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雑誌目次

論文

精神医学5巻2号

1963年02月発行

雑誌目次

特集 病識〔精神病理懇話会講演および討議〕

病識

著者: 懸田克躬

ページ範囲:P.95 - P.95

 われわれが日常の臨床的な活動のさなかにおいて,たえず,しかも,気軽に使用しながら,さてふりかえつてこれをまともにとりあげてみると,非常に重大な問題を中につつんでいることばがあるものである。「病識」という言葉は,そのようなもののひとつであると思う。
 病識の問題は疾病に関する知識の問題ともとれるが,同時にある意味では疾病を媒介とする深刻な自覚の問題もあるなどいろいろの問題,考えようによつては,深淵をのぞかせるような底の問題であつて,単にことばの定義を厳密にしてみるということだけでは片づかないものがある。むしろ,概念規定が不明確なのに,そのように定義なしに,しかもある漠然たる理解のもとに用いられているという事態が重要な「あるもの」を暗示しているということさえいえる。最近,PickやMayer-Gross以来のこの病識の問題が,また,ときどきいろいろな見地からとりあげられはじめていることは精神医学的人間像が,再びかえりみられはじめていることとあわせ考えて,意味のあることだと思う。大分前にわたしは,自己を映し一映される関係の障害としての病識を考えたことがあつたが,この懇談会において,病識が,現象学的に,また,精神分析学的見地に,または脳病理の立場からと,それぞれ異なる立場から4人の講師によつて論ぜられることは興味ぶかいものだと感じている。もちろん,問題は提示されたままで解かれたとは思わないが,それは当然といえば当然のことでもある。

(1)精神分裂病の<病識>に関する一つのアプローチ

著者: 島崎敏樹 ,   阿部忠夫

ページ範囲:P.97 - P.103

 われわれは「病識」ということばを精神医学の臨床で日常たやすく使いならしている。特に精神分裂病において,病識の如何が常に問題にされる。分裂病において,寛解またはこれに準ずる状態の時期を「静態期」と名づけ,われわれはこの静態期における病識について考えたいと思う。ところで,病識とはなにか,どういう場合に病識があるといい,どういう場合にないというのかと考えると当惑してしまう。わかつているものがわかつていないという状況にある。
 そこでまず,「病識」ということばが従来どのように使われていたかを辿りながら,語義を明らかにしたい。Kraepelinは「経過した疾患を病的なものとみる病識は,回復への重要な兆候である」と述べ,病者が病識をもちうると認めているように思われるが,病識の定義づけはごく単純簡略である。ところがE. Bleulerは分裂病経過者について「これらGeheilteでは病識が十分でなく,ある種の妄想めいた現実ばなれした立場を保持している」「分裂病性妄想の完全な訂正を確認することはほとんど不可能だ」といい,M. Müllerは「病識をもつた治癒は極めて稀で,経過した分裂病性Schubに対する真に客観的な態度は,診断に疑義を抱かせる」とまで極言している。

―DISCUSSION―<付>討論および追加討論(1)

ページ範囲:P.104 - P.104

1.特集(1)に対する討論および追加討論
 荻野項一(南山大学) Mayer-Grossの分類によるBekehrungとEinschmelzungは,演者の分類のどれに入るか。
 阿部忠夫 アプローチの方法に差違があり,どの分類がどのタイプに対応すると一概にいえないが,Bekehrungはほぼ<第2の人生>の一つに該当するかと考える。またEinschmelzungは,ほぼ<Episode>に近いのではないかと思う。

(2)精神分裂病群と神経症の病識について

著者: 石川清

ページ範囲:P.105 - P.110

 病識(Krankheitseinsicht)***はわれわれ精神科医にとつて,日常の臨床の場で欠くことのできない術語である。一般に,「病識がない」ことは内因性精神病を診断する一つの大きな標尺とされており,逆に「病識がある」場合には,内因性精神病(なかんづく精神分裂病)以外の疾患を考えるように習慣づけられている。また「病識があつ」て,しかもいくつかの分裂病症状が認められるときには,いわゆる非定型群を疑いたくなる。
 このように「病識」の有無は,診断のためにかなり大きな役割を果している。

