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雑誌目次

論文

精神医学48巻3号

2006年03月発行

雑誌目次

巻頭言

今世紀の精神医学の使命

著者: 森則夫

ページ範囲:P.226 - P.227

 今から約30年前,私が精神科の修行を始めた頃,精神医学は生物学と精神病理学の対立の中にあった。生物学的精神医学の中で隆盛を極めていたのは精神薬理学で,現在の状況とさほど変わりはない。当時,私は抗精神病薬や抗うつ薬の薬理作用を一生懸命,頭に叩き込んだ。とは言っても,受容体の種類は薬理学的特性のみで分類され,限られた亜型しかわかっていなかった。細胞内情報伝達機構についても,cAMPやcGMPが最新の知見だった。抗精神病薬はドパミン受容体を阻害する,といった程度の知識しかなく,この薬物の本質的作用である脱分極性阻害が発見されたのはさらに後になってからである。あれから精神薬理学の知識は飛躍的に増え,分子生物学的理解が主流となった。また,細胞内情報伝達機構については,ほとんど無数とも言える分子機構の存在が明らかにされ,日々,新たな発見がある。一方の精神病理学だが,複数の流派が日本に紹介されていた。紹介元の多くはヨーロッパであった。当時の精神病理学とは,簡単には,いわば学祖の考えを理解して,その上に立って症状や症状を持つ人間を理解するものと,少なくとも私はそう考えていた。だから,基礎となる概念を丸暗記していった記憶がある。精神分析学もまだ精神医学の中で大きな地位を占めており,こちらの勉強は楽しかった。人間の精神のロマンをみるようだった。

特集 災害精神医学の10年―経験から学ぶ

災害精神医学の10年─経験から学ぶ―企画にあたって

著者: 新福尚隆

ページ範囲:P.229 - P.230

 2005年7月,編集室より災害精神医学の特集号の企画の依頼を受けて考えたことは,阪神・淡路大震災後の10年間の災害精神医学の進展を俯瞰できるような構成にしたいということであった。これは,私の個人的な経験がその動機の背景にあったことは否めない。

 1994年6月,私は13年に及ぶ世界保健機関西太平洋地域精神保健顧問の仕事を終え,神戸大学医学部国際交流センターの教授として神戸に赴任した。

日本における災害精神医学の進展―阪神・淡路大震災後の10年間をふり返って

著者: 加藤寛

ページ範囲:P.231 - P.239

はじめに─災害と精神医学

 災害後に求められる精神医学的関与は,第一に被災者を対象とした医療活動あるいは地域保健活動に参加することである。この活動では,被災者が呈する心理的反応を「異常な状況に対する正常な反応」と位置づけ,心理教育や健康管理などの予防的介入を行うことが求められる。その際,被災者のもとへアウトリーチoutreachし,精神科医療という色彩を可能な限り少なくするという基本的態度が必要である。これは,Norwoodら26)が指摘するように,日常の臨床に携わる精神科医にとっては,いくつかのパラダイムシフトが求められることを意味している。

 災害時における精神医学の第二の役割は,被災者が示す心理的反応を精神医学の枠組みの中で記載し評価することである。災害のもたらす心理的影響は,外傷後ストレス障害(posttraumatic stress disorder;PTSD)だけでなく,多彩である。その中には,突然の外傷的な喪失体験から生じる悲嘆反応や,災害後の二次的ストレスが影響する気分障害や身体化症状あるいはアルコール依存などの問題が含まれている。被災者を対象とした有効な調査研究を行うことは,症候論的課題を論じ,あるいは疫学的知見を得るためだけでなく,被災者支援の方向性と必要性を提言する上で大きな意義を持っている。

 本稿では,出発点となった阪神・淡路大震災とその後の自然災害における,精神保健活動の状況と今後の課題をまず検討する。その上で,本邦における災害後の精神医学的研究の現状についても触れたい。

