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雑誌目次

論文

精神医学24巻10号

1982年10月発行

雑誌目次

特集 精神科診療所をめぐる諸問題 巻頭言

精神科診療所への期待と隘路

著者: 西尾友三郎

ページ範囲:P.1036 - P.1037

 筆者のようにいい年齢になるまで大学病院の外来診察をやっていても,精神科って一体どうなっているんだろうと思うことがしばしばある。次の点は診療所と違うところだろうが,初診が主であって,次は再来担当医に任かせる。それゆえに初診では診断や治療のめどが1回でつかなけれ何度か外来診察をつづけざるをえない。1回だけで再来に移す場合でも上記のようにどうなっているんだろうというような思いをするのは大体診察時間が長くなった後である。精神病らしいがさて診断はというような者は次回の診察を約してむしろそう時間をかけずに別れる。ため息が出たりするのはむしろ,問診で段々出てくる嫁,姑,小姑との関係だったり,男にだまされたといって死にたくなった人妻の嘆きだったり,サラ金でくびが廻らなくなった勤め人の告白などで,延々1時間を超すことは珍らしくない。面接技術の問題だといえばそれまでだが,学生が陪席している時などはなるべく婉曲に問診しようとするためもある。しかし陪席者を退席させて面接してもやはり考え込んでしまうものである。聞いてあげることが治療の1つだと分ればそれなりに再来に任せる。時間をかけたあげく「あなたには薬はあげられない,次回は御主人と来てください」などと帰らせたりすることもある。勤務医だからこんなことをやっていられるのかと思ったりするのだが,他方こういう時に学生や若い医師には医療の中での精神科の役割を説明したりするのである。学生は真剣に聞いているのもあれば,呆れたような面をしている者もある。
 冒頭にこのようなことを述べたのはこれが精神診療の中でも精神科診療所の診療に割と似ているのではないかと思うからである。

精神科診療所の実態と現状

著者: 長坂五朗

ページ範囲:P.1038 - P.1045

Ⅰ.精神科診療所の点と線―序にかえて
 今回の特集と全く同じテーマが医学書院の第7回精神医学懇話会で,新福,江副司会のもとに,立津が主題提起を行い,これに対し箱崎,山越,長坂が主題報告をし,その発言を中心にディスカッション(以下 '68ディスカスと略す)が行われた。1968年1月,精神医学」第11巻,第1号に掲載された。
 その時論議された内容は古くもあり,現実の問題としては既に実現しているものもある。他方今以て今日的問題として新鮮な問題提起性を持ったものも多々見受けられる。13年間をはさんで同一テーマを総括するにあたり,すべてに言及することは紙数の関係上許されないことなので,私の主観に従って重要なことと思われることに言及し論じてみたい。

