化するとともに妄想のなかで拡大した-観念世界を説明させようという気になった。患者はこの目的のためヴィネンタール療養所から2,3日の予定でチュービンゲンの私のところへ連れてこられた。1932年10月22日のその会議の模様については,ほんの短い報告が神経学中央雑誌(Zbl. Neur.)67巻514ページ以下(1933年)に載せてある。患者をヴィネンタールからチュービンゲンへ一時的に移すという出来事は,ヴュルテンベルクの住民に思いもよらない興奮を呼び起こした。たとえば,新聞は近づきつつある患者の釈放(そういうことは一度も考慮されなかったのに)の及ぼす危険性について警告的な記事を載せたが,彼はそのためひどく不機嫌になった。彼は当時すでに体の病気も重く,衰弱していた。1932年に私がチュービンゲンで患者を供覧した折のことをまだ覚えている人は,Wagnerが当時,つまり発病から31年,例の凶行から19年の時点で,分裂病といえる徴候をいささかも呈していなかったと強調する私の立場に賛成するだろう。

動き

長崎大学医学部精神神経科のWHOの機能精神病に関する協力センター開所式及び記念講演会に出席して

著者: 保崎秀夫

ページ範囲:P.626 - P.627

 かねてより高橋良教授を中心に藤井薫助教授,中根允文講師をはじめ長崎大学医学部精神神経科教室をあげてWHOの活動に協力・参加していたのは周知の事実であるが,その成果を評価され,1979年8月31日WHOより正式に機能精神病に関する協力センターとして指定され,1981年2月26日,27日の両日にわたってその開所式と記念講演会が長崎大学医学部で行われた。折しもローマ法王ヨハネ・パウロ2世の来崎と,吹雪という状況であったが,国内外の研究者を多数迎えて盛大に行われた。
 第一日(2月26日)午前中は,諮問委員会(国際,国内,地域の諮問委員よりなる)が開催され,D. E. Stromgren,Prof. H. Hafner,Dr N. Sartorius,Dr. G. L. Klerman(以上国際),秋元,土居,猪瀬,井上,加藤(正),大熊,櫻井,島薗,壹,保崎(以上国内)の各委員,福見(長崎大学長),須山(同医学部長),川嶋(県保健部長)(以上地域)の各委員に,中島宏WHO西太平洋地域事務局長,Dr A. Marsella,Prof. N. N. Wig,Dr Y. Shen,厚生省から篠崎,川口両氏が加わりセンター長高橋教授の流暢な英語と軽妙な司会で長崎大学精神科の今日までの活動状況と最近の成果について説明と質疑があり,「精神分裂病と悪性腫瘍との関係(女性分裂病者の乳癌併発率が一般女性より高率というデータ)などについて意見が交された。当日午後は開所記念式が長崎大学医学部原爆復興記念講堂で行われ,中島宏博士の記念講演,厚生省,長崎大学,県及び市関係者の祝詞のあと,Dr. N. Sartorius(WHO精神衛生部長)により長崎大学医学部精神神経科がWHOの協力センターとして選ばれるにいたった所以を中心に基調講演を行い,そのあと病院前庭でWHO旗の掲揚式が行われた。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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