自然災害

雲仙・普賢岳噴火災害被災住民の長期経過後の精神的問題

著者: 太田保之 ,   荒木憲一 ,   本田純久

ページ範囲:P.241 - P.246

はじめに

 1990年11月に噴火した雲仙・普賢岳は44人の死者を出し,最多時には人口の約1/4に当たる11,000人の被災住民に長期間の避難生活を余儀なくさせた。我々は1991年以来,避難住民への精神保健対策を継続的に行ってきた。その支援過程で,避難住民の精神医学的問題をGeneral Health Questionnaire30項目版(GHQ-30)4)を用いて,避難生活開始から6か月後(第1回調査:1991年11月),12か月後(第2回調査:1992年6月),24か月後(第3回調査:1993年6月),44か月後(第4回調査:1995年2月)の計4回にわたる調査を実施し,経時的な変化を報告してきた1,9,11)

 火砕流や火山性地震などの火山活動は次第に沈静化し,1996年6月に噴火終息宣言が出された。噴火終息後における被災住民の健康状態を経過観察するために,第5回調査(1999年11月)と第6回調査(2003年11月)が実施された。また,第6回調査においては,GHQ-30とともにImpact of Event Scale Revised(IES-R)2,16)による調査が行われた。それらの結果を踏まえて,被災住民の長期経過後における精神的健康問題に関して報告したい。

阪神・淡路大震災被災者の長期的健康被害

著者: 新福尚隆

ページ範囲:P.247 - P.254

はじめに

 阪神・淡路大震災から10年を経過し,神戸を訪れる人々は,ここが大震災を経験した場所である痕跡に気づくことは少ない。神戸市は震災後,フェニックス(不死鳥)プランをはじめとするさまざまな都市再生計画を立ち上げ,災害に関する国内,国際機関を誘致し,災害予防に関する研究,教育の拠点となっている。震災後10万人以上が流失した人口も震災前の水準に戻り,震災で大きな打撃を受けた神戸港も,2004年度の決算見込みでは震災後初めて黒字になったと発表されている(朝日新聞,2005年8月11日)。国際的に見て,阪神・淡路大震災からの復興は,奇跡に近いものだと言えるだろう。阪神・淡路大震災とその精神保健に関しては,数え切れないほどの本や論文が書かれている。大地震の後10年を経て,被災者のさまざまな健康問題,医療支援,行政の対応を振り返る優れた記録も著されている5)。また,阪神・淡路大震災の被災者への心のケアの経験は,新潟中越地震,福岡西方沖地震の被災者のケアへ生かされている。

 被災者の経験,対応は一人ひとり異なり,客観的な立場から総論的に述べることは難しい。ここでは,筆者の神戸での経験を基に,阪神・淡路大震災から10年を経て感じたこと,学んだものをまとめたい。これらの多くは,すでに幾つかの雑誌に紹介したものであることをお断りしたい。正直に言えば,本論文は,外国誌に依頼されて書いたものを邦訳したものを基にしている15~17)

新潟県中越地震における災害時精神保健医療対策

著者: 後藤雅博 ,   福島昇

ページ範囲:P.255 - P.261

はじめに

 2004年10月23日新潟県中越地方をM6.8の直下型地震が襲った。最終的に死者51名,重軽傷者4,795名,避難者約10万人,住宅損壊120,397棟 ,被害総額3兆円に上るとみられる(2005年10月14日現在新潟県発表)。震災発生直後から多方面にわたる被災者の精神保健医療対策が実施されてきているが,今回震災発生から約1年後までの間に行われた対策を概括し,その中で見えてきた課題について報告するとともに本特集のテーマに関連して若干の考察を行いたい。

2005福岡西方沖地震から6か月後

著者: 實松寛晋 ,   松本奈々子 ,   大坪みどり ,   西浦研志

ページ範囲:P.263 - P.270

はじめに

 2005年3月20日,福岡西方沖を震源とするマグニチュード7.0の地震が発生した。対応には主に福岡市があたり,地震発生当初より,当市精神保健福祉センター(以下当センター)は,災害者の精神保健の救援,対策に取り組んできた。2004年10月に発生した新潟県中越地震には,当センターより,「心のケア班」として出向いた経験を持つ職員が数名おり,その派遣経験は今回の当地被災者の救援活動にも役立った。福岡西方沖地震における,筆者らの体験を他の地域の未来の災害救援者の方々に向けて報告するのは,こうした意味があろう。本稿では,今回,地方都市,福岡市で発生した局地型災害の特徴を述べ,都市部における災害時の精神保健のあり方についても考えてみた。

