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雑誌目次

論文

精神医学50巻1号

2008年01月発行

雑誌目次

巻頭言

時代と地域と個性

著者: 岡田元宏

ページ範囲:P.4 - P.5

 私が精神医学にかかわり始めた20年ほど前には,教室内の症例カンファレンスで,現在症・生活歴・治療経過を含めた全経過からいかに合理的な診断を導くかに努力が注がれていたと思います。研修医だった私は,診断的解釈が異なると,治療法選択や予後に関しても論点の開きがさらに大きくなり,議論を進めることが困難となるために,診断に関する議論が白熱することは当然と考えていました。しかし,この議論に伝統的診断と操作的診断のイデオロギーの違いが加わると,議論が平行線となり,研修医として最も知りたかった,「今,苦慮している事項へのアドバイス・コンセンサス」が得られず落胆したことも珍しくなかったと思います。ところがおもしろいことに,その後のスーパーバイズの中で,カンファレンスでは自己の主張を曲げなかった指導医が,しばらくすると他のスタッフの意見を取り入れ,打開策を示してくれたことも多々あり,指導医との手探り的な耳学問が,今では懐かしく思えます。

 私は学生時代から慣れ親しんできた津軽を離れ,三重県で第二の精神科医人生を歩み始め,1年になろうとしています。津軽と三重の社会通念・文化的特性の違いは予想以上に大きく,とまどいが続いてはいますが,徐々に理解できてきていると感じています。精神医学に関しても,操作的診断という共通言語によって三重大学スタッフとのコミュニケーションも得られていると思います。しかし,精神障害の地域性を操作的診断学で解釈することは予想以上に難しく,無力感さえ感じてきています。

特集 精神医学的コミュニケーションとは何か―精神科専門医を目指す人のために

いまなぜ「精神医学的コミュニケーション」なのか?

著者: 飯森眞喜雄

ページ範囲:P.7 - P.9

 「右手にDSM,左手にアルゴリズム,これで精神科医も万全だ。ところで,患者にどう声をかけたらいいのか…さて困った…」とは,アメリカの高名な精神科医のつぶやきであるという。この20年ほどの間に精神医学・医療は大きく変化した。そのひとつは,伝統的診断がDSMの操作的診断基準の席捲によって道路脇に押しやられたり,Praecoxgefühlのように「わけのわからないものは不要」と土手から突き落とされてしまったことであろう。それと,精神薬理学の進歩や生物学的知見の増大によって病因が「精神」から「脳」に移ったこと,臨床における精神科医の役割が治療者からマネージャーに変質したこと(薬の処方と検査の指示はするが,それ以外のことはそれぞれのセクションの専門職に振るというマネジメントの役割)であろうか。

 伝統的診断においては,先達の,とりわけ日本ではドイツやフランスの大家の著作を紐解き,症例や症状の詳細な記述――考え抜かれ吟味された言葉の数々を参照しながら,自分の患者の来歴,言表,表情,所作,振る舞い,行動,さらには創作物にまで目を配りながら,患者を丸ごと把握するように努めてきた。観察し記述することを心がけ,それを自分自身の経験とコモンセンス(共人間的感覚)とに照らし合わせ,疾病観や患者観を作り上げてきたわけである。こうしたことは,精神医学では科学的態度であるばかりでなく,患者の内的世界の機微を探り,それを全一的に理解しようという努力の営みである。それがあってはじめて薬の効き方や長所・短所も会得できた。そこには,症状の断片を「ある」「なし」で判断して次に進むアルゴリズムとは異なる道程があった。

日常臨床におけるコミュニケーションを考える

著者: 青木省三

ページ範囲:P.11 - P.18

はじめに

 古くより「以心伝心」「阿吽の呼吸」などという言葉が用いられてきたように,わが国は非言語的なコミュニケーションが豊かな国である。それと同時に,「口数が少ない」が美徳であったように,言語的コミュニケーションは軽視されてきたきらいがある。礼儀作法やしきたりや上下関係などの規範や文化が明確な時代では,言葉のコミュニケーションは少なくても,だいたいの共通理解を得ることができたのであろう。しかし,社会の規範や文化が多様で曖昧になるともに,非言語的なものを主体とするコミュニケーションは誤解を生じやすいものとなり,正確なコミュニケーションを行うために,言葉がより重要になってきたのである。

