展望
トラウマという視点からみた職場起因性ストレスと労災補償の現状
著者:
太田保之
,
福田健一郎
,
稲富宏之
,
田中悟郎
ページ範囲:P.636 - P.648
はじめに
1970年代から安定成長期に入った日本経済は,1980年代後半にバブル景気へと向かった。1991年のバブル崩壊以降,日本の職場環境は大きく変貌した。(1)日本固有の人事システムであった終身雇用制と年功序列賃金制を放棄し,必要なスキルを持つ人材を必要な期間だけ雇用するという人事管理手法の導入,(2)官民を問わず急速に増加したリストラと正規社員雇用・新規採用の抑制,(3)著しいスピードで進む情報化・IT化,(4)成果主義と厳密査定制度の導入による管理監督者・部下間および同僚間における人間関係の軋轢増加などが職場環境を急変させた35,41)。また,日本や欧米諸国では,製造工業中心からサービス業などの第三次産業が中心となる脱工業化社会になり,肉体労働,頭脳労働という概念に加え,感情労働(emotional labor)なる概念が提唱され始めた12)。そして1997年度の下半期,山一証券や北海道拓殖銀行などの大型倒産が相次ぎ,金融システム不安が増幅し,その翌年の1998年に自殺者数が3万人台に急増した。
厚生労働省が5年ごとに実施している労働者健康状況調査によると,職業生活上で強い不安・悩み・ストレスを感じている労働者は直近の2012年調査でも60%を超えている16)。その原因をみると,「職場の人間関係の問題」が41.3%と最も多く,「仕事の質の問題」33.1%,「仕事の量の問題」30.3%と続いている。「職場の人間関係の問題」は女性の48.6%に対し,男性は35.2%となっており,明らかな性差を認めていることも注目に値する。
一方,3年ごとの厚生労働省患者調査によると,精神障害は1999年から2011年にかけて約1.6倍に急増しており,2011年には4大疾病(糖尿病,癌,脳血管障害,心血管障害)に精神障害を加えて5大疾病となった15)。精神障害は地域医療の基本方針となる医療計画に盛り込むべき疾患として指定を受けたことになる。
職場でも精神障害は大きな問題となっている。2011年度の全国公立学校教職員の病気休職者に占める精神障害の割合は61.7%32),2012年度の地方公務員の全休職者に占める精神障害の割合は50.8%にも達している4)。そして,両調査とも調査年ごとに右肩上がりに増加している。このように急増する精神障害の中で注目に値するのは気分障害の増加であろう。厚生労働省の患者調査によると,うつ病を主体とする気分障害は2008年には100万人を超え,1996年から2011年にかけて約2.4倍にも増加している15)。
また,特にうつ病で休職した労働者の円滑な復職支援が精神科医療にとって喫緊の課題となっているが,労働政策研究・研修機構の2010年調査によると,うつ病などの精神障害による休職者の24.3%が休職制度の利用中や職場復帰後に退職している。また,休職せずに退職した9.8%を加えると34.1%にも達する7)。
一方,1999年に精神障害による労災認定基準が制定され,翌年の2000年には電通訴訟の最高裁判決が「過重労働とうつ病発症および自殺との間の因果関係」を認め,事業主の健康配慮義務が法的にも社会的責任(corporate social responsibility;CSR)としても重く求められることになった。
2013年度の精神障害による労災補償認定の件数は436人で,2012年度に続き過去2番目に多く,そのうちの自殺・自殺未遂者は63人に達している。また,職場起因性精神障害の労災認定根拠となった発症誘因的な出来事を類型別にみると,(1)(ひどい)嫌がらせ,いじめ,暴行(パワー・ハラスメント),(2)セクシュアル・ハラスメント,(3)悲惨な職場事故などの体験・目撃および(重度の)病気や外傷,(4)仕事の内容や量の変化などによる過重労働関連事項などに大別することができる18)。
しかしながら,「職場におけるうつ病」に関する論文数と比較すると,職場起因性のトラウマティックな出来事がもたらす精神障害に関する論文は少ない34,37,39)。本論文では,2009年度以降の労災補償認定状況を踏まえ,本邦で発表された職場のメンタルヘルス関連論文を一定のキーワードを用いて医学中央雑誌刊行会の医中誌で検索し,職場起因性の対人関係上のトラウマティックな出来事が原因となる精神障害に関する研究の実態と精神科医療的対応のあり方について考察することを目的としている。