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雑誌目次

雑誌文献

精神医学6巻2号

1964年02月発行

雑誌目次

特集 神経症の日本的特性 昭和38年精神病理懇話会より

「神経症の日本的特性」について

著者: 村上仁

ページ範囲:P.87 - P.87

 今回の精神病理懇話会のテーマとなつた「神経症の日本的特性」については,すでに早く高良教授が日本人に対人恐怖が多いことを指摘され,これを日本人の前近代的な人間関係と結びつけて論じられたし,また土居氏は豊富な精神分析療法の経験に基づき日本人の心的特性としての「甘え」の心理について述べている。またわが国で創始された森田療法と日本人の精神的文化的特質との関係についても種々論議されている。
 今回はこの問題について深い関心と造詣とをもたれる池田,近藤,加藤,Caudillの4氏の講演に続き,土居氏の追加発言をはじめ,多くの方々の活発な討議があつた。これらの方々の論旨は極めて多岐にわたり,種々の異なつた観点から問題の解明に努められたので,はなはだ興味があつたが,他方このテーマが多くの複雑な問題を含み,一筋縄では解決できないものであることをも感じさせられた。

神経症問題の背後にあるもの

著者: 池田数好

ページ範囲:P.89 - P.94

 ここで筆者が述べようとすることは,神経症そのものの日本的特徴というより,むしろ,わが国の社会・文化的背景と神経症との間にあつて,直接間接に,神経症やその治療といつたものに,わが国特有の性格を与えていると思えるような,一,二の要因についてである。いわば,神経症をとりまく周辺の問題のなかにひそんでいる日本的なもの,についてである。
 一般に,臨床精神医学の諸問題は,その制度的な面はいうにおよばず,理論的・実践的な点においても,それをうみ出した国の,社会・文化的背景を考慮することなしには,その特徴を理解することが,おそらく困難であろうと思える。とくに,問題が神経症のこととなると,この関係は,いつそう切実なものになつてくることはいうまでもない。というのは,まず何よりも,神経症の形成に重大な意味をもつ心因とよばれるものが,いわば,病者のパースナリティの中核をおびやかし,その統合を危うくするような心的要因である。いつたい何が中核となるかを決定する要素の一つは,その人のもつ価値観によつて,したがつてまた,その人の生活史をとりまいていた社会の,指導的な価値体系によつて,多分に影響されるものである。病者をとりまく社会の,文化的構造のなかに,症状形成の直接の根がのびていると考えることができる。そのことは,おそらく,ある国にみいだされる神経症の類型や病像に,少なくとも量的な,あるいは,ある意味では質的な差異までもうみ出すであろうことを予想させる。したがつてまた,神経症の理論構成や治療の技法といつたものに,何か微妙な色あいの違いを与えることにもなるであろう。

日本文化の配慮的性格と神経質

著者: 近藤章久

ページ範囲:P.97 - P.106

I.はじめに
 私は主として,日本の文化型式がどのような意味で,日本における神経症を特色づけているかに論点を限定し,考究の出発点として"家"を選び,考察を進めたいと思う。
 いままで,家は家族制度または家族関係としておもに法制史的・社会史的・経済史的・文化史的見地から考察され,したがつて家における心理状況も,このような歴史的,時間的観点に立つて理解されてきた。
 このようなアプローチが,それぞれの妥当性をもち,それぞれの側面からの照明を与えて,われわれの理解を進めてくれたことは事実である。
 しかし,ここで私は,家を家族という人間集団が生きている空間としてとらえ,家における精神状況を,その空間的状況との関係において,すなわち空間的な側面から理解しようとこころみた。もとより,このようなアプローチは,さらに各文化圏における家のありかたとの比較考察を要求するものであり,さきにあげたさまざまなアプローチによる諸見解との綜合的考察も要請されるのは当然であるが,さしあたり,考察の対象を日本の家の空間的側面にかぎつて出発したい。

