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雑誌目次

雑誌文献

精神医学4巻2号

1962年02月発行

雑誌目次

精神病理懇話会より

精神分裂病者とのコンタクトについて—心理療法の経験から

著者: 加藤清 ,   笠原嘉

ページ範囲:P.75 - P.83

 Ⅰ.
 「分裂病者におけるコンタクト」の問題は昨今精神病理学のもつとも今日的な主題の1つとなつてきている。わが国でもすでに宮本氏1),荻野氏2)らの,また最近ではすぐれた小川氏3)の論著を読むことができるし,他方当然のことながら精神分析や病院精神医学の分野からの数多くの研究もまた,この主題にふれてのべられている。このようにコンタクトの問題は一見いかにも今日的な課題のごとくみえるのであるが,実はJanet, Bleuler以来すでに久しく精神分裂病研究の中心的な問題にあつたことを忘れるわけにはゆかない。いわゆるアカデミックな精神医学の諸概念,つまりBleulerの内閉性,同調性,Kretschmerの分裂気質,Minkowskiの生ける接触,さらにはJanetの現実機能,Blondelの社会意識等々,いずれをとつても,そこには主題的にであれ非主題的にであれ,分裂病者におけるコンタクトの問題にふれていない概念はないといつてもよい。われわれが精神病医としてうける最初の訓練はふつう感情診断の習得,つまりこの人には疎通性があるかないかの判断であるということや,その場合にこんにちなお慣用している「感情的疎通」という言葉をわれわれは1908年来Bleulerに負うているということは,コンタクトの問題の歴史性と今日性を端的に物語つているといえる。
 しかしながら,このように古くからあるコンタクトの問題がこんにち新たな装いのもとに登場してくる舞台は,いうまでもなく従来のそれとは趣を異にしている。つまりコンタクトという言葉に新しい息吹きを吹きこんだのは,一方においてアメリカのコミュニケーション論,対人関係論であり,他方において欧州における精神医学的現存在分析の研究であつた。それらによつてこんにち提出される意味での「コンタクト」は,大約つぎの2つの点で旧来の意味のそれと区別されるようにみえる。1つには,そうよんでよければ二人称的両数的なコンタクトの問題,つまり「分裂病におけるコンタクト」ではなく「分裂病者とのコンタクト」の問題になつてきているという意味において,2つには治療(とりわけ心理的治療)というプラクシスに密接不可分の課題となつているという意味においてである。二人称的な関係への注目と治療的な構えという,この2つの要素はBoss4)のいうような意味で,精神分析のプラクシス(理論ではなく)に深く内蔵されていたものといえるが,事実こんにちの対人関係論はもとより精神医学における現存在分析もまたそれぞれ発想と方法を異にするとはいえ,精神分析に端緒をもつわけであるから,あえて大胆な表現をすれば,精神病理学のワクの中で伝統的な精神医学と精神分析が出会うことのできる場所は,ほかならぬ「コンタクト」という問題領域であろうとさえいえるかと思うのである。

研究と報告

内言語と発語運動—幼児,聾児,失語症者の文字の読みかたについて

著者: 後藤弘

ページ範囲:P.85 - P.93

 Ⅰ.序言 内言語とはもともと内観によりえられた概念であつて,内言語を客観的な実証的な操作による研究の対象とすることは困難である。従来のこの方面の業績がとかく思弁的な傾向に流れたのはやむをえないことだつたと思われる。もし,これを実証的に追求しようとするならば,内言語とみなしうる過程の発生条件を実験的に設定するのが適切であるかと思われる。
 しかしまず内言語とはどのようなものか,ということを規定する必要があろう。これは複雑であいまいな概念であり,その意味するところも学者により異つている。しかし,一般には内言語(innere Sprache,inner speech)とは「言語の運動的行動に先行し,あるいは,ある音を聞いて,そこに言葉として特定の意味をとらえようとするときに生じるところのもの」であると規定される。Goldstein1)はこれをつぎのような2つの過程に大別している。すなわち,第1は外言語形態(äussere Sprachform)を生ぜしめ規定する動機としての内言語形態(innere Sprachform)であり,第2の過程は,言語のようなものとして感じられる運動的とも感覚的ともいえない特異な体験をもつことであり,そこに象徴の性格がともなうか否かは問題ではないという。また,Schilling2)はこのGoldsteinのいう第2の過程ときわめて似たものとして,inneres Sprechenという語を用いているが,そのさい彼は発語する自我の能動性や運動性に重点をおいている。