 そもそも日常生活におけるコミュニケーションというものは,実際には,それほど正確なものではない。曖昧な共通理解というところが普通で,お互いにわかり合っているかのように誤解しているというほうが正確かもしれない。たとえわかり合っていなくとも,どちらかが我慢したり,歩み寄ったりすればわかり合っているように見えるし,多少の誤解はすぐに埋め合わせることもできる。その一方で,お互いにわかり合っているという人間関係に潜む思い違いが,ある出来事をきっかけに顕在化することも,しばしば経験することである。以上に述べたように,日常の人間関係においては,あまり意識しなくとも,ある程度の共通理解が成立していると言えるかもしれない。それは,言葉の背景の規範や文化に共有されているものが多いからであると考えられる。

 そうは言っても,日常生活の感覚で精神科臨床を行っていると,思わぬ誤解が生ずることが少なくない。それは,治療者と患者・家族との間で交わされる言葉に内包されている意味が,大きく異なることが多いからだと思う。それにはいくつかの理由があるだろう。

精神医学診断とコミュニケーション

著者: 滝川一廣

ページ範囲:P.19 - P.24

はじめに

 医療において患者や家族とのコミュニケーションの必要を否定する者はいないだろう。たとえば増加する医療訴訟の背景には,技量不足や業務過多,専門性の高度化(細分化)がその反面でもたらす視野の狭まりなどによる「医療過誤」も無視できぬとしても,医療者-患者・家族間のコミュニケーションの不備が大きな要因として潜んでいよう。インフォームドコンセントの重視はこれを減らす努力のひとつであろう。こうした問題の裏には医学が必ずしも医療者-患者・家族間のコミュニケーションに意を尽くしてこなかった経緯があろうかと思われる。

 医学領域のなかでも精神医学ではコミュニケーションの持つ意味がとりわけ大きい。それが本稿のテーマである。精神医学とは「コミュニケーションの医学」だといって過言ではないほど,コミュニケーションは精神医学の基底をなしている。精神医学におけるコミュニケーションといえば「精神療法」とか「カウンセリング」が頭に浮かぶけれど,それはむしろ枝葉と言いたいほど基底は深い。身体医学と対比するとわかりやすいかもしれない。診断を中心にコミュニケショーンについて考えてみたい。

臨床的コミュニケーションを考える―精神分析の立場から

著者: 藤山直樹

ページ範囲:P.25 - P.32

はじめに

 精神分析は,現在の日本の精神科医の頭のなかでは,ほとんどぴんとこないものになっている可能性がある。私が日々行っているような,本来の形での精神分析実践,すなわち自費設定の個人開業で週数回の定期的セッションを持つプラクティスとしての精神分析は,ほとんどの読者の想像を超えているのかもしれない。カウチに患者を横たわらせて自由連想を課し,1時間弱の時間を患者と過ごすことを週に何度も何年もの間繰り返して,その患者のあり方の本質的な変化をもたらそうとするこの仕事を,ある意味時代に取り残された実践だと考える向きもあるだろう。過去においては,精神医学は力動的精神医学という形で精神分析が生み出した発想を取り込んできたのだが,昨今の日本の精神医療の現状を見ると,今や限られた地域や場所でしか,そうしたものに出会えなくなっていることも否めない。

 ただ,精神分析は,2人の人間の関係のなかで起きることを徹底的に突き詰める実践であるという意味で,精神科臨床にとって本質的な知を供給できる可能性がある。それが,そうした実践をしながら精神科臨床も30年間実践してきた,私の実感である。