人為災害

長崎原爆被害者:心理障害認定の道のり

著者: 中根允文

ページ範囲:P.273 - P.285

はじめに

 2004年12月に発生したインド洋沖地震・津波,2005年8月の米国ニューオーリンズにおけるハリケーン・カテリナ,そして同年10月のパキスタン北東部の大地震による物理的被害と犠牲者の多さは世界中の耳目を驚嘆させ,遅々として進まぬ災害復興の過程では「災害精神医学」の重要性が改めて認識された感がある。日本は,その位置や地形,地質や気象などといった自然条件からさまざまな災害が発生しやすい国土になっており,現に毎年のように自然災害によって多くの人命や財産が失われてもいる。国内的には2000(平成12)年に最終改定された災害対策基本法において,「災害とは暴風,豪雨,豪雪,洪水,高潮,地震,津波,噴火その他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害」が災害の定義として明記されたものの,心理的後遺症への支援は,こうした法律の中で具体的に盛り込まれているわけでないのも事実である。

 筆者は,永年長崎に生活していて社会精神医学の中で災害精神医学研究に取り組み,幾つかの知見からアエラムックの「精神医学がわかる」において災害精神医学の発展の重要性を一般に対してもアッピール17)していた。特に長崎は人為災害の代表である原子爆弾被爆・被災以外にも,「長崎県の災害史」14)が出版されるほどに,この約50年間に表1のように顕著な自然災害に見舞われてきている。我々は,この20年余り,原爆被爆者をはじめとして,その都度精神医学・医療的視点に立った支援を少しずつ行ってきた27,33)

 ただ,原子爆弾被爆・被災は普通の人為災害でなく,多くの市民が一度に殺傷された(あえて長崎に限ってみても被爆による直接の死者73,884人,負傷者74,909人),いわゆるジェノサイド(genocide;大量殺戮)という事態は全く非人道的であって,国家補償の対象となってきたテーマでもある5)。すでに60年を経過したとはいえ,被爆者あるいは同体験者が身体的・精神的な後遺症にいまだに悩んでいることは明らかである。当初から,心理的影響の大きさはうかがわれながらも学問的関心が寄せられることは少なく,肉親との死別などによる葛藤を表出しないでいる被爆者の有り様を「心理的締め出し」といった心理的防衛の体裁で紹介したLiftonの著書などを見るにとどまっていた12)