(3)病識の精神力動

著者: 西園昌久

ページ範囲:P.111 - P.119

 I.
 Jaspers4)は患者の疾病体験に対しての理想的に<正しい>構えを病識Krankheitseinsichtとよんでいます。具体的には<病いである感じ,変化したという感じ>のあらわれである疾病意識Krankheitsbewusstseinが症状に対しても,病い全体に対しても,客観的に正しい程度にまで存在するとき病識があるといわれるのであります。わたくしどもは日常臨床で,病識を病いの存在に対する自覚という意味で考えているように思われます。病いの存在に対する自覚をかくということは,自己の状態に対する見当識をなくすことであり,そのような人間存在の基本的な判断のあやまりは人格のはなはだしい歪みなしにはおこらないものであります。すなわち,病識欠如を精神病とし,病識出現を精神病の寛解とする,わたくしどもの日常臨床における診断の根拠は病識,すなわち病いの存在に対する自覚が精神の健康を象徴するものであるという考えにもとづいているものであります。
 ところで,精神分析の著書のなかで,Krankheitseinsichtというコトバそのものを発見することは困難であります。それに相当するのは,Insight into mental condition精神状態に対する洞察でありましよう。このInsight into mental conditionは精神分析が治療のプラクシスで重視する洞察の一部であります。精神分析では洞察というコトバは患者が自分が病いであることを知り,その病いの性質を知り,それをおこすにいたつた特別の力動を知るという意味で使われます。その際の洞察は知的洞察intellectual insightとか,verbal insightコトバでの洞察とか,第三者の洞察とかといわれるような,ただ単に表面的な,意識的な理解ではありません。情緒的洞察emotional insightとも,心理的洞察psychological insightともいわれる患者の意識野をこえた彼の人格の力動構造の変化をもともなう種類のものであります。

―DISCUSSION―<付>討論および追加討論(2)

ページ範囲:P.120 - P.121

2.特集(2)に対する討議
 小此木 石川氏のいわれる「病識とは,全人格的反省に通ずる」という意味は,西園氏のいわれた「病識は,洞察の一形式である」との見解と一致すると理解してよろしいのでしようか。
 石川 私は神精分析でいう洞察はわれわれの病識に,概念としては非常に近いと思う。しかし洞察の理論的背景や,実際の治療場面でそれを導出する方法は,われわれの病識の場合とは大いに異なつている。そのためか,個々の症例報告のなかで,分析医が「洞察」とよんでいる事態は,われわれからみれば部分的病識とみなすべき場合が多い。

(4)「疾病失認」(または疾病否認)について

著者: 大橋博司

ページ範囲:P.123 - P.130

Ⅰ.
 「病識」の問題に関して臨床脳病理学の見地かち発言を命ぜられたのでanosognosieを中心に述べようと思う。
 “anosognosie”というのはいうまでもなくBabinskiの命名によるものであるが,この用語がはたして適切なものであつたか否か問題があろう。これを字義通り解すれば「疾病」nososの「失認」agnosiaであるが,Babinskiがこの述語を片麻痺の否認の意味に用いたことは周知の事実である。その後,広義にはいわゆるAnton症状にもこの述語が用いられるようになつたが,要するに否認の対象となる疾患は粗大な身体的機能欠損に限られ,またこの際の病識の欠如がいわゆる「失認」といえるものか否か。もちろん,失認の定義如何にもよるが,通常失認とは一定の感覚路を通じての認知障害であり,その感覚路の異なるにつれて視覚失認,触覚失認,聴覚失認などに分けられる。しかし自己の疾病を知覚するのは一体いかなる知覚路によるのであろうか。anosognosieは単に知覚の解体ではありえず,通常の失認とは次元を異にした障害といわざるをえない。このためdenial of illnessとかunawareness of physical disabilityなどと呼ぶ人もある。日本語でも以前から「失病認」,「失病識」,「疾病失認」などの訳語があるが,むしろ「疾病否認」と呼ぶのが妥当かも知れない。