現実と課題

森田療法の立場から

著者: 藤田千尋

ページ範囲:P.1047 - P.1060

I.はじめに
 地域における精神科医療の第一線に位置する各診療所は,それぞれの特徴をもって地域にひらかれている。それは,直接医療に携わる治療者の構えによっても,自らその役割に特徴が表われてくる。たとえば,治療者が自己の専門性を生涯に亘って研鑽し,一層その特殊性を限られたものにするか,あるいは,専門性はむしろ止揚して,地域住民の精神衛生的相談役として幅広い医療を目指すか,また,治療はごく限られた専門の範囲にとどめ,スクリーニングの役割としての医療に徹するかなどである。このことと関連する事項としてて,最近,専門医を志す人たちの数が著しく減少し,また診療所の開設も横ばい状態となり,それに反して臨床勤務医の数は昭和50年頃から急速に上昇しているときく。それらは,患者の診療所離れ,病院志向に由来する現象なのであろうか。こうした現象を見ても,診療所の役割とする医療の在り方は,今後ますますゆるがせにできない多くの問題をはらんでくるのである。
 さて,現在,当面する医療には,国民医療費の動向や医療給付にからむ保健・医療経済体制の問題あるいは老年者医療対策,医事紛争など多くの保険医療の問題を内在させている。それらは国家と医療担当者,そして国民とを直結する有機的な関係に基礎をおいて考えねばならず,その目標は,絶えず国民の健全な福祉の確立や健康の向上を目指すことにある。そのためには,医療の活動は国民と治療関係者との相互協力的な関連によって推進されなければならない。つまり,国民も医師も納得するよりよい医療が得られることが基本のものといえよう。その意味で,医師は絶えず自己照明をおろそかにはできない。現在の地域医療においても,日本のこうした実情を踏まえた専門性とプライマリ・ケアの充実の必要性が求められており,精神科診療所の開業医も例外なく,その現実の要請に即応する態度の選択が求められている。精神科診療所が地域医療の尖兵的役割をもつ存在のものとして今日ほど重視される時代はなかろう。
 精神科の外来治療や診療所の問題が独立した課題として学会で問われるようになったのも,そのような状況から起こる反映の一つに違いないし,今回の特集もまた,同じ意味から診療所の在り方が問われるわけであろう。それにはまず,精神科診療所の実態,それも特に精神療法という専門性が日常の臨床でどのように生きた適用がなされているのか,また,生業としての診療所の運営状況の実態を個別的に把握することも一つの手がかりと考えられたものと思われる。
 私のところのような最小規模の診療所がサンプリングされたのも森田療法を行っていることに一つの理由があったのであろう。
 以上のことから私がこの特集で与えられた課題は,一つは森田療法を実施する診療所の経済的実情について,つまり,どのようにして経済的に診療所の機能を成り立たしめているかという問題であり,他の一つは,それぞれ異った精神病理をもつ適応障害に対して森田療法をどのように修正させながら適用させているかである。私が以上についてこれから述べることは,編集関係者の意に添わないものになる公算が大きいように思われる。それは私の経営的能力の欠如と資料不足が適切な解答を成し得ない大きな障害となっているからである。
 以上の課題に答える前に,現場の実態をまず説明しておきたい。

行動療法の立場から

著者: 高石昇

ページ範囲:P.1061 - P.1067

I.はじめに
 筆者自身の診療の実態について詳細な報告を求められることは,学術的なシンポジウムに招かれるのとは,およそ趣を異にするかなり気の重いものである。その内容は治療の成功談のようなきれい事に終始するわけには決していかないだろうし,所詮,支払基金や税務署を横目で気にしながらの生臭い開業医の生態にふれねばならず,そして何よりも自己嫌悪のかたまりのような質の低い診療の実態を白日の下に曝さなければならないからである。
 しかし,この気の重い告白こそが,本特集の意図するところであり,そこにわが国の精神科診療所医の今後の努力への出発点を求めるのだとすれば,たとえその結果,欧米の臨床精神科医をして眼を白黒いや白青させるような実態がうかびあがろうと,肚をすえて赤裸々にこれを伝える他はないと覚悟をきめた。

地域医療におけるてんかんクリニック

著者: 田所靖男

ページ範囲:P.1069 - P.1075

Ⅰ.まえがき
 わが国の公立医療機関のなかで,てんかんに専門化したものは,国立療養所静岡東病院をもって嚆矢とするものであろう。それ以前にも,国立武蔵療養所のてんかん病棟開設,2,3の大学病院などにおけるてんかん特殊外来の運営など,てんかん診療に専門化した組織があり,それぞれの地域におけるてんかん医療センターとしての役割を果してきたものと考えられる。近時てんかん学の発展と共に,てんかんに関心をもつ研究者が急速に増加しつつあることは,てんかん研究者の集まる研究会が各地に組織されてきたこと,従来セミクローズドであった「日本てんかん研究会」が「日本てんかん学会」として公開され,その会員数が600に達したことなどでも理解される。また,てんかん診療機関としても,多くの国公私立大学病院,国公立大病院など,公的医療機関の中に次々とてんかん特殊外来が設けられ,それに参加する医師の数も年々増加しているのが現状である。しかし,小規模の医療機関,いわゆる開業医が持つてんかん専門の診療所はきわめて少数にすぎないと思われる。精神科医である筆者は,てんかん専門の診療所を開設・運営して10年の経験をもつものであるが,ここにその経過と現状を報告し,わが国の医療制度の中で,あるべきてんかん医療体系を考え,その中でささやかながら筆者のごとき小規模専門診療所のもつべき役割と位置付けについて私見を述べてみたいと考える。