「病院内寛解」について—病院精神医学の立場から

著者: 藤繩昭

ページ範囲:P.95 - P.101

Ⅰ.序言
 ここに「病院内寛解」というのは,私の知るかぎりではいままでの精神医学的文献には記載されていない概念で,つぎにのべるような状態像に対して仮りに名づけたものである。すなわち分裂病者が病院にいるかぎりでは主観的症状はなく,病院社会に適応し,心的平衡をたもつことができ,客観的にもいわゆる寛解状態を維持しつづけるのに対し,ひとたび病院を離れるとただちに症状があらわれて,病像は悪化し,そしてまた病院に帰つてくるとまもなく心的平衡をとりもどして,寛解状態をきたす,そのような状態に「病院内寛解」という言葉を使うこととする。しかも病院外での増悪が,退院後一定期間をおいて再発するというのではなく,病院内と病院外という状況変化(あるいは環境変化)に相応して,症状が出現消長する様相を,われわれがある程度明白に把握しうるような場合にかぎつてこの言葉を使うこととする。
 状況の変化に応じて分裂病の主観的症状が消長するという事実は古くから知られていたが,とくに治療状況との関連でこのような事実についてふれているものに,笠原の研究がある。彼の心理療法をほどこしていた女の患者は「面接時間には一時的に治療者に関していだいていた妄想がすべて霧散して,いわばこの面接時間中のみは寛解状態にあつた」。Lidzらは分裂病者の家庭研究で,患者が家庭に帰れば病状が悪化するという事実を指摘しているが,こういうことはわれわれのしばしば経験することである。

電撃療法中に難聴を生じた1症例

著者: 古沢清三郎

ページ範囲:P.103 - P.108

 既往にErythematodesと考えられる疾患のある患者が分裂病様の精神障害を生じ,精神科に入院し,電気衝撃治療をうけ,その2-Kur目の治療から回数をかさねるにつれて聴力障害をきたし,治療の回数に平行して急速に難聴の程度が進行した症例を報告し,文献をあげて難聴の直接的原因がErythematodesにおける血管脆弱の基地に作用した電撃治療によつて生ずる内耳血管の循環障害にあることをのべた。

資料

精神障害者の入院について—第5編 フランス,ドイツその他の諸国

著者: 田村幸雄

ページ範囲:P.109 - P.115

A.フランス
 参考資料
 手もとにある本編の参考資料はいずれも少ないので,私自身にも疑問の点が多く不完全のものであるが,わかつているところだけを簡単に紹介しておく。フランスの制度に関しては(1)GuiraudのPsychiatrie clinique(1956)のほか,前述の(2)Mayer-Grossらの精神医学教科書,(3)Hendersonらの精神医学教科書,および(4)三浦岱栄教授の紹介文などを参考にした。

