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文献概要
紹介
“Founders of Neurology”から(3)
著者: 安河内五郎
所属機関:
ページ範囲:P.431 - P.432
文献購入ページに移動Cral Weigert(1845-1904)
―K. T. Neuburger
Carl WeigertはドイツSilesia地方Münstenbergの産。Breslau,Berlin,Viennaの各大学で医学を修めたが,生理のHeidenhainと解剖のWaldeyerからとくに強い感化を受けたという。1868年卒業と同時にBreslauでWaldeyerの下に助手となる。1870年から71年にかけての普仏戦争中は,現役として軍務に服し,その後Breslauの臨床医Lebertの下で働いたことがある(1871-73)。1874年Weigertの天然痘の病理に関するがつちりした論文を読んですつかり敬服したCohnheimが,Breslauの病理研究室における彼の最初の助手となつた。1878年WeigertはCohnheimとともにLeipzigに転じたが,1879年には早くもそこの病理の助教授に栄進した。1885年(そのころCohnheimはすでに他界していた)Frankfurt-am-Meinに移りSenckenbergの病理学解剖学研究所の病理部長の任についた。この「研究所」は設備の悪い古い一民家にすぎなかつたが,1900年代の初めごろはWeigertのほか他の部門の主任にはEhrlichとEdingerがいて,これら3人の大物―もの静かな思索家で努力型のWeigert,闘志溢れる元気者のEhrlich,つねに新しいアイデアを着実に実行に移していくEdinger―を擁して,ドイツの国内の他の大学に比べ決して遜色のないものであつた。
Weigertは約40年にわたる間に100篇ほどの論文を発表している。彼の最初と,そして最後の論文はどちらも神経系に関するそれである。最初のものは彼の学位論文であつて「De nervorum lesionibus telorum ictueffectis(銃創による神経の損傷について)」と題するもの,最後のそれは脊髄癆における脳病変についての論考である。彼は細菌の染色を最初に手がけた1人でもある(1871)。炎症,凝固壊死,結核のpathogenesis, Bright氏病,神経喰細胞のmorphologyおよび細胞のbiology等々に関する彼の諸研究は,われわれ後進にとつて有益な指標となるばかりでなく,彼の興味の範囲が病理学のあらゆる領野にまたがつていたことを物語る。彼は細胞の性質や機能を調べることよりも,細胞を染めることのほうに興味をもつていたなどといわれるけれども,彼を単なる染色方法の発見者にすぎないとみるのは大まちがいだ。しかし神経学において彼の名を不動のものとしたのは彼の染色法であることもまた事実である。Weigertはアニリン色素を導入したが,このことについては,彼がEhrlichのいとこであつたということは単なる偶然以上のものがあつたろうと思われる。彼はまたSchiefferdeckerによつて1882年に始められたチェロイジン包埋の方法を完成した。彼による線維素,弾力線維,髄鞘,膠質細胞などの染色法やヘマトキシリン-van Gie son染色の変法は,いまもなお各地の一般および神経病理の研究室で役だつている。髄鞘染色の手技はクローム塩を媒染剤とすれば,髄鞘が選択的に酸性フクシンまたはヘマトキシリンに染まるという彼の観察にもとづくものであるが,この方法によつて幾多の脳および脊髄疾患への究明の道が新たに開かれたのである。膠質細胞の染色法はWeigertにいわせると「悲運の子」であつた彼は1895年にこれを発表する前に7年間研究をかさねている。そしてそれを改良するのにさらに9年間を要した。Weigertは弟子のRaubitschekにしばしばいつたという「こんど発表した染色法に自分は10年もかかつたよ。だけどこいつの変法を誰かが3週間もかからずに考え出すかもしれんなあ。それでも別に驚きはしないがね……」と。AlzheimerがかつてWeigertを評して「われわれのための道具をわれわれに作つてくれる名匠」といつたのは決してまちがいではなかつたようだ。
―K. T. Neuburger
Carl WeigertはドイツSilesia地方Münstenbergの産。Breslau,Berlin,Viennaの各大学で医学を修めたが,生理のHeidenhainと解剖のWaldeyerからとくに強い感化を受けたという。1868年卒業と同時にBreslauでWaldeyerの下に助手となる。1870年から71年にかけての普仏戦争中は,現役として軍務に服し,その後Breslauの臨床医Lebertの下で働いたことがある(1871-73)。1874年Weigertの天然痘の病理に関するがつちりした論文を読んですつかり敬服したCohnheimが,Breslauの病理研究室における彼の最初の助手となつた。1878年WeigertはCohnheimとともにLeipzigに転じたが,1879年には早くもそこの病理の助教授に栄進した。1885年(そのころCohnheimはすでに他界していた)Frankfurt-am-Meinに移りSenckenbergの病理学解剖学研究所の病理部長の任についた。この「研究所」は設備の悪い古い一民家にすぎなかつたが,1900年代の初めごろはWeigertのほか他の部門の主任にはEhrlichとEdingerがいて,これら3人の大物―もの静かな思索家で努力型のWeigert,闘志溢れる元気者のEhrlich,つねに新しいアイデアを着実に実行に移していくEdinger―を擁して,ドイツの国内の他の大学に比べ決して遜色のないものであつた。
Weigertは約40年にわたる間に100篇ほどの論文を発表している。彼の最初と,そして最後の論文はどちらも神経系に関するそれである。最初のものは彼の学位論文であつて「De nervorum lesionibus telorum ictueffectis(銃創による神経の損傷について)」と題するもの,最後のそれは脊髄癆における脳病変についての論考である。彼は細菌の染色を最初に手がけた1人でもある(1871)。炎症,凝固壊死,結核のpathogenesis, Bright氏病,神経喰細胞のmorphologyおよび細胞のbiology等々に関する彼の諸研究は,われわれ後進にとつて有益な指標となるばかりでなく,彼の興味の範囲が病理学のあらゆる領野にまたがつていたことを物語る。彼は細胞の性質や機能を調べることよりも,細胞を染めることのほうに興味をもつていたなどといわれるけれども,彼を単なる染色方法の発見者にすぎないとみるのは大まちがいだ。しかし神経学において彼の名を不動のものとしたのは彼の染色法であることもまた事実である。Weigertはアニリン色素を導入したが,このことについては,彼がEhrlichのいとこであつたということは単なる偶然以上のものがあつたろうと思われる。彼はまたSchiefferdeckerによつて1882年に始められたチェロイジン包埋の方法を完成した。彼による線維素,弾力線維,髄鞘,膠質細胞などの染色法やヘマトキシリン-van Gie son染色の変法は,いまもなお各地の一般および神経病理の研究室で役だつている。髄鞘染色の手技はクローム塩を媒染剤とすれば,髄鞘が選択的に酸性フクシンまたはヘマトキシリンに染まるという彼の観察にもとづくものであるが,この方法によつて幾多の脳および脊髄疾患への究明の道が新たに開かれたのである。膠質細胞の染色法はWeigertにいわせると「悲運の子」であつた彼は1895年にこれを発表する前に7年間研究をかさねている。そしてそれを改良するのにさらに9年間を要した。Weigertは弟子のRaubitschekにしばしばいつたという「こんど発表した染色法に自分は10年もかかつたよ。だけどこいつの変法を誰かが3週間もかからずに考え出すかもしれんなあ。それでも別に驚きはしないがね……」と。AlzheimerがかつてWeigertを評して「われわれのための道具をわれわれに作つてくれる名匠」といつたのは決してまちがいではなかつたようだ。
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