子供を対象とした精神科診療所について

著者: 寺内嘉一

ページ範囲:P.1077 - P.1080

I.はじめに
 昭和40年頃から厚生省の方針があってか,普通の3歳児検診(内科的なもの)に加えて精神科的3歳児検診があちこちの保健所で盛んに行われるようになった。この精神科的3歳児検診は「3歳児心の検診」という名で今日定着しつつある。
 ひと口に3歳児心の検診といっても実施方法は多様で一定でない。毎月保健所で行われる小児科的な3歳児検診で,発達,情緒に問題のありそうなケースをピックアップして,他日母子衛生法に基づいて,児童相談所が3歳児心の検診を行うのが一般的である。
 また一方では,このようなピックアップ方式をとらずに,例えばその週に満3歳の誕生日を迎える3歳児全部を対象にして心の検診をする試みもあり,「芦屋方式」といわれるのはこれにあたる。
 私が開業した昭和47年頃は,このピックアップ方式による3歳児心の検診が盛んで,私が神戸大学精神科の小児研究グループに属していた関係で,児童相談所の嘱託の形で,兵庫県内の三木市,川西市,伊丹市,宝塚市,さらに兵庫県立精神衛生センターの依頼で尼崎北保健所などで3歳児の心の検診を担当していた。
 この検診で問題になるのは,3歳児であるので発達の問題,情緒の問題,母子分離の問題,あるいはひきつけなどの疾患等々多彩である。あくまでも検診であるので,普断の診察と違って予診,生活歴聴取,状態把握,診断及び鑑別診断,母親への説明,治療方針など結論を一挙に出さねばならない。
 これは大変な重労働で,その場で結論を出せるとは限らず,次回に持ち越し「継続」とせざるを得ないことが多い。しばしば「継続」のケースがたまってしまい検診が進まず,身動きできなくなってしまう。3歳児の心の検診では,診断行為と治療行為が明確に区別できにくい。例えば小児科的な3歳児検診では,何か障害のありそうなケースは,要精検ケースとして医療機関へ紹介すれば簡単に済むが,心の検診では,事後指導を引き受ける医療機関は極めて少ない。
 検診はするけれど,そこで生ずる治療,指導を要するケースを,以後誰がどこで引き受けるかのあてもなく,どんどん検診が消化されてゆく状況であった。これは武器もなく戦っているようなもので暴挙といわれても仕方がない。検診の場で,母親に問題を指摘するのはやさしいが,その結果母親を大いに不安にしたまま放置し,事後指導をする場がないとすれば,行われた検診は有益であったとはいえず,当時流行語になっていた「公害」をばらまいたといわれても弁解できない。本来,3歳児の心の検診に限らず,検診は早期にみつけて早期に治療,指導ルートに乗せるのが役割と考えられるが,背景となるルートを持たずに検診をするのは心細い。
 筆者は,はじめから,児童精神科の専門診療所を開設しようとしたのではない。ごく一般的な精神科外来診療所を開業した。しかし3歳児の心の検診にたずさわっていた関係で,検診の背景として自分で再指導ケースの第2次機関として精神科外来診療所にプレイルームを併設せざるを得なかった。従って,私のプレイルームを運営する姿勢は防衛的,且つ消極的である。将来プレイルームを発展させ一大治療センターに築き上げる考えは毛頭なく,何とかつぶさずに維持してゆくだけで精いっぱいである。
 私のプレイルームには3歳前後の多彩な問題を持つケースがほとんどで,やがてくる幼稚園,小学校への就園就学の準備,就園就学後の適応状態のフォローを親とともにやってゆこうとしている。閉ざされたプレイルームという密室内で解決できるものでなく,将来開かれた集団への参加適応を目指して細々と指導しているのが現状である。細々とでは困るが,今の診療報酬体系では経済的にプレイルームを維持してゆけない。例えば精神薄弱は精神療法(この場合プレイセラピーに相当)も精神科通院カウンセリングも保健でわざわざ断ってまで認められず差別を受けている。これは精神薄弱は医学的に認められても,医療的に認められないという事になり,矛盾している。