研究と報告

病識の在り方と把え方について

著者: 梶谷哲男

ページ範囲:P.131 - P.136

Ⅰ.
 病識は,18世紀Sauvagesによつて疾病型を決める規準として用いられて以来,臨床的にしばしば用いられてきた概念である。しかし,その概念規定に瞹眛なところがあり,とくにわが国ではその把え方に問題があつた。
 病識は,ドイツ語の原語Krankheitseinsichtから分るように,もともとは疾病に対する洞察という意味である。つまり,自己の状態が疾病と呼ぶべき状態,ことに精神病と呼ぶべき状態を自認しているかどうかが問われる概念である。ところが,われわれが日常遭遇する患者において,疾病学的知識を必要とするこのような問いに対し,正確な答えを期待することは困難なようである。かなりの知識人でも,内因性の精神病がどんなものであるかを正確に知つている人は少ない。そこで,寛解状態に達したとみられる患者からも,医師が期待するような病識が得られず,失望させられることが多い。この場合,病識は,疾病に対する知識の有無によつてかなり影響され,合せて判断という知的要素が混入している。しかし,このように病識において知的要素を重視すると,臨床上しばしばあやまちを犯すことになる。私は,ある機会に患者同志が,「あの先生に自分の病気のことをきかれたら,素直に,『病気でした』といわないと退院させてくれない」という意味のことを話合つているのをきいたことがある。事実,知能,学識の高い場合,身うちに精神病者があつた場合,あるいは病院ずれをした慢性患者の場合,見かけばかりの病識によつて惑わされることがある.これは,病識を知的要素に限るために起つてくる混乱である。

脳内細動脈狭窄による多発性脳軟化の1例

著者: 柴田收一 ,   広瀬憲三 ,   斎藤秀子 ,   梶田昭 ,   魯景蘭

ページ範囲:P.141 - P.147

I.緒言
 われわれは51歳8カ月で発病し,4年有余の経過ののち死亡した標題のごとき1症例を経験した。本例は初期に精神分裂病あるいは進行麻痺を疑われつつ興味ある症状変遷を示した。これを病理解剖学的所見に照らし考察することは臨床精神医学上有意義と思われるので報告するしだいである。

Cyanamideの使用について

著者: 植山喬 ,   有安孝義 ,   岩崎功三

ページ範囲:P.149 - P.154

I.緒言
 酒精中毒者の治療剤としてDisulframが一般的に用いられているが,Disulframは種々の不快な副作用を伴なうのでこの点を検討して1956年Fergusonが他のCarbimideの誘導体の使用を主張し,Armstrong,Kerr,BellはCitrated CalciumCarbimide(TemposilまたはDipsan)の使用を推奨し,1960年向笠はCyanamideによる節酒療法をその臨床経験から述べている。このCyanamide(以下Cy. と略称)の抗酒作用はDisulframと同じくAlcoholの酸化過程をAcetaldehydの段階で障碍するが,そのAlcohol反応はDisulframのそれに比して著しく緩和であるとされている。その後Cy. を用いて岡本らはその50mg以上の頓用で断酒的効果があるとし,また米倉らは2週間連続投与後の飲酒試験でその断酒剤的効果を認めているが,その節酒剤的効果はなお検討を要するとしている。
 われわれは今回吉富製薬からCy. の1%の水溶液の提供をうけたのでその1回投与によるAlcohol反応を検討した結果,多少の知見を得たのでその成績を発表する。

Thioproperazineの間歇投与法について—精神分裂病に対する臨床治験

著者: 鈴木謙次 ,   田村喜三郎 ,   川添勇 ,   鈴木恵晴 ,   延島信也

ページ範囲:P.157 - P.163

I.緒言
 近年,多くの向精神薬が発見され実用に供され,精神科領域における治療方法に大きな変革をもたらしたことは周知の事実である。しかしながら,従来はこれら薬剤を大量衝撃的に用いる場合にも,維持量を持続的に投与する場合にも,その投薬にあたつては,1日量を2〜4回に分割して毎日服薬せしめる方法がとられていた。
 この方法は,薬剤の血中濃度をできうる限り一定にし,その効果の恒常性を目的とするという意味では合理的であるが,一面,多くの患者を収容している精神病院においては,服薬せしめることが看護者の日課の大きな部分を占め,症状の観察や生活指導などに必要な時間の多くを犠牲にせざるを得なくなつていた。その上,大部分の向精神薬は,投薬中倦怠感,ねむけ,錐体外路症状などの副作用を多少なりとも伴なうため,極く少量の維持量を使用している場合を除いては,服薬期間中,作業療法・遊戯療法などを含む精神療法の併用はほとんど不可能であつて,これも大きな欠点となつていた。