「対人恐怖」をめぐつて

著者: 加藤正明

ページ範囲:P.107 - P.112

I.まえがき
 本日のシンポジアムは,神経症の日本的特性についてであるが,およそ日本的特性といえるものがあつたとしても,それは根元的に民族的特性とか,風土的特性などではなくて,日本における社会的,経済的発展ないしは制約のもとにおける対人関係のありかたが,神経症患者の対医師,対社会における対人関係を,規定しているものと考える。
 従来,欧米の学者が文化人類学や比較精神病理学の立場で,日本人の精神病理の特性としてあげてきたものの多くは,現代日本に残存する「前近代生」の指摘にすぎず,かつて「伝統志向的」だつた日本社会の遺残現象にすぎないといえる。現実の日本は急激に「大衆社会」として変貌しつつあり,むしろこのような急激な変化における混然とした精神状況こそが「日本的」特性となつているのである。この意味で私はいわゆる「文化主義的な立場」に対して批判的であり,それは「文化」の根底に存在する下部構造を無視ないしは軽視する立場であると考える。
 このように日本的特性をいかにとらえるかに問題があり,それにはまずその裏づけとなる歴史観や社会構造の発展法則に関する見解が根底になければならないであろうが,ここでは一応神経症の問題にかぎつて考察する。

Thoughts on the Comparison of Emotional Life in Japan and the United States

著者:

ページ範囲:P.113 - P.117

 The theoretical background for this discussion rests on three propositions which can only be stated here because of limitations of space. The first proposition is that every human being has an emotional life which interpenetrates with, and significantly influences, his cognitive and behavioral life. The second proposition is that the inevitable problems of any human being can always be identified (if our instruments for measurement are adequate) by phenomena appearing in biological, psychological, and social systems of behavior. At least by the end of the first year of life, each of these systems is sufficiently elaborated so that it can function relatively independently in the life of a human being. But, obviously, biological, psychological, and social phenomena play upon one another, and for this reason I have elsewhere1) referred to these systems as "linked open systems." The third proposition is that the culture into which a person is born―as transmitted to him by his family, but also later by other teachers and peers―determines the particular pattern or style in which his biological, psychological, and social systems will be integrated.
 It seems to me that a valid field of research lies in the comparison of the patterning of these three linked open systems in various cultures, and I have spent a number of years in a beginningattempt to understand these problems in the comparison of life in Japan and the United States. All that I can do in this discussion, however, is to present the highlights of a series of research studies on Japanese values, emotions, psychiatric problems, and child rearing.

追加討論

著者: 土居健郎

ページ範囲:P.119 - P.124

I.問題の提出
 神経症の日本的特性を論ずるさい,注意すべきことが二つあると思う。第1は,ある事柄が神経症の日本的特性であるというためには,いかなる国にも共通する神経症の一般的性質をみきわめたうえで,その背景のもとに差異を論じねばならないということである。類似したものを比較してみて初めてそこに差異が,はつきりとするからである。第2は,神経症の日本的特性という以上,日本の社会的文化的特性をとりあげるだけでは不十分であるということである。それらの社会的文化的特性がどのように神経症の中に反映しているかを明らかにせねばならない。このことと関連して注意すべきことは,神経症の日本的特性を,神経症を観察し研究する精神医学の日本的特性と同一視してはならないという点である。精神医学は,もしそれがその名に値する学問であるならば,万国に共通するところがなければならないが,しかし実際問題としては,国によつてかなり異なつていることは周知の事実である。精神医学がたとえ異なつても,その対象となる神経症は本質的には同じであると考えるのが,当然ではなかろうか。ただし本質的には同じ神経症でも,国や文化の違いによつて若干の差異がみられるかもしれない。その点を論ずることが今回の精神病理懇話会の主題であると考えるのである。
 さて私はこれまで一連の論文の中で,甘えという日本語に特異な概念を用いて,神経症の精神力学を明らかにすることにつとめてきた1)。甘えというのはたしかに日本語に独特な概念であるが,しかしこれを用いて明らかにされる神経症の精神力学はとくに日本の神経症にだけ妥当するものではなく,一般性をもつことを主張することが私の狙いだつたのである。しかしこの点は必ずしも十分には理解されなかつたようである。それは"甘える"という言葉が日本語に特異であることを強調し,またそのような事実を可能ならしめた社会的文化的背景についても示唆したために,甘えを用いての神経症の精神力学までが日本に特異であるかのごとき印象を一部にあたえてしまつたからである。そこでこの討論では,いま一度甘えの精神力学の普遍性を明らかにし,しかしそれと同時に,この普遍性に付随する日本的特性にまで言及したいと思つている。