 長崎発信の文学作品の中で,自ら被爆者である林京子(第73回芥川賞受賞「祭りの場」,昭和50年度上半期)は見えない恐怖の語り部として,永年原爆被爆にこだわって作品を著してきており,最新の作品「希望」3)では,原爆投下時に長崎市郊外に疎開していた女学校生の貴子が母とともに,翌8月10日長崎医科大学の教授であって行方不明の父を捜しに行き,十数個の白骨の山の中で1つ離れてあった頭蓋骨を「先生の頭の形によく似ているから」と父の愛弟子に言われ,そして愛用の煙草ケースでようやく確認できたという悲惨さを表現する。さらに,貴子自身が兄のようにあるいは父のように慕ってきた医師・諒のプロポーズに対して「貴子の心は揺れ動いていた。プロポーズされた動揺ではない。結婚,の二字を見たとき脳裏に浮かんだのは,教授を探しに行った日の,研究室の光景である。焼け跡に父親の頭蓋骨を抱いて立った,自分の姿である。あれからの人生は何彼につけて,研究室の焼け跡に舞い戻る。…そのたびに爆心地の色濃い残留放射能を吸い込んだ二次的『被爆者』の貴子に引き戻されるのだ。被爆者の女の結婚は不可能と噂されて,子供が産めない,産んだにしても障害の心配がある,と不利な条件が広がっていた。…いつの間にかこれが常識になって,貴子も,自分たちは結婚不適格者なのだ,と対等な結婚を諦めていた」と頑なに拒否してしまう。やがて,諒の誠意が通じて結婚するものの,子どもを産もうとはしない。しかし,「強い貴子の語気に,九日にこだわる貴子の傷が思っている以上に深刻であること,産み出す生命との対局に,浦上の焼け跡に,大八車の車輪のように主軸に頭を向けて,放射状に積み上げられていた死があること。こだわり続けてきた禁欲日を自らの意志で解いて命を創造する,そしてそのことが,貴子自身の再生であることを,諒は知らされた。草一本生えていない浦上の野に立たれた神父さまが,神の御国をみた,とおっしゃったらしいの,お話を耳にしたときわたし許せなかった,一瞬に消されてしまった数え切れない命と浦上の街が,どうして神の御国なのか,破壊された悪意の荒野でしょう,生命を生み出せないゼロの世界なの。焼け跡に立って胸に刺ったのは,人の悪意の底深さだった。いまは少しばかり神父さまの気持ちが理解できるの,神さえ恐れない人間の悪意と不遜。万物すべてが声をなくした,マイナスにしか思考不可能な出発点の,ゼロの,神父さまは怒りを超越した透明な心でそのゼロの荒野に佇まれた。絶望の哀しみの末に辿り着く再生への慈。極限におかれた人間の苦しみをみせられてしまうと,優しくならざるを得ないのね,その人たちの苦しみをわたしが負っていくためにも,みせられてしまった苦しみから逃れるためにも,優しくなるしかないの,無垢なるものを赦せるように」と変わり,「諒の目に涙が溢れた。みたことのない九日の荒野が瞼の内に広がって,そのなかに立ちつくす貴子の姿が浮かんだ。一人で頑張ることはないんだよ,一緒に歩いていこう,心の内で貴子に語りかけて,諒は妻を強く抱いた(了)」となる。

 これを文学作品だからとして納得するだけでは済まされないであろう。いかに被爆者の苦悩が奥深く永い間漂っているかは,当事者と同様に,あるいは同程度には理解できないにしても知っておくべきである。最近発表された著書「原爆体験」2)の中には,日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協と略称)が行った「原爆被害者調査」(1985)における「心の傷」の深さが,今度は広島・長崎の数多くの被爆者による生々しい直截的な証言として,社会学者の手でまとめられていて衝撃的である。

地下鉄サリン事件被害者の心のケア

著者: 飛鳥井望

ページ範囲:P.287 - P.293

はじめに

 1994年6月27日松本サリン事件が発生し,住民7名が死亡,586名が被害を受け,そのうち56名が入院した。化学兵器としての致死性神経ガスと称されるサリン,タブン,ソマン,VXなどは,いずれも有機リン系抗コリンエステラーゼ剤の範疇に入る。致死性神経ガスは1988年にイラク軍がクルド人勢力との戦闘において使用したと報告されたのが初めてのケースである。軍事目的の使用を除けば,一般市民に致死性神経ガスが使用されたのは松本事件が世界で初めてである。

 その翌年の1995年3月20日,月曜日朝8時の通勤時間帯に,都内の営団地下鉄(当時)千代田線1編成,丸の内線と日比谷線各2編成の計3路線5編成の列車内で,ほぼ同時にサリンが散布された。散布場所は,千代田線・新御茶ノ水駅,丸の内線・御茶ノ水駅および四谷駅,日比谷線・恵比寿駅および秋葉原駅である。実行犯であるオウム真理教のメンバーは,ビニールパックに入れたサリン液を車内の床に置き,尖らせた傘の先でつついて穴をあけ,サリンガスを車内に充満させた。

 この犯行の結果,地下鉄乗客や営団地下鉄職員ならびに現場で活動した消防職員や警察官など約5,500名が278の医療機関を受診した。死者は12名,傷害者は3,795名を数えた。そのうち1,046名が98病院に入院した。死者12名のうち10名は48時間以内の死亡であった。最重傷者は車内や駅のホームで意識を喪失し倒れこみ,けいれんを生じ口から泡をふいた。あるいはそうでない者もうずくまり,咳き込み,目の異常を訴えた。現場に居合わせた多くの者が,このような騒然とした異様な光景を目撃し,それを鮮明な記憶として残している。