動き

米国における児童精神医学の現況

著者: 黒丸正四郎

ページ範囲:P.117 - P.120

 私は去年の4月10日に羽田を発つて米国に約3ヵ月,欧州に約2ヵ月半の旅をおくり,9月20日に帰国しました。この旅行の主目的がモントリオールおよびローマで開かれた国際的な精神医学および神経学の学会への出席を兼ね,欧米の児童精神医学の状況を視察することにありましたので,そのレポートを本誌の編集氏に求められました。
 米国ではChina Medical Boardの紹介で,医科大学のbest tenといわれるUniversity of California at Los Angels,U. of Calif. at San Francisco,Univ. of Illinois,Univ. of Chicago,Johns Hopkins Univ,Haverd Univ,Yale Univ,Univ. of Pennsylvania,Columleia Univ,Cornel Univ,の児童精神科を訪ねましたが,そのうちUniv. of Pennsylvaniaをのぞく他の9大学にはいずれも,児童精神科の専任教授(中には助教授その他のstaff)がおかれていて,外来,病舎も立派で,単に学生に対する教育のみでなく,精神科および小児科の専攻研究生は4年の修練期間のうち4ヵ月ないしは8ヵ月は児童精神科の勤務が義務づけられておりました。このことはこの国の児童精神医学会およびその機関雑誌の活動がめざましく,モントリオールにおける世界精神医学会においても61の分科会中,4つの分科会がChild Psychiatryで占められていた事実とともにわれわれ日本の児童精神医学者にとつて印象的でありました。その他,この分野で世界的に有名なBostonのJudge Baker Clinic,Puttnum ClinicやPhiladelphiaのChild Guidance Clinic, New Yorkの研究所なども訪ねてみましたが,いずれもそのいきとどいた組織設備に驚きました。

紹介

“Founders of Neurology”から(1)

著者: 安河内五郎

ページ範囲:P.121 - P.123

Alois Alzheimer(1864〜1915)
 F. H. Lewey
 Alzheimerは器質的精神病の脳病変に関する独自の研究をした人として忘れてならない存在である。19世紀の終りごろの指導的精神医学者達は,精神病を解剖学的に探求することの価値を疑問としており,好んで心理学的方法によつてこの「思考の中枢」を究明しようとする風潮があつたが,なかでただ1人だけ例外があつた。それは「精神科のLinneaus」といわれるEmil Kraepelin(1856-1926)である。Kraepelinは彼が所長となつた精神医学研究所の設計にあたつて,病理解剖部門に今までにないほどの設備を考えたし,また病理とその関連領域の研究担当者としても,当時最も有為な人と目された人材を指名したが,その中の1人がAlzheimerであつたのである。
 病理解剖学研究に対するKraepelinのこのような信念は,彼が最初から抱いていたものではない。Osker Vogtによると,1894年にVogtがForelのことづてをもつてHeiderbergにKraepelinを訪ねたとき,Kraepelinに将来の計画のことをきかれ「精神病の脳病理をやろうと思う」と答えたところ,Kraepelinは「君のprognosisは不良だね,精神科に解剖なんて役立たんよ」といつたそうである。恐らくその時のKraepelinの頭には,彼の師von Guddenの兎での実験や人間のsubthalamusに関するForelの研究が,精神病の解明に一向役立つていないという考えがあつたのであろう。ところが1905年にKraepelinがBerlinにVogtを訪ねたときは,事態はだいぶ変つてきた。KraepelinはそのころすでにVogtおよびBrodmannの皮質の細胞構築に関する発表を読んでおつたし,標本の検討も十分綿密にやつたので,結果として彼もまた脳病理の重要性を認めざるを得なくなつたものと思う。そして1916年MunichでVogtに会つた時はついにこういつたそうである――「自分の研究所の将来はNisslとBrodmannのものだ」。

“意識内容と大脳機能との相関関係”—Karl Spencer Lashleyの機械論的心身論(2)

著者: 福田哲雄

ページ範囲:P.125 - P.134

まえがき
 前回では,K. S. Lashleyの心身論の具体的内容の出発点となつている彼の学問的立場とその発展の概要とを述べておいた。また,心的現象と大脳機能とを結びつけようとする彼の機械論的意図として,従来考えられて来た心—脳相関の問題構成の不適切さを指摘する具体的な例記に関しても触れておいた。
 本号においては,上述のような見解に基づいて提出された彼の理論や仮説を紹介するとともに,それらをめぐつて展開された種々の討論の抜萃を行なつて見ようと思う。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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