 精神分析は,心的な苦しみを抱えた個人が専門家と対するときに生じる独特の関係性の取り扱いにその仕事の中心を置いてきた。転移,退行,抵抗といった概念でそうした関係性は記述されてきたのだが,そこにあるのは端的にいえば1つの間主体的な「できごと」である2)。そうしたできごとのなかで,長い時間をかけて患者のこころに変化が生じる。コミュニケーションはそうしたできごとの主要な側面の1つである。そこに起きるできごとは誰かが誰かに何かを伝えようとしているコミュニケーションとして理解することも可能なのである。

認知療法の立場から

著者: 大野裕

ページ範囲:P.35 - P.40

はじめに

 精神医学的コミュニケーションについて認知療法1,2)の立場から論じるが,本稿で書くコミュニケーションのあり方は,必ずしも認知療法に限ったことではなく,精神医学的コミュニケーション一般に共通するものであると考えている。それは,認知療法が特別なアプローチではなく,あくまでも常識的なかかわりを重視するためである。それはまた,患者の気持ちに共感しながら,患者が主体的に自分の認知や行動に目を向け,その適応的な部分を修正して,問題に対処していく力を引き出し,伸ばすことを目的とするものである。このような基本的な姿勢があるからこそ,認知療法は種々の精神疾患に効果的であることが実証されている4)のだと考えることができる。

 私たち精神科医は,情緒的な苦しみを感じている人を治療の対象とするが,情緒それ自体を操作して苦しみを軽減することはできない。そのために,認知療法では,認知を通して情緒に働きかける。したがって,そのアプローチは特殊なものではなく,一般の精神医学的面接で活用可能なものであると,私は考えている。そうした理解に基づいて,以下に認知療法的なコミュニケーションについて概説することにしたい。

精神医学的コミュニケーションとは何か―特に統合失調症の精神療法において

著者: 山中康裕

ページ範囲:P.43 - P.47

はじめに

 2005年度から研修医にとって精神医学が必修となった。たまたま,25年もかかわっているある病院長から,その指導の一環として,統合失調症の精神療法を担当するように言われてもう3年になる。そこへ今度は,飯森眞喜雄教授から表題の論文を書けとのお達し。精神科専門医を目指す人のための指針を特集したい,とのことである。筆者が今までしてきたことの整理をしながら,執筆にかかる。

ダブルバインドの起源―統合失調症のコミュニケーション試論

著者: 内海健

ページ範囲:P.49 - P.63

はじめに

 初診の患者を迎え入れるとき,筆者はいまだにレイマンのような緊張を強いられる。それを少し緩めるように努め,ほどよいレベルに保つことができると,最初の出会いは,治療にとって特権的なものとなる。とりわけ統合失調症に関しては,直観が最も素直に作動する初診の重要性は,強調してもしすぎることはないだろう。

 率直に向き合うことができたとき,ほどなくこの疾患特有のストレンジネスを感じる瞬間が訪れる。そうなったら後の探索的な問診はあまり必要ない。問うことの持つ侵襲性を念頭に置きながら,最小限のものにとどめるべきだろう。

 何にもまして,でき得る限り早く伝えておきたいことが,とりあえず2つある。1つは「ここで話したことの秘密は守られる」ということ。もう1つは「君に断りなしに,ことをすすめたりはしない」ことである。最初の出会いがある程度うまくいったように思われても,あまりうぬぼれず,多少ぎこちなくてもよいから,この2つだけは伝えておきたい。

 精神科医としての修練を積み,少し慣れてくると,それと反比例するかのように,こうした感性は磨耗し始める。筆者も,いくらか自信のようなものが芽生えかけた頃,かえってぎこちなくなる場面が増えて,戸惑った経験がある。そんな折,「もしかして,ここで話したことがどこかに伝わるんじゃないかと心配していない?」と,初心に帰って問うてみた。すると,驚くべきことに,ほとんどの患者が首肯した。

 ここですぐさま,こうした患者の応答を自我障害の現れとみなしてしまうと,病理の理解はそこで打ち止めになる。自我障害ならまだしも,無神経にも「妄想」とされてしまうかもしれない。こうなると,患者が正直に話してくれたことへの裏切りである。