 地下鉄サリン事件では大部分は軽症中毒者であり,集中治療室に収容された者は20名にとどまった。被害者にみられた急性中毒症状は,多い順に縮瞳,頭痛,視界の暗さ,目の異常であった12)。致死量に至らない中毒における急性症状は,多くの者では1か月以内に消退した。もっとも多くの被害者の治療にあたった聖路加国際病院の報告14~16)によれば,事件当日に受診した640名の被害者のうち,心肺停止ないし呼吸停止の状態で搬送された者は5名(うち2名死亡),軽度から中等度の中毒症状により入院した者が110名であり,他の受診者は軽度の症状のみであり,経過観察後に戻されている。また入院者の大多数も翌日には退院となった。

 被害者全体の性別と年齢構成に関する資料として,警察庁第1回調査10)の結果では,回答者の56.9%が男性,42.3%が女性であった。年齢構成には男女で差があり,男性は20代8.6%,30代20.6%,40代26.9%,50代26.2%,60代以上16.8%であったが,女性では20代43.9%,30代31.1%,40代9.1%,50代8.0%,60代以上7.0%であった。したがって被害者全体としては,おおむね男性が6割,女性が4割であり,男性が40~50代を中心とする一方で,女性は20~30代に偏った構成をしていたと考えられる。

ガルーダ機墜落事故とえひめ丸沈没事故―輸送災害における被災者ケア

著者: 前田正治 ,   丸岡隆之 ,   前田久雄

ページ範囲:P.295 - P.302

はじめに

 昨年4月に起こったJR福知山線脱線事故は100名を越す死者を出し,沿線沿いの地域住民にまで甚大な被害が及んだ。これは,典型的な輸送災害transportation disasterの一つである。しかし古来から,一度に人が多く死傷するといった災害性の高い出来事は,戦争以外では自然災害しか例がなかった。有史以来人類の輸送手段はきわめて限られており,日常的にはせいぜい馬を利用する程度しかなく,輸送手段が災害性を帯びるとは全く考えられなかった。ところが産業革命によって蒸気機関が誕生すると,乗り物は飛躍的に発展し,客船や列車,旅客機など一度に多くの人を運搬する大型の輸送手段が登場することとなる。そして交通機関の普及とともに事故もまた頻繁に起こるようになり,一度に多くの人が死傷するような災害性の高い事故もまたそれほど珍しくはなくなった。すなわち20世紀に入って,このような輸送災害の幕が開いたといってもよい。

 ところで,輸送災害の深刻さをはじめて世に知らしめた契機となったのは,1912年4月に起こったタイタニック号沈没事故である。本事故は史上初めての輸送災害といえるが,この事故には後の輸送災害に共通する多くの特徴がみられる。その一つが,事故によって引き起こされる死亡率の高さである(同事故では乗客乗員の約7割にあたる1,517名が死亡)。さらに,元来乗り物は上流階級や職業軍人など特殊な階級の人しか利用できなかったのが,20世紀以降になって一般市民も気軽に利用できるようになった。つまり汎用化された大型輸送機関が出現したのである。そのため映画や小説にもよく表されているように,タイタニック号沈没事故でも多くの一般市民が死亡してしまった。またわが国でも,1954年に起こった青函連絡船の洞爺丸沈没事故では1,314名の乗客乗員のうち,実に1,155名が死亡するという海難事故を経験している。その後はとくに航空機が発展し,空路による大量旅客時代が訪れると,一度の事故による死傷率は海難事故や鉄道事故とは比較にならないくらい高くなる。

 ではそのような輸送災害が被災者や救助者に及ぼす心的外傷について,あるいはそのケアについて,わが国でどのような実践なり進歩があったのだろうか。わが国においては,輸送災害被災者に対する系統的な調査やケアが文献上報告されたのは,ガルーダ機墜落事故とえひめ丸沈没事故の2つである。そこで本稿では,この2つの輸送災害における被災者ケアを通して,諸外国とのそれと比較しつつ,輸送災害被災者の特徴とそのケアについて論じてみたい。そのためまず,筆者らがかかわった2つの事故それぞれの経緯を紹介し,これらの事故被災者に対するケアの特徴と異同について述べる。続いて,これらの経験から,輸送災害における被災者ケアのあるべき姿について述べてみたい。