社会適応:適応と医師の対応のあり方

著者: 秋本辰雄

ページ範囲:P.1081 - P.1087

I.はじめに
 1980年の神戸での日本精神神経科診療所医会(以下日精診)の第7回総会1)で,〈社会的適応〉が主要テーマとして取りあげられた。日常生活のなかで患者がいかに社会的適応していくことができるのかという問題であり,決して学問的なレベルでの対話ではなく,臨床医としてのかかわりの中での迫られたことであり,同時に医師そのものの適応のありかたを如実に示してもいる。
 筆者が福岡市で外来診療所を開設したのは昭和45年であり,当時市内では外来のみの開業がなかった頃である。当初は孤独感や孤立感,馴れないための試行錯誤などがあった。しかし徐々に地域の中での一診療所としての役割に納得していくようになってきた。
 ところで外来診療所が地域の中に定着できるようになったのは,昭和30年頃より精神薬物の進歩により,外来でも治療ができる状況になってからである。特に東京,大阪,神戸などでは昭和35年頃より徐々に増加してくるとともに,その診療内容も従来の精神病のみではなく,神経症や家庭内問題,不登校など幅広い対象となり,精神医学の教科書では役に立たないほどである。昭和45年後よりは大学紛争などでさらに外来診療所は増加している。ところで外来診療所の所在であるが,主に大都会の旧区内に多いようである。精神病院が都市の郊外に集中しているのに比べて診療所が地域に根づいているようである。多くの診療所の精神科医は地域精神医療の実践に積極的であると考えられる。精神科医の目的意識についても,精神科診療所の社会における価値に重点をおいている。特定の技法の施行,特定の治療をしたい。入院をさせないで外来で支えたい。プライマリ・ケアとして気軽に行ける診療所として,患者の受皿として,手作りの治療をしたいという意見が多いようだ。
 さて,それでは社会的適応をどのように実現していくかということから始まる。精神科診療所ではまだ歴史が浅いだけに,精神病院が抱えている社会復帰ほどに深刻な問題は少ない。しかし日常生活のなかで直面する今日的な問題として医師が日日遭遇する患者の就職,復職結婚,勤務の評価,家庭内の危機などの現実的な課題をいかに対処していくのだろうか,といった問題が総会で討論されたが,病院とは違ったきめ細かな内容であった。患者の就職について,中井久夫氏からいろいろとこ発言があった。その中で,たとえ病者であっても,人は能力という言葉では律せられないような,鍵と鍵穴が合えば結構思いがけない力,社会的な活躍をしている,と具体的な例から適合を話されていたのが印象的であった。

有床診療所をめぐって

著者: 荻野利之

ページ範囲:P.1089 - P.1095

I.はじめに
 1981年7月1日の毎日新聞に評論家緒方彰氏がマスコミ診断というコラムに「ここひと月余りのニュースの重さに平然とし,身ぶるいも感じない人は少なくともジャーナリストではない」と述べ,ポーランド問題,フランスのミッテラン当選からのヨーロッパ情勢,イスラエル空軍の米国製戦闘爆撃機によるイラク原子炉破壊,イランの情勢,アメリカのヘイグ国務長官の訪日キャンセル等を上げて,世界が核を手にしながら疑いと憎しみと恐怖の中でゆれ動いている状態を述べ,「空恐ろしいまでの変化と混迷の度を増し続ける情勢が,濃淡の差はあっても大衆が肌で感ずるような情報として流れ続けている。このたった1ヵ月のことだけで十分である。この情勢を可能な限りの努力で情報を集め,分析し,もし出来得れば神に念ずるほどの気持ちで,それについての判断を大衆に示すべき時であろう。……巨大な日本のマスコミ群は「あの時何をしていた」と後世うしろ指をさされてはなるまい。奥部に迫れない報道に用はない」と結んでいる。
 ある事典では,(マスコミの伝達内容は,一般に機械的技術手段を用いて,公開的だが一方的に,また非対人的で間接的に,たくさんの散在している人々に伝えられるものである。従って非個人的な標準型のコミュニケーションになる傾向があるし,巨大化した媒体は,いよいよ組織的に大衆に影響を及ぼし,そのイメージの世界をも左右するに至る)とある。それ故に,メディアポリシーとして国家や資本によるマスコミ政策の規制に止まらず(最近は,意見の多様性がますます尊重されるべき時代であるにもかかわらず,新聞はじめ各種マスメディアの集中化はむしろ自由な言論を阻んでおり,その弊に対処する方策が焦点になってきて,単なる権力によるマスコミ操縦といった次元の発想を離れて,社会的にいろいろな段階で実施される可能性を有しているとある)。又,コミュニティというコトバについては1969年に国民生活審議会答申の中から:--「国民生活行政はきわめて不十分な態勢にあり,なかでも,地域社会に関しては,ほとんどの行政分野の盲点になっている」として,住民の生活環境改善のおくれは地域社会への配慮不足によるとする。そのため,新地域社会ともいうべきコミュニティを育成し,身近な自分たちの地域社会を大切にしようというもの。広域行政がさけばれ,とかく外側に関心が広がろうとするなかで,都市化の進行で失われがちな人間性,隣人に対する無関心,過疎地域にとり残される老人問題など,多くの地域社会の問題に指針を与えている。この構想でいうコミュニティはその構成員が近代的市民意識を持っていること,開放的であることが特色で,そのようなコミュニティの育成は,単なる地域社会の整備といった意味ではなく,未来における地域社会のあるべき姿を示しているとある。
 診療所の有床問題に先立って,なぜはじめに,マスコミとコミュニティの問題に触れたかというと,過去のことを措いて,現在から未来への視座で眼を据えると,どうしても,この2つは基本的な問題であり,又,われわれもコミュニティの一細胞として,コミュニティの側から医療問題を眺められる便利さもあるからである。