子どもの精神療法における精神医学的コミュニケーション―「つながる瞬間」について

著者: 川畑友二

ページ範囲:P.65 - P.72

精神療法におけるコミュニケーションの対象としての子ども

 子どもの精神療法は,さまざまな精神的問題を解決するために精神内界を取り扱っていくという基本的な点において,他年代患者の面接と全く同じである。患者に自分の気持ちを表現してもらい,それを理解したうえで患者の症状の軽減や成長発達に役立とうというものである。しかし,子どもという対象に対する面接技法や心構えもやはり必要であろう。ここでは,子どもの精神科におけるコミュニケーションの問題を考えてみたい。

 村瀬7)が述べているように,心身の機能が未分化であることや自我の発達が不十分であることなどから,子どもの精神療法では次のような特徴が挙げられている。

高齢者に対する治療的コミュニケーション

著者: 笠原洋勇

ページ範囲:P.75 - P.81

はじめに

 高齢者の不安の有病率に関する調査によれば,不安は若年より高く,身体的不安を訴えることが多く,女性に多いことが知られている。しかし,神経症,身体表現性障害,うつ病の診断基準を満たすものは,若年より下回る結果となっている。高齢者の不安は,退職,子どもの死,配偶者の死などの喪失体験に基づくことが多く,修復不可能な喪失体験が不安や身体的訴えを遷延させたり,回復困難にさせている。高齢者のストレスへの反応上の問題点については,心身の抵抗性減弱,情動反応の拡大,心理的不安定さなどが挙げられる。

 高齢者とのコミュニケーションのあり方は,治療関係や精神科治療そのものに大きな影響を与えるものであり,心理的,感情疎通が伴うことにより効果が高まる,と考えられる。

 高齢者のコミニュケーションの困難さについては,社会的に孤立してしまう,うつ病や認知症に罹患する,身体疾患による入院などによる隔離状態,難聴,視力障害,言語表出などが関与すると思われる。

 多くの高齢者は健康でありたい,若くありたいと願いつつも,加齢に伴う身体的心理的ストレスに直面し適応せざるを得ないのが現実であり,その適応過程で生じる葛藤が強かったり,容易に受け入れられない状況が起きたりしている場合には,情緒的なレベルでは収まらず,神経症的な症状が出現しやすい。高齢者は,自分が見捨てられた人として行動できないので,年老いてもなお若さのためにあるいは若さに対抗して戦い続ける。このような心理的背景を持った老年期の神経症に薬物療法のみが有効とは言い難いのは当然なことであり,治療者や家族,介護者にはこの老年期に直面するストレスやそこで生じる葛藤を高齢者が心の内面で抱えられるようにする,または周囲の者が本人を外側から支えるための心理的援助が求められる。高齢者の心身の状態を健やかに保ち,保持している日常生活上の機能を最大限にまで広げる意味での心理社会的アプローチは重要であり,特に医療場面における高齢者とのコミュニケーションのあり方は治療関係や精神治療そのものに大きな影響を与えるものである。このように神経症水準の高齢患者に対する治療的コミュニケーションはその治療の中核を担うものとして重要であるが,認知症などの他の疾患においても人生の終末期という難しい局面にある高齢者との対話は重要な意味を持っている。

 本稿では老年期のライフサイクルや心理的特徴から見た心理的課題や精神疾患に注目しながら,全人的な理解を行うために必要な基本的理解と治療的コミュニケーションの方法について示し,精神医療において高齢患者の心理的症状の意味を,ひいては高齢者の人生をひも解いていくことの重要性について検討する。

患者の家族とのコミュニケーションを考える

著者: 宮川香織

ページ範囲:P.83 - P.91

コミュニケーションとは何だろう?

