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文献詳細

雑誌文献

精神医学24巻6号

1982年06月発行

文献概要

巻頭言

文献引用

著者: 西丸四方1

所属機関: 1愛知医大

ページ範囲:P.572 - P.573

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 数年前一般向の小著を物したとき,出版社編集部による引用文の点検が非常に厳密で,引用文の一字一句原著と異なってはならない,編集部で調べるから,著者名,書名,出版社,出版年は勿論のこと,外国書ならばその原文をも書き添えよとのことであった。恐らく煩い読者が居て何かの誤りを発見して,したり顔に注進して来るのに懲りているのであろう。聖書のキリストのエリエリレマサバクタニについて,聖書の著者名,エリエリの原文を添えよというには閉口した。聖書の著者が誰であるか気にしたことは全くなかったし,エリエリは元来ギリシア文字で書かれてあるもののアラム語なので,死刑執行役人が分らずに,エリアを呼ぶなりといったのであるから,私には分るわけはない。アラム語はシリアの言葉でどうせアラビア文字かヘブライ文字のようなものであろうから,エリエリをヘブライ文字で書いておいたところ,このテストに通った。どうもカンニングでもしたような気になるが,このような詮索はちよっと行き過ぎであろうか。
 一昨秋テレビでノーベル賞のエソロジストのローレンツの雁の行動の放送があり,面白かったが,最後の字幕に「動物のすべては人の中にあり,されど動物の中に人のすべてはあらず」老子,と出た。すると中国哲学の友人から早速電話があり,老子にはこんな言葉はない筈だとのこと,「攻撃」を調べてみると,古い中国のことわざalte chinesische Weisheitにとしてある。「八つの大罪」の付録のレクスプレス記者との対談では,この文句は老子の言葉となっている。前者は1963年,後者は1970年の出版であるから,この間に古賢が老子に変ったわけである。荘子にはこの言葉はない。荘子なら万物斉同,人と禽獣と何の異なる所あらんやと来なければふさわしくない。列子には,人でありながら禽獣の心を持つ者があるが,外観が人なので人間扱いにされ,反対に禽獣でも人の心を持つ者があるのに,外観から畜生扱いされるとあって,ローレンツの引用には合わない。NHKとみすず書房に問合せたところ,ローレンツ自身がそういったからそうしたまでのことで,老子にこの文句があるかどうか確めなかったとのこと,煩い視聴読者が居るものだと厄介に感じたことであろう。中国哲学者によると,孟子や荀子にはやや似た言葉があるとのことで,やはり道家より儒家のいいそうなことである。揚朱の個人主義,墨翟の博愛主義は父と主君を認めないから禽獣だ,人が禽獣と異なるのは人は内なる仁義に由って行い,外からの規制としての仁義に由って行うのではないという点にある,禽獣には父子はあっても父子の親(しん)はなく,牝牡はあっても男女の別はない,禽獣には知はあっても義はない,礼と義を乱る者は禽獣である,というような文句がいくつもある。性善説(孟),性悪説(荀)に関係なく,人と動物の差は仁と義の有無と見ているのだそうである。儒家は動物(自然的存在)を悪とし,動物に人間の堕落の姿を見,道家では動物に善を認め,人為なしに自然に振舞うのが善とされる。人間(文化的存在)は儒家にとっては善で,孟子は人間の自然の性も善であり,荀子はそれは悪だが人為の礼と義で善くすることができるとする。道家は人間は自然から逸脱して悪となり,仁義という人為を加えざるを得なくするが,元来は文化的になったのが悪の源であるから,自然の道に帰れというのである。ローレンツは人間の中の動物が初めから何か邪魔なもの,軽蔑すべきもの,根絶すべきものでは決してない,といっているので,儒家のように動物に悪のみを見るのではないが,といって道家のように動物に善,人間に悪を見るのでもない。肉食文明,キリスト教文明の中にあっては,動物に善,人間に悪を見ることは容易にはなし得ないだろう。とにかくローレンツのような見方をする中国の古賢はちよっと見当たらないとのことである。

掲載誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-126X

印刷版ISSN:0488-1281

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