健康保険制度に人間性を

著者: 明石恒雄

ページ範囲:P.1097 - P.1100

 昔は医は仁術といわれ,社会的地位も与えられていた。庶民の中にあってくすしは慈しみをもって患者に接し,利害を抜きにして治療を施し,患者はその医師を尊敬することにより自然に社会的地位が与えられたし,上流社会でも貴族・封建社会では時の国家権力より御典医などと社会的地位を与えられていた。そして小咄や川柳で医師が僧侶等と共に皮肉られることはあっても,尊敬されているもの―社会的地位のあるもの―に対する単純な庶民の羨望からであって笑いですませられる程度のものであり,医師と患者の間には太い心の絆があった。
 時代と共に職業の貴賤は薄れ,医師と患者の立場は対等になりキブアンドテイクの概念が生まれつつある。医師は聖職であり,奉仕の精神は失われてはならないが,強者が弱者に対するいわゆる施しではなくなっている。しかし現在の医師の心の中にはまだ「治してやっている」という施し―傲り―の意識が残りエリート意識を捨てきれず昔からの社会的地位に自らしがみついている感がある。患者もまた医師に対する尊敬の念はあるもののむしろ社会的・経済的優位にある(事実はそうだろうか?)医師に対し羨望がたかまり,さらにそれがねたみにも発展しいろいろなトラブルの発生につながる。更には「薬づけ」,「検査づけ」,「乱診乱療」,「脱税」等々,マスコミは庶民のねたみをあおりたてるごとく次々と医師攻撃の矢を放つ。以前精神病院攻撃を行った大新聞の記者と話しあった時も平然と「われわれは商業新聞ですから売れる記事を書かなければならない」と言いきるありさまだ。

老人医療の立場から

著者: 松田孝治

ページ範囲:P.1101 - P.1107

I.はじめに
 幾つかの精神科診療所では老人性痴呆症が熱心に取組まれているが,全体として,本稿のテーマの分野でまとまった報告をするほどの資料の蓄積はないと思う。むしろ,それができるほど医学制度が整備されていない。筆者はここでは,今後より一層重大なテーマとなる老人医療における精神医学的側面を精神科診療所の立場から,その役割と手法について考察する機会を与えられたと思っている。精神科診療所での日常診療,およびそれと地域医療や福祉などとのかかわり,筆者自身の医師会活動などの経験を報告し,そこから医療システムについて述べ,さらに医療と福祉の結合を社会システムとして展望してみたい。現場での医療が医療経済の支えがない限り実践できないことを述べたし,さらにこの問題が広く政治と密着していることにも言及した。第Ⅳ章を設けたのは,このあたりの理解なしに,箱神科診療所の問題の所在の理解がすすまないと考えたからである。ご理解を願いたい。