 私たちは「言葉」と「コミュニケーション」を同義語のように扱ってしまいがちである。つまり,しゃべれば伝わるはずだ,ちゃんと言ったから理解してもらえないのはおかしいと考えるのだ。だが,正確に何かを語ったつもりでも伝わらないことはよくあることだし,通じたかに見えて返ってきた反応が想定外の域を大幅に超えた想定外であり,何かが伝わったとは到底いえないと判明することもある。ただ,このようなコミュニケーションの不備を取り沙汰するときはもっぱら言語の内容による「情報伝達」のみが問題視される場合であって,誰もが承知しているように,本来のコミュニケーションとは,単なる情報伝達よりもずっと広い範囲の,そして複雑な内容の交流的な出来事を指している。それには,

 ①意図された中身(志向のしぼりこみ方法)

 ②伝達方法(発信方法・受信方法)

 ③解釈された中身(解釈方法)

という3つの要素があり,発信者が中身と発信方法を自分の流儀で選び,発信すると,受信者が受信方法と解釈方法を自分なりに決めて中身を推察するということの交互の繰り返しで進んでいく。選択には当然,さまざまな推測と憶測と模索と試行がつきまとうから,1回の働きかけで一方の意図に反した理解(誤解)が起こることなど日常茶飯事である。発信されたメッセージにしても,意図が複数織り込まれることもあれば,相反する意図がセットになって送られることもある(無論,発信者にも迷いや混乱があるのだ)。時には相手に知られたくない意図が表情や声色に表れて漏れ出てしまう場合もあるだろう(発信者が必死に隠そうとしていたものが受信者によって察知され解釈されてしまうこともあるだろう)。コミュニケーションにおけるメッセージとは,意味の小部屋が折り重なったパイ皮のような重層構造をしていて,顕微鏡で見るときのプレパラート上の組織片のようにピントの合わせ方で見えるものはぜんぜん違ってくるのだ。どの層の意味を優先的に取り上げたものか? どうやってそれ(優先度の高い意味や意図)を決めたものか? 私たちにとって対人関係が面倒なのはいつもそれらのことで思案せざるを得なくなるからである。ゆえに受信者が受信するなり速攻で確認や問い合わせのメッセージを返したり,発信者が前の発信を説明する補足内容を呼吸を置かず発信したりする必要も出てくる。するとさらにその確認や補足に対する確認や補足が必要になることもあろう。だからコミュニケーションは方向性のある1回切りの出来事ではなく,回帰して更新・洗練されていく交流であると定義することができるのだ。交流が続くうちに,双方が双方についての認識を深めたり,双方の間で新たなテーマが出現し,新たな意図や志向が生まれたり,伝達や解釈のやり方が微調整されたりすることになる。

研究と報告

障害児を持つ母親と健常児を持つ母親の感情表出―子どもの問題行動,母子の対面時間との関連

著者: 小関芙美恵 ,   井上和臣

ページ範囲:P.93 - P.99

抄録

 感情表出(expressed emotion, EE)は家族の関係性を表す概念で,いくつかの疾患や子どもの問題行動について,高EEと評価された家族と暮らす人の予後が不良であることが確認されている。本研究では,障害児を持つ母親(臨床群)50名と健常児を持つ母親(対照群)60名に質問紙調査を行い,臨床群26名,対照群43名より得られた回答を基に分析を行った。その結果,①臨床群は対照群より高EEである,②母親の高EEと子どもの問題行動との間には正の相関がある,③臨床群においては,子どもの問題行動が多いとする母親は,対面時間の長い人のほうが高EEである割合が高いことが明らかになった。

「精神医学」への手紙

褥創に対するラップ療法は,単科精神科病院において実践する価値がある

著者: 井貫正彦 ,   古関啓二郎

ページ範囲:P.100 - P.101

 近年,褥創に対するラップ療法2~4)が注目されている。全国紙6)で取り上げられるほど,ラップ療法は普及している。特に在宅介護で苦労している患者,家族には朗報となっている。