国際的活動

神戸から埔里へ―震災後の精神保健での日本,台湾の協力

著者: 植本雅治 ,   鵜川晃 ,   川口貞親 ,   井上幸子

ページ範囲:P.305 - P.309

二つの地震

 1994年1月17日阪神・淡路大震災。神戸の精神科医師のすべては当然のことながら,災害精神医療に当たることとなった。次々と病院に運び込まれる負傷者の不安や恐怖,家族を失った人の悲しみへの対応から始まり,高揚期の躁状態,環境変化の中で顕在化する認知症,さらに時間が経つにつれ急速に増えてくる,うつ状態や,外傷後ストレス障害(以下,PTSD)。当時はすべてが全く未知の体験であり,混乱の中で情報を集めながら,試行錯誤を繰り返しながらの毎日であった5,7)

 1997年,9月21日に台湾中部に地震が発生した時,援助を申し出た神戸の精神医療の関係者にはその時の記憶が強く残り,自分たちが混乱の中で学んだことをなんとか生かせないかとの思いが強かった。しかしながら,精神医療には言葉の壁が大きく,外科や小児科医療のように被災者へ直接的な援助を行うことは難しい。できることは,経験を伝え,求めに応じ助言するぐらいであろうが,それでも少しでも役に立てればということであった。

ペルー日本大使公邸人質占拠事件の心理的影響

著者: 金吉晴 ,   笠原敏彦 ,   小西聖子

ページ範囲:P.311 - P.317

はじめに

 海外の日本人を対象とした,国外組織による人質監禁事件としては,某商社マニラ支店長の誘拐事件(1986年11月15日~翌年3月31日),ペルー日本大使公邸人質占拠事件(1996年12月17日~翌年4月22日),キルギス邦人誘拐事件(1999年8月23日~10月25日),イラク邦人人質事件(2004年4月8~15日,同年10月28~30日)が知られている。国内では,赤軍派によるハイジャック事件,西鉄バスジャック事件,あさま山荘事件,三菱銀行人質事件などが生じている。

 このうちペルー人質事件は,この種の事件の中で人質のメンタルケアに焦点が当てられ,専門家派遣が行われた初めての例である。海外の文献を読むと,誘拐,人質事件に際しては,人質ならびに犯人の心理的変化の研究は少なからずあり,人質のメンタルケアのみならず,犯人との交渉にも応用されているが,日本ではその種の文献はこの事件以前にはほとんど存在していなかった。

 本稿では,ペルー人質事件についての活動報告を通じて得られた知見について紹介する。個人が特定されないように記述は断片的なものとし,改変を加え,また途中で解放された人質,ペルー人人質の記述も織り交ぜてある。個人が特定できるおそれのある情報は記載していない。

9.11米国同時多発テロ事件と海外におけるメンタルヘルスケア

著者: 神山昭男

ページ範囲:P.319 - P.323

はじめに

 米国有数の大都市において未曾有の大被害を引き起こし,全世界に衝撃を与えた米国の同時多発テロ事件,いわゆる,「9.11(Nine Eleven)」から早くも4年の月日が経過した。

 本事件により3,000名を超える多数の人々が犠牲となり,事件発生直後から負傷者の救護,安否確認などが懸命に取り組まれたが,混乱が渦巻く中で作業は遅々として進まず,突然の大惨事への対応の困難さを世界中に認識させる結果となった。

 その後,本事件を契機として世界各地で危機管理が見直され,テロ事件や災害時を想定した対応マニュアルの策定,避難・救助手段の確保,平時における訓練の実施,警備治安対策の強化,メンタルヘルス対策を盛り込んだ救援活動が新たな世界的潮流となってきた6)

 精神医学界においては,1994年に米国精神医学会がDSM-IVに外傷後ストレス障害(PTSD)の症状と治療を掲載,これを中心とした治療戦略を国際トラウマティック・ストレス学会が2000年に公表,飛鳥井らにより2005年に和訳されるなど2),PTSDとその周辺の話題をめぐるフレームワークが徐々に形成されてきた。