座談会

精神科診療所をめぐる諸問題

著者: 秋本辰雄 ,   荻野利之 ,   長坂五朗 ,   西尾友三郎 ,   原洋二 ,   松田孝治 ,   加藤正明

ページ範囲:P.1108 - P.1120

はじめに―「立津による質問」以後の現状
 加藤(司会) 今日は,「精神科診療所をめぐる諸問題」ということで,お集まりいただいたわけですが,いまから13年前の昭和43年註)に,やはり同じテーマで座談会をやったことがあります。そこで立津先生から6つの問題が出されておりますが,この問題はいまでもやはり継続する問題だと思います。
 この13年あまりの間に診療所の数もたいへん増え,新しい,いろいろな問題が出ていると思いますので,まず最初に長坂先生から全国の精神科診療所の現状をお話しいただきたいと思います。
 長坂 昭和43年から現在までほぼ13年経っております。その間に日本の社会情勢,ひいては医療情勢もいろいろ変遷してきたことは皆さんご承知のとおりであります。
 特に最近の医療情勢,医療関係のできごとはマスコミの一つの大きな興味の対象となって取り上げられます。
 そういったきわめて流動的な,あるいは危機的な状況の中で,精神科医療というものも,その渦中の外にあるわけにはまいりません。
 本日のテーマがたまたま同じでございますので,12,3年前の状況と今日までの社会情勢の変化の間にどれだけの変化があったか,現状は進歩したか,進歩したとすればどういう点が進歩しておるか,あるいはぜんぜん変っていないか,変っていないとしたらどういう点が変っていないか,そういったことを論じ合ってみたらどうか,そのように考えます。
 今からおおよそ13年前の特集「精神科診療所をめぐる諸問題」において立津先生が6つのテーマを出しておられます。これを拠り所にして13年の間にどう変化したかを検討してみると論じやすいのではないかと考えます。