 当院では2006年秋から褥創に対するラップ療法を導入して,めざましい効果を上げている。奏効した症例を写真で呈示した(図)。

書評

気まぐれ「うつ病」―誤解される非定型うつ病

著者: 樋口輝彦

ページ範囲:P.102 - P.102

 最初にこの本の表題を見たときには,久々に新たな呼称の「うつ病」が登場したかと思った。これまで歴史的に多くのうつ病概念が提唱され,その特徴に応じた名称が与えられてきた。「荷降ろしうつ病」「根こぎうつ病」「逃避型抑うつ」「仮面うつ病」などなど。DSM-Ⅲ以降,大うつ病に一括されて以来,このような呼称はあまり表に出なくなり,新たな呼称も登場しなくなったので,やや寂しく感じている方も少なくないと思われる。小生もこれまでの呼称には味わい深いものがあり,正規の診断名とするかどうかは別にして,日常的に使うのは大変便利であると感じている。したがって,「気まぐれうつ病」を目にしたときには,「久々のヒット病名現る」とやや大げさであるが狂喜乱舞した。

 しかし,実際に中身を読み進むうちに,著者が「非定型うつ病」を「気まぐれうつ病」と命名していることがわかり,興奮した気持ちはトーンダウンしたが,逆に新たな発見ができて,その感動にひたることになった。

―長崎医専教授―石田 昇と精神病学

著者: 酒井明夫

ページ範囲:P.103 - P.103

 読了直後の感想から述べてみたい。何よりもまず,受けた衝撃の大きさがある。人間存在の深淵を垣間見た思いがすると言っても決して大げさではない。本書の主人公のそれに比肩し得る人生などそうあるものではないだろう。

 弱冠30歳で精神医学書を出版した優秀な精神科医,雄島濱太郎というペンネームを持つ才能あふれる文筆家,セルバンテスの名著『ドンキホーテ』の翻訳・紹介者,さまざまな治療改革を実践した長崎医学専門学校精神病学教室初代教授,米国医学心理学協会の名誉会員,第一等殺人罪で終身懲役に服する受刑囚,幻聴や緊張病症状を呈する統合失調症患者,これらは皆同一人物である。この人物,すなわち石田昇の生涯を目の当たりにするとき,我々はしばし言葉を失う。仙台で生まれ,熊本から東京,長崎を経て米国メリーランド州ボルティモア,そして再び東京へと戻る彼の足跡には何か強烈な力の場が支配しているかのようである。

認知行動療法トレーニングブック DVD付

著者: 尾崎紀夫

ページ範囲:P.104 - P.104

DVDを併用することで関係性の重要性を理解する

 認知行動療法に対する関心は,精神科医,臨床心理士のみならず,一般にも広がっており,新患患者から「認知行動療法を受けたい」と言われる場合もまれではない。気分障害,不安障害さらには統合失調症など多様な精神障害に対する治療効果が示され,患者のニーズにも適っているとなれば,認知行動療法をできるだけ臨床場面で活用したい。また,教育を使命としている大学に在籍する以上,認知行動療法を実践できる臨床家を養成することが求められる。そこで,何かよい認知行動療法のテキストはないかと探してきた。

 認知行動療法に限らず,精神療法一般に,書物で治療の細部を伝えることは難しい。成田善弘氏は,自著『精神療法の第一歩』(診療新社)で,「精神療法が人と人との出会いであるからには,普遍的に妥当となる精神療法などというものは存在しない」と,精神療法について伝えることの困難さを述べている。しかし,同氏は「自分と患者のかかわり合いの一回性,独自性を尊重しつつ,一方他者の経験との共通性,一般性をも追求しなければならない」と言葉を継ぎ,精神療法にかかわる著書を世に問う意気込みを表明していた。

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編集後記

著者:

ページ範囲:P.108 - P.108

 今年,本誌はちょうど50巻目を迎えた。その節目となる第1号では,「精神医学的コミュニケーションとは何か―精神科専門医を目指す人のために」を特集で組んでみた。この半世紀の間に精神医学も医療もずいぶん変わったが,変わらないのは精神医学的コミュニケーションのあり方ではないかと思うと,この特集は原点にいま一度立ち還ったような,記念号に相応しいものではないかと勝手に自負している。しかし一方では,EBM重視に沿って自然科学的な計画性や厳密性,客観性が求められ画像や統計処理された論文が多くなっている潮流の中で,それらと趣の異なる,主観や感性に呼びかけるような本特集の反響はどうかと内心では心配している。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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