新しい抗うつ剤β-Piperonylisopropylhydrazine(Safrazine)のうつ病像に対する臨床使用経験
著者:
金子仁郎
,
谷向弘
,
西沼啓次
,
西村健
ページ範囲:P.547 - P.558
I.はじめに
Chlorpromazine,Reserpineの出現により,精神疾患を薬物によつて治療しうるとの期待がもたれるようになつて以来,精神科治療領域にはおびただしい種類の薬剤が登場し,いまや精神疾患治療の主座は薬物療法によつて占められているといつても過言ではない。これらの薬物のうちにはたしかに精神症状を動かしうるものがあり,このような薬物の作用機序が解明されれば,精神現象の基礎となる中枢神経系の活動が生化学的なレベルで理解できるようになるであろうと期待せられる。このような観点から,著者らは精神薬理学にとくに関心をはらつているが,この意味では抗うつ剤に属するモノアミン酸化酵素(MAO)阻害剤はもつとも興味ある物質の1つであろう。
Brodieら1)によれば,MAO阻害剤は脳のMAOを阻害してアミンの破壊を防ぎ,神経伝達物質に擬せられているこれら芳香族モノアミンの脳内含量の増加をきたさしめることによつて抗うつ的にはたらくのであるという。この仮設は精神現象を脳内に生理的に存在する物質の含量の変動によつて説明しようとするものではなはだ興味深いが,その根拠となつているものは大量のMAO阻害剤を投与した急性ないし亜急性の動物実験の成績2)3)である。しかるに,われわれが臨床上うつ病像を呈する患者を治療するさいに使用するMAO阻害剤の量は,動物実験に用いるものよりもはるかに少量であり,かつうつ病像の改善は薬剤の連続投与1〜2週間後に初めて発現するのである。したがつて従来のような大量の薬剤を用いた急性の動物実験の成績を臨床効果の薬理機序と結びつけるには,なお橋渡しとなるべき実験が必要であろう。著者らはこころみに抗うつ剤として使用されている種々のMAO阻害剤の臨床使用量に相当する少量を1回だけ動物に投与してみたところ,いずれの薬剤によつても脳MAO活性にはまつたく阻害がみられず,肝MAOにおいてさえ臨床使用量の多いIproniazidをのぞいてはまつたく影響が認められなかつたのである4)5)。そこで著者らは臨床使用相当量での慢性投与実験の必要性を感じ,種々のHydrazine誘導体について検討した結果,1回投与ではin vivoで阻害作用を発揮しないような少量でも,慢性投与後には明らかに組織MAOを阻害すること,このさい組織MAO附害の程度は薬剤ごとに,あるいは組織ごとに異なつており,末梢組織での酵素阻害度と臨床上の副作用発現頻度との問にはある程度の相関関係があることを見出した4)5)。
MAO阻害剤が抗うつ作用を有することはこんにち広く承認されているが,一部に副作用として重篤な肝障害をおこす場合のあることが知られたため6)7)8)9)10),その臨床使用に危惧がいだかれている。著者らは上述の基礎的研究の成績から,脳MAOを強く阻害し,脳以外の末梢組織への影響の少ないMAO阻害剤を求めれば副作用の少ない抗うつ剤がえられるのではなかろうかと考え,脳に親和性の強いHydrazine誘導体の発見につとめた結果,β-Piperonylisopropylhydrazine(Safrazine,以下β-PIPHと略す)なる構造に到達し4)5),小野薬品工業の協力をえてその合成に成功した。この物質について基礎的ならびに臨床的に検討を加えた結果,本物質は肝障害をおこすおそれの少ない抗うつ剤として臨床使用に耐えることが判明した。
β-PIPHの薬理生化学的特性に関する基礎的研究の詳細は別に発表4)5)の予定であるから,ここにはごく簡単にふれるにとどめ,本論文では主として臨床使用経験を中心に本剤の抗うつ剤としての評価についてのべる。