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文献概要
特別企画 精神医学,医療の将来
社会精神医学の将来—「役に立つ」精神医学の創出に向けて
著者: 野田文隆12
所属機関: 1大正大学人間学部 2ブリティッシュ・コロンビア大学
ページ範囲:P.255 - P.262
文献購入ページに移動はじめに
公衆衛生学や疫学といった当初から「社会」を対象とした学問は除くとして,精神医学が医学の中で特異な位置を占めるとすれば,もとより「社会」という概念を包含して成立している医学であることであろう。今「社会内科学」,「社会外科学」という造語を持ち出してもさほど奇異に感じる医療専門家はいないと思う。移植,尊厳死,インフォームド・コンセント,生活の質,医療倫理といったテーマが盛んに議論される昨今,内科学も外科学も純系科学として「社会性」を排除しては存在できないことを誰もが知っているからである。しかし,内科学も外科学もその起源において病気の存在が社会を内包していると意識していたとは言い難い。不可思議な現象が,最終的には精神医学の扱いに回ることは日常臨床ではいまだに常套的なことである。そもそも不可思議な現象を対象とする精神医学は当初から,「社会の文脈(context)の中の病」という立場を意識せざるをえなかった。病が社会の寛容度(tolerance)によって相対化されるという現象もいやというほど見せられてきた。つまり病気という明確な実体が存在するというより,社会が,あるいは病者自身が,病を認知して初めて病となる構図が多かれ少なかれ存在してきたのである。例えば,分裂病は初めから身体的分裂病として存在するのではなく,社会的不自由さに遭遇してはじめて分裂病として認知される。一方では達者に暮らしている擬陽性,偽陰性分裂病は無数にいるはずで,精神医学の立場からはそれらをあえて掘り起こす必要もない。
このような視点は究極のcure(治癒)を目指す内科学,外科学からはかけ離れているかもしれない。しかし,Cureとcare(ケア)のはざまを行く精神医学は,もとより社会精神医学の実践であったとも言える。民族学レベルの癒しの儀式と精神医学は決して遠い距離になく,家族の研究を抜きに精神医学の実践を語ることはできず,リハビリテーションはひとつの社会学にほかならないことなど例証にいとまがない。また,内因性精神病を疾病としてきちんと体系づけたE. Kraepelinが一方では,ジャワやシンガポールで「比較精神医学」のフィールド研究を行った事実も象徴的である。
精神医学者の日常にかくも深く入り込んでいる社会精神医学的なるものの将来を語ることは難しい。それは精神医学の将来を語ることに等しいからである。しかし,一方では,生物学的精神医学,力動的精神医学と対比されて社会精神医学なる領域が確立されている。社会精神医学的なるものと社会精神医学は似て非なる部分も多い。本稿では,上述したように,精神医学は社会精神医学的なるものと不可分であることは前提として,精神医学総体の下位領域として発展してきた「社会精神医学」について私見を述べたい。それが,社会精神医学的なるものへ共鳴する議論を含んでいれば僥倖である。
公衆衛生学や疫学といった当初から「社会」を対象とした学問は除くとして,精神医学が医学の中で特異な位置を占めるとすれば,もとより「社会」という概念を包含して成立している医学であることであろう。今「社会内科学」,「社会外科学」という造語を持ち出してもさほど奇異に感じる医療専門家はいないと思う。移植,尊厳死,インフォームド・コンセント,生活の質,医療倫理といったテーマが盛んに議論される昨今,内科学も外科学も純系科学として「社会性」を排除しては存在できないことを誰もが知っているからである。しかし,内科学も外科学もその起源において病気の存在が社会を内包していると意識していたとは言い難い。不可思議な現象が,最終的には精神医学の扱いに回ることは日常臨床ではいまだに常套的なことである。そもそも不可思議な現象を対象とする精神医学は当初から,「社会の文脈(context)の中の病」という立場を意識せざるをえなかった。病が社会の寛容度(tolerance)によって相対化されるという現象もいやというほど見せられてきた。つまり病気という明確な実体が存在するというより,社会が,あるいは病者自身が,病を認知して初めて病となる構図が多かれ少なかれ存在してきたのである。例えば,分裂病は初めから身体的分裂病として存在するのではなく,社会的不自由さに遭遇してはじめて分裂病として認知される。一方では達者に暮らしている擬陽性,偽陰性分裂病は無数にいるはずで,精神医学の立場からはそれらをあえて掘り起こす必要もない。
このような視点は究極のcure(治癒)を目指す内科学,外科学からはかけ離れているかもしれない。しかし,Cureとcare(ケア)のはざまを行く精神医学は,もとより社会精神医学の実践であったとも言える。民族学レベルの癒しの儀式と精神医学は決して遠い距離になく,家族の研究を抜きに精神医学の実践を語ることはできず,リハビリテーションはひとつの社会学にほかならないことなど例証にいとまがない。また,内因性精神病を疾病としてきちんと体系づけたE. Kraepelinが一方では,ジャワやシンガポールで「比較精神医学」のフィールド研究を行った事実も象徴的である。
精神医学者の日常にかくも深く入り込んでいる社会精神医学的なるものの将来を語ることは難しい。それは精神医学の将来を語ることに等しいからである。しかし,一方では,生物学的精神医学,力動的精神医学と対比されて社会精神医学なる領域が確立されている。社会精神医学的なるものと社会精神医学は似て非なる部分も多い。本稿では,上述したように,精神医学は社会精神医学的なるものと不可分であることは前提として,精神医学総体の下位領域として発展してきた「社会精神医学」について私見を述べたい。それが,社会精神医学的なるものへ共鳴する議論を含んでいれば僥倖である。
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