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文献詳細

雑誌文献

精神医学24巻6号

1982年06月発行

文献概要

特別講演

精神医学教育

著者: 林宗義1

所属機関: 1ブリティッシュ・コロンビア大学精神科

ページ範囲:P.671 - P.676

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I.はじめに―戦後の台湾の精神医学教育
 私が戦後台湾に戻った時,最もこたえたのは仲間がいなかったことである。教えを請う先生がいない,話し仲間もいない,精神科を志望する人もいないという状況であった。それのみならず,精神科があまり重視されていなかった。はっきりいえば軽視されていた。精神病は治らない,精神科の医者は精神病を治せない,という風に一般社会に於ても,医学の仲間に於ても評価が低くて,これでは精神病の治療,精神医学の教育をするのは大変だと痛感した。このような状況の中で,まず人作りから始めるのが必要であると考え,以来私は精神医学教育にかなりの重点を置いて努力してきた。私の人作りの目標は,人から信用され,尊敬される専門医を養成すること,医学の他の部門の人達と肩を並べて対等に協力できる人を養成することであった。これを考えたのは1946年のことであるが,当時精神科を志望する人はいなかった。日本統治の50年間に精神科をまともに勉強をした人が1人もいなかった一事でお分りと思うが,私はどうしようもない状況に直面したわけである。
 どこから手をつけたらいいのか,という問題にさっそくぶつかったのであるが,まず考えたのは医学部における精神医学教育に重点を置こうということであった。ところが,そういっても,当時は医者が私ひとり,助手もいない,看護婦も再訓練しなくては使えない,という状態であった。良い臨床精神医学がなくては精神医学の教育はできないのだから,まず台北大学の精神医学教室の再建と教育の強化をし,そこで臨床精神医学を実践してデモンストレーションとすることを考えた。精神医学は学問の一部である,精神医学は他の医学と同じように人を治すように努力している,あるいは少くとも苦痛を軽減するように努力しているということをデモンストレーションすることによって,ひょっとしたら,教育を受けた学生の中から精神科を志望する人も出てくるのではないかということを夢見つつ始めたのがこの精神医学教育であった。
 当時の台湾の精神医学の教育カリキュラムは丁度日本の現在とほとんど同じで,3年目に総論があり,4年目に各論があってポリクリが回ってくる。まず,これで始めた。ところが,これでは少しも能率が上らないことが分った。精神医学総論を教えるといっても,私が台湾に持ち帰ったのはBumkeの教科書1冊だから,それだけを使って教えることはとてもできないし,といって,他に本はなしで,途方にくれた。だから,最初の頃は毎週の講義のために涙を流しつつ自分で勉強していったものである。ところが,1,2年のうちに学生の中からこれはとおぼしき者が入局を希望してきた。鬼の首でも取ったように喜んでいると,後で父親が断りに来るというまことに苦しい経験のあったことをなつかしく憶い出す。しかし,そのうちに1人,2人とだんだん入ってくるようになって,4年間で4つあったレジデントの席が全部埋まることとなった。一方,学生の講義の出席率もだんだん良くなり,出席を取る必要がなくなってきた。しかし,そういうことをしている間に,いったいわれわれの精神医学教育の目的はただプロフェッショナルな仲間を作るということだけでいいのだろうか,と深く考えさせられるようになった。仲間だけではなくて,味方を作るという所に持っていくべきだ。精神衛生,精神医療の仕事は精神科の医者だけでできるわけではない。他科の医者も味方にすべきだ。そのためには,精神医学の最低限度の知識だけではなく,技術までもある程度教えるべきだということを考えついて,そこにだんだんと精神医学教育の目的を移していったように記憶している。
 そのうちに,精神医学の教育は医者だけでいいのだろうか,と考えるようになった。予防の問題は社会全体の問題であって,医者だけではできない,ということでだんだん他の職種のことを考えるようになった。時に心理学分野の人や看護婦の教育にずいぶん努力するようになった。毎週心理学教室のコンフェレンスに参加して,何とか精神医学と心理学が互いに話し合う機会を作ろうと3年間努力した。そしてやっと,臨床心理学をやりたいという一人の心理学の学生を引っぱり出した。このように,精神医学教育の方向についてある程度アイデアができたところで,私はアメリカへ行くこととなった。3年後に台湾に帰った時には,自分のアイデア実現のために私がアメリカで習ったことを使う下地ができており,それから具体的な案にだんだんと発展していったのである。
 1953年にアメリカから帰ったのであるが,私としては考えもしていなかった発展が起った。アメリカのAID(Agency for lnternational Development,国務省国際開発局)が台北大学とデューク大学の協力を持ち出してきたのである。デューク大学とコロンビア大学の医学部長が来て,台北大学医学部の教育カリキュラムを改革するということであった。その年の暮れ,医学部長に「精神科が“Grosse Fach”になるが,どうだろうか?」と言われて仰天した。アメリカでは精神科は“Grosse Fach”で,教授,助教授,講師など百何十人もスタッフがいて,大変うらやましく思っていた。一つのチャンスを得たという喜びもあったが,助手3,4人しかいないところで“Grosse Fach”の教育ができるかという非常な不安,危惧もおぼえた。もう一つには,当時はこれから臨床精神医学を建設していこうという時期であり,さらにちょうど台湾の精神疾患のsurveyをしたあとで,これから社会精神医学にもう少し深く入っていきたいという時でもあったので,教育に力を使ってしまったらどうなるかという不安があった。そこで医学部長に「一寸考えさして下さい。1週間待って下さい。」と返事した。その1週間の間に色々と考えた末,結局「やってみます」と返事した。それで,1954年の新学期から台湾の精神医学教育は一つの新しい時代に入ったのである。
 そこでまず,台湾における精神医学教育(これはよく“台湾モデル”と言われている)について簡単に説明したい。次に,私が台湾モデルを作ったものだから,WHOなどにたのまれて,各国の精神医学教育を見たり,指導したりする機会があったので,それについて述べたい。さらに,現在私たちの直面している諸問題について話をしたいと思う。

掲載誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-126X

印刷版ISSN:0488-1281

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