Perphenazine大量療法のこころみ

著者: 大熊文男 ,   後藤彰夫

ページ範囲:P.165 - P.170

I.緒言
 Chlorpromazine,Reserpineが精神科領域に導入されて以来,精神疾患に対する薬物療法はいちじるしい普及発達を遂げつつある。しかし,われわれ臨床医家はそれらの薬物を十分使いこなしているとはいいがたいのが現状であろう。1つには相つぐ精神薬物の登場に応接のいとまがないということもあるが,他方,保険診療の治療指針による制限がとくに最近まで薬物療法における新しいこころみや改良を経済的,心理的に妨げていることは否定できない。一般にわれわれは薬物療法にあたつては治療指針の枠内で投与をこころみ,それで効果を認めない場合は他剤に切換えるか,あるいは衝撃療法など別の治療に移すのがふつうである。ところが,欧米における薬物療法の現況はわが国のそれと異なり,文献によるとかなり大胆に薬物の大量かつ長期投与がこころみられており,相当な効果をあげているようである。たとえば,ChlorpromazineについてはKinross Wrightの報告があり,またPerphenazineにおいては,Weissら7)は363名の精神病患者に対するTrilafon療法のこころみにおいてそのうちの2.7%の患者に96〜320mg/日を投与してみている。Ayd1),も少数の患者ではTrilafonの200mg/日投与が必要であつたとのべ,症例報告において最大150mg/日投与により症状の消失をみた緊張病の1例を報告している。さらに,Larsonら4)にいたつては最大量384mg/日から768mg/日の大量療法をこころみている。これは彼我の人種的体格の相違を考慮しても驚くべき大量投与である。すでにわが国においても,Chlorpromazineの大量療法についてのこころみは井上ら2),伊藤ら3)の報告があるが,Perphenazineの大量療法についてはその報告をみない。
 一般にわれわれが薬剤の大量療法を考える場合その本質について十分な考察をはらう必要があるように思われる。大量を用いる場合,その効果は単に普通量の場合の量的な増大であると簡単に考えてよいものであろうか。この場合質的に異なる効果がえられることはないであろうか。普通量の場合に効果の異なる2つの薬剤をそれぞれ大量投与したさいそれらの効果の相違はどうであろうか。たとえば,普通量のPerphenazineがChlorpromazineに比較してeuphorantな作用を有し,意欲面の活発化能動化をもたらすことの多いことは従来より報告されているところであるが5)6),Perphenazineを大量投与した場合,Chlorpromazineに比してこれらの点で区別すべき効果がえられるであろうか。これらの諸問題は最近注目されてきた併用療法とともに薬剤の作用機序の究明上きわめて重要な問題点であるので,われわれは今回の報告にあたつてもこの点にとくに注意をはらつたつもりである。

紹介

—Heinz Häfner—Psychopathen—Daseinsanalytische Untersuchungen zur Struktur und Verlaufsgestalt von Psychopathen

著者: 島崎敏樹 ,   小田晋

ページ範囲:P.173 - P.177

 Kisker, K. P. やTellenbach, H. らとならんでハイデルベルク学派の精鋭であるHäfner, H. は,現存在分析の立場から精神病質者の研究に取り組んでいたようで,その一部はすでにConfinia psychiatricaなどにも発表されていたが,本書は,その一応の概括であつて,序文でBinswanger, L. ものべているように,「現象学的=現存在分析的精神医学のまだ浅い歴史のなかで,非精神病の領域に対するはじめての体系的な研究として新分野を拓いたもの」である。
 Binswangerが序文を書いていることからも察せられるように,著者の立場は,Heidegger, M. の現存在分析論の立場によつてささえられているが,それは,病者の幼時から成年にいたるそれぞれの生活世界の現象学的解釈を行ない,今日までの現象学的経過像を描き出すかぎりで,後期Husserl, E. の意味での現象学的な性質もつよくもつている。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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