 他方,世界各地の在外公館(大使館・総領事館)が対応した邦人援護件数は2004年度に16,000件を上回り,援護案件の約5%は病気に関連し,その約3割をメンタルヘルス関連問題が占めている。これには,生死にかかわるような強い衝撃を受けて発症するPTSDや他の精神疾患など,本格的なケアを必要とする事案が含まれ,在外公館における医療支援の役割が年々大きくなっている8)

 そこで,本稿では本事件の被害の中心となったニューヨーク市(以下「NY市」)における初期対応,PTSD関連の調査研究の成果,ならびに在外公館における取り組みを概括し,海外におけるメンタルヘルスケアの基本課題を論じた。

スマトラ沖地震津波―心のケアと国際支援の仕組み

著者: 秋山剛

ページ範囲:P.325 - P.330

はじめに

 スマトラ沖地震津波は,アジアの開発途上国において心のケアを行う体制が整っておらず,災害が起きた際に国際支援を行う仕組みの整備も遅れていることを浮き彫りにした。

 心のケアを行う体制は,先進国でも十分に整っているとはいえないが,開発途上国の現状には我々が想像できないほどの大きな問題点がある。これまで,先進国は自国の体制を改善するのに追われて,国際支援の仕組み作りに十分な取り組みがされてきたとは言えない。 スマトラ沖地震津波をきっかけにこれらの問題点が明確になり,現在,世界精神医学会(WPA)を中心に取り組みが進んでいる。

 本稿では,「スマトラ沖地震被災の特徴」「被災直後の支援の問題点」「支援の動き」「今後の展望」「援助のための準備」「アジアの心のケア」について述べたい。

研究と報告

思春期における自殺企図の1例―背景となった心理・社会的準備因子の認識と介入の重要性を中心に

著者: 三上克央 ,   岸泰宏 ,   松本英夫

ページ範囲:P.331 - P.338

抄録

 近年思春期における自殺者の数は決して少なくはない。このような現状にもかかわらず,わが国では思春期における自殺企図の臨床研究の報告は少ない。今回失恋を誘因とし,飛び降りによる自殺を図った18歳女性の入院治療を経験したので報告する。本症例の特徴は,自殺企図の直接的な誘因の背景に,長年にわたる自殺に至る強い心理・社会的準備因子が存在したことである。これは思春期の自殺企図の臨床では決して珍しくはないが,強い準備因子が認識されることは多くはなく,現実の臨床現場において積極的に介入される機会は少ない。思春期自殺企図の再企図予防のためには,まず精神障害の有無を慎重に判断し対処していくのが最も重要であるが,それに加えて長年にわたる強力な心理・社会的準備因子について認識し,積極的に介入していくことが臨床上必要である。

動き

「第46回日本児童青年精神医学会」印象記

著者: 齊藤万比古

ページ範囲:P.340 - P.341

 第46回日本児童青年精神医学会総会は白瀧貞昭会長のもと,2005年11月9~11日の3日間にわたって神戸国際会議場において開催された。昨今の子どもの心の医療に関する関心の高まりを反映してか,1,300名を超えて新記録だった前回総会に匹敵する参加者が集い,最後の発表まで活発な議論が続いた総会であった。内容も盛りだくさんであり,プログラムのすべてを見聞きするのは到底無理であったため,筆者の目にした部分を中心に今総会の印象をまとめてみたい。

 まず一般演題の内容に関しては,この何回かの傾向を引き継いで発達障害,特に広汎性発達障害(PDD)と注意欠陥多動性障害(ADHD)に関するものが半数を大きく超えていることが何よりも印象的であった。私が所属する国立精神・神経センター国府台病院の児童精神科新患統計で発達障害が2年前から全体の50%を超えたことからも,このような傾向は当然予測していたところではあった。しかし,実際にポスター発表や一般口演の会場での発達障害関連課題の占有率を目の当たりにすると軽い衝撃さえ覚えた。そういえば,2004年8月にベルリンで開催された世界児童青年精神医学会議では一般演題であるポスター発表はもとより,シンポジウムやワークショップに至るまで発達障害関連課題がずらりと並んでおり,中でもADHD関連課題の数の多さが際立ったため,どこか企業のマーケッティング戦略に巻き込まれすぎているのではないかといった違和感を禁じ得なかったことが思い出される。もちろんわが国においてそれは全く杞憂であって,わが国の臨床家はこのあたりのバランス感覚を失わずにやっていける中庸さを持っているはずだと信じたいが,やはり隆盛を誇る今こそ,発達障害の臨床が目指すところをきちんと提示できる基礎研究や,発達障害児・者とそのサポーターたちが少しでも生きる喜びを多く得られるような治療成果を上げるための臨床研究を地道に続けていく姿勢をとりわけ意識しなければならないのではないだろうか。

