展望
幻覚研究の歴史的展望—A.精神病理学的方面
著者:
島崎敏樹
,
宮本忠雄
,
倉持弘
,
中根晃
,
矢崎妙子
,
梶谷哲男
,
小田晋
,
小見山実
,
須賀俊郎
,
小久保享郎
ページ範囲:P.211 - P.227
Ⅰ.記述的精神病理学の立場から
1.K. Jaspersとその背景
Esquirol(1817)以来,幻覚の定義はいろいろの変遷を経てこんにちにいたつたが,彼の示した概念は現在でもなお価値を失つていない。Esquirolの定義は「……という知覚を体験したと確信する」という心理的事項と,「外界の刺戟なしに」という外的事物に対する決定の2つの部分からなつている。これによつて,幻覚は初めて科学的に明確に定義され,研究の方向が示されたといえる。いまドイツの幻覚論を歴史的にながめると,F. W. Hagen(1837),K. Kahlbaum(1856)の感覚生理学的理論からK. Goldsteinの脳病理学的理論までと,K. Jaspers以後の精神病理学的研究とに大きく分けることができる。われわれはJaspersの理論の出発点となつたのがV. Kandinskyの偽幻覚の概念であるところから,まずKandinskyの学説から始める。
Kandinsky(1880)によれば,大脳皮質の抑制機能が弱まつて,皮質下の感覚中枢の興奮が意識に達したものが幻覚であり,客観性という独自の性格をもつことで記憶像,幻想像と区別できる。この客観性格は心理学的に決定されるもので,彼はこれをX因子と名づけ,皮質下の神経節の興奮によつておこるとした。真性幻覚はこの客観性格をもち,一方,偽幻覚にはこれがなく,表象の現象として幻覚から区別される。これに対し,表象と知覚は相互に移行するというのがK. Goldstein(1908)の考えである。幻覚は表象性格をもつた主観的体験であり,誤つた実在性判断を有する偽幻覚なのである。以前におこつた知覚の痕跡が,外的刺激なしにあらわれる現象は,Goldsteinの考えでは回想像であり,内空間にのみ生ずる。この空間を外空間であると誤れば真性幻覚となる。彼はこの実在判断の誤りの原因を,意識の変化による判断能力の障害とした。幻覚はGoldsteinにとつては大脳皮質に起因する現象なのであつた。