古典紹介

Hans Binder—アルコール酩酊状態—第3回

著者: 影山任佐

ページ範囲:P.1125 - P.1140

 208酩酊例の病歴誌を用いて,アルコール酩酊状態を次のように分類し,その各々についての論述がなされている。
 A.単純酩酊 即ち正常な分布領域内の変動である急性アルコール摂取に対する普通一般人の反応である。最初に大脳皮質下ないしは生気的一精神的興奮〈感覚感受性の亢進,多幸的基礎気分,発動性の増大〉の出現する時期が現われる。次いで現われるのが昏蒙の段階で,これは皮質,即ち精神の高次機能的「上屈」に緩慢にしか出現せずごく段階的に深化する機能の麻痺期である。このために比較的原始的な機能の脱抑制現象が派生するが,しかしこれは極端な程度にまで高まることはなく「下降性」麻痺の中にたちまち姿を消してしまう。正常な心理的連関や見当識は酩酊者の入眠する時まで保持される。いかなる妄想観念も幻覚も出現することはない。単純酩酊は人格に比較的軽度の震憾を与えるだけであり,礼容はどうにか保たれており,人格異質的行為が生じることはない。酩酊中の記憶は多くの場合く常にそうだとは限らない〉比較的強度に障害されることがない。重大犯罪では単純酩酊はたんに誘発因子的役割を果たしているにすぎない。実践的理由から単純酩酊には責任能力に対する影響は認められない。
 B.異常酩酊 ここではアルコール急性作用と並んで異常な個体的素因が働いている。非常に強くて持続の長い生気的精神興奮と精神の高次機能的「上層」に突発する重篤な障害が出現する。このために人格の激しい震憾が惹起され,礼容を整えることはもはや不可能となり,人格異質的行為がなされる。しかしながら最後の飲酒後遅くとも12時間経れば異常酩酊のこの遷延化された興奮も睡眠様状態へと移行してしまう。
 1.複雑〈=量的に異常な〉酩酊:激しい生気的興奮く被刺激的基礎気分〉と,これに遅れて比較的原始的な機能の極端な脱抑制現象を伴う,麻酔に類似した姿で出現する急速に深化する昏蒙とが現われる。このため麻酔と同様の経過が出現する。興奮は「下降性」麻痺の後半段階に至っても,突発性に再燃する。こうして人格異質的行為を悲起する重篤な狂暴的運動発散が出現する。しかしながら,行動には,環界とは意味のある,また第三者には了解可能な関係が保持されており,強い明識困難状態のために遅れることがあっても,入眠するまでには正常な心理連関と状況に対する見当識は多くの場合保持されている。憤怒の放散(八つ当り)に支配された短絡反応傾向が出現する。コンプレックス傾向の抑制からの解放も現われる。時には被害的意味を持つ妄想様着想が出現するが,しかしこれが現実意識を真に動揺させることはない。幻覚というものは存在しない。酩酊時の記憶は概括的であることが大半を占める。酩酊状態の被刺激性の結果,稀ならず重大な情動犯罪がなされる。複雑酩酊状態にある者には限定責任能力が認められるべきである。
 2.病的〈=質的に異常な〉酩酊=激しい興奮と同時にくこの点が複雑酩酊とは異なる〉意識障害が出現する。このために症状像全体は全く突発的に出現する。基礎気分は不安である。質的に異常な意識障害が存在し,状況に対する見当識は最初から直ちに根本的に障害される。従って病的酩酊者の全てが責任無能力者である。
  a)病的酩酊のもうろう型。正常な心理連関の連続性は新しい狭窄された意識の全体的状態を示すもうろう状態の出現によって中断される。もうろう型酩酊者は周囲を断片的にしか把握せず,これとの関係は著しく障害されており,酩酊者の行動は第三者にとって了解不能であることがしばしばで,空想的で非現実的な性格を帯びたものとなっている。しかし,不安を帯びた興奮はく夢遊病者と比較して〉外面的に表出されることはごく少ないが,表出されれば,重大な狂暴発作が出現することがある。もうろう型酩酊者の精神過程はそれでも夢幻的な,機械的に刻み込まれた連関を示す。精神の高次機能的「上層」の遮断の結果解放されるのが,コンプレックス傾向や対象のない「盲目的」欲動や表出行為そして過剰な発動性によって極端に活性化された全く要素的な運動型である。状況全体を誤認へと導びく馬鹿げた追跡妄想や不安に彩られた散発性の幻覚が出現する。身体的には構音障害と身体の動揺とは欠如し,瞳孔硬直や腱反射の減弱が認められることもしばしばである。不安そして妄想的状況誤認や著しい脱抑制の結果,重大な情動犯罪がなされることが多い。
  b)病的酩酊のせん妄型。振戦せん妄の頓挫型である。せん妄性意識障害の全般的な崩壊の傾向のために正常な心理的連関はばらばらにされてしまっている。このため酩酊者の行動は第三者にとって了解不能であるだけでなく,―せいぜい特定の行動の断片が追体験可能であるのがやっとである―,せん妄型酩酊者の精神過程もまたそれ自身内的連関を失っており,解離という飛躍と断裂につら貫かれてしまっている。一過性に突発する関係念慮や移しい量の刺激幻覚(Reizhalluzinationen)〈その多くは影のような動きのない形をしている〉が出現する。行動の断片には運動性不隠が認められ,特に要素性運動様式が作動している。もうろう型酩酊でしばしば認められたような極端な程度にまで不安や迎動発散が到達することはない。犯罪的重要性は少ない。
 異なった各型の間に混合ないしは移行例というものが時には出現するとしても,アルコール酩酊状態の以上述べた分類というものは,理論的にも実践的にも現在なお統一のないままに扱われている領域に明確さをもたらすのに貢献するものであるように思われる。

動き

「第4回日本生物学的精神医学研究会」印象記

著者: 山口成良 ,   佐野譲

ページ範囲:P.1142 - P.1143

 第4回日本生物学的精神医学研究会は名古屋保健衛生大学医学部の中沢恒幸教授会長のもと,去る6月4日,5日の両日にわたり,新築なった名古屋のホテル・キャッスルプラザで行なわれた。会長講演,シンポジウム2,一般演題72題であった。
 「状態像stateの精神生理学」と題する会長講演は,対象が主観的に知覚し,表現する言動(症状)から,なんらかの生物学的徴候をみい出すべく,約4,000名の被検者についてskin potential reflex,指尖容積脈波,心拍数,tapping,反応時間等を指標として,ポリグラフィックに情報解析を試みたものであり,不安状態,抑うつ状態強迫状態等の対比が明瞭に象徴化されており,また,左右脳の問題,妄想への接近をも試み,将来の集大成が大いに望まれる,生物学的精神医学研究には恰好の講演であった。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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