書評

ストレスと心の健康―新しいうつ病の科学

著者: 加藤忠史

ページ範囲:P.343 - P.343

 モノアミン仮説一辺倒だったうつ病研究は,この10年間に劇的な変貌を遂げた。そのため,旧来の教科書では説明不足な点が多々生じていたが,かといって良い教科書もない状況であった。そんな中本書は,この10年のうつ病研究の進歩をすべて取り入れ,これらを統合しようとした,大変意欲的な教科書である。

 その第一の特徴は,抗うつ薬の作用機序とそれにまつわるモノアミン仮説から説きおこすことをせず,遺伝学,ストレスの影響,養育の問題,視床下部-下垂体-副腎皮質系の変化,と語っていき,かなり後になって初めてモノアミンが登場する点である。うつ病という疾患を語る際に,遺伝的危険因子,環境の危険因子であるストレスや養育の問題などについてまず語り,後になってから薬剤の作用機序について語るというのは,当たり前といえば当たり前であるが,逆にこれまでのうつ病の見方が偏っていたことを示すといってよいかもしれない。もしもそれが,著者の指摘するように,抗うつ薬開発戦略におけるコストベネフィット分析の影響を受けた偏った見方であったとしたら,我々精神医学者の見方も製薬会社の影響を潜在的に受けていたということかもしれない。

うつ病論の現在―精緻な臨床をめざして

著者: 大森健一

ページ範囲:P.344 - P.344

 私が精神科医になった1960年代は躁うつ病に対する臨床精神医学的,精神病理学的研究も,テレンバッハのメランコリー親和型に触発された病前性格論,あるいは発病状況論や疾病構造論などで結構盛んであった。森山公夫先生,笠原嘉先生,木村敏先生などの論文に大いに刺激を受けたものである。

 その後躁うつ病に対する神経伝達をめぐる研究が盛んになった。ある先輩に「精神病理をやっている君には悪いけど,うつ病はわかっちゃったよ」とからかわれたのを記憶している。その後1970年代の後半から,当時の華やかな精神分裂病論を意識する一方で,このような生物学的精神医学界の動向を背景に「躁うつ病の精神病理」シリーズが計5巻,1987年まで刊行されたが,その後は途絶えてしまった。

精神科医からのメッセージ―トラウマと未来―精神医学における心的因果性

著者: 十川幸司

ページ範囲:P.345 - P.345

 『トラウマと未来』という魅力的なタイトルが付けられた本書で,著者の関心が向けられるのは,過去でも未来でもなく徹底して現在というものに対してである。本書が扱っているテーマは,トラウマの臨床から心脳問題,現代のうつ病像の変化から情動の倫理性などと幅広い。この論評では,枚数の制限上,評者が最も重要と考える本書の根本的なモチーフだけを取り出してみたい。

 我々の臨床の現場が,この20年の間に大きく変化したことは,精神科医の間の共通した認識となっている。なるほど80年代までの臨床の変化は,向精神薬の発展という科学的進歩に基づくものと一応考えることができる。だがその後も精神科医療は,大した技術的・制度的刷新がないにもかかわらず変化し続けた。この現象をどう考えればいいだろうか。一つには精神科医療の守備範囲の拡大といった社会的事情や,DSMという多くの精神科医が侮っていた分類体系が,現場の臨床のみならず,現実の臨床像をも変えてしまったという,分類的知が持つ「現実構成的」な力をその要因と考えることもできる。しかしこのような水準の議論では現在の状況の本質をとらえることはできないだろう。そこで著者が立ち向かうのは近代(モダン)とは何かという巨大な問いである。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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