研究と報告

ルネ症例について

著者: 遠坂治夫

ページ範囲:P.127 - P.129

 1947年スイスのSechehaye夫人が象徴的実現Réalisation symboliqueの精神療法技法を公けにし,これはまもなくsymbolic realization, symbolische Wunscherfüllungとして英・独語系にも飜訳され大きな反響をよんだが,中でも注目をひいたのは,Sechehayeの治療した少女Renéeの手記Journal d'une Schizophrène(1950)であつた。Renéeの精神療法にとられた画期的な手法の妥当性,Renéeが真に治癒したか,などについてもときどき問題にはなつたが,RenéeのJournalの記述からして,はたして彼女が精神分裂病であつたか否かは疾病論的に関心をもつ諸学者にとつてその後多くの論議の的となつた。
 ZilligはLa réalisation symboliqueの紹介においてRenée例がschizophrener Prozessであったかどうかにかるい疑問を述べている。Rümkeはその真正分裂病echte Schizophrenieと偽分裂病Pseudoschizophrenienとを区別した論文においてRenée例をとりあげ,この病型をSchizophrenie Typus Sechehayeの名のもとに,Entwicklungs-Pseudo-Schizophrenienとして偽分裂病群に属せしめた。彼はRenéeはintrovertierter Typの重症のdegenerative Hysterieと考えている。Conradは彼の著書の付説においてRenée例を考察し,その記述された体験が分裂病性体験と考えられないと論じ,これはschwere Neurose mit kleinen und grossen hysterischen Ploduktionenであるとしてその根拠をRenéeの体験一々についてきびしく論駁した。

偽神経症(V. Frankl)と考えられた症例の臨床経験

著者: 森慶秋 ,   尾野成治

ページ範囲:P.131 - P.135

I.まえがき
 精神機能と内分泌機能の関係についてはすでに多くの研究報告がなされている1)2)3)。いろいろな心因性要因によつて自律神経系,内分泌系の不安定状態を来たすこともすでにしられている4)5)6)。また反対に,とくに内分泌系の不安定状態があつて,精神症状の現われる場合のあることも,それぞれの内分泌疾患の際の精神症状として記載されている。このような内分泌障害が軽度で,身体症状よりむしろ,精神症状のみの目立つ時には鑑別診断,治療の面において問題が生じてくる。Bleuler1)は「内分泌障害と,その精神症状は一義的には結びつかない。ある内分泌障害に特異的(bestimmt)な精神症状というものは一般的にはあまりない」とのべている、もちろん精神症状のみから原疾患を探ることは不可能である。Frankl7)8)はむしろ治療上の経験から,神経症様症状が前景に出ている内分泌障害(機能的なものが大部分であるという)に注目して狭義の神経症(心因性に生じたものを神経症と定義するならば)に対して偽神経症(Pseudoneurose)とし,類バセドー性(Basedowoid),類テタニー性(Tetanoid),類アディソン性(Addisonoid)の3者について,おのおのの内分泌障害にかなり特異的な症状の認められることをのべている。最近,私共も,この範疇に属するものと考えられる症例を経験したので報告する。

諸種の治療で効果の得られなかつた慢性分裂病患者の治療—クロルプロチキセンの長期投与

著者: 宮川太平 ,   稲村正志

ページ範囲:P.137 - P.143

I.はじめに
 申すまでもないことであるが,薬物療法の登場によつて,精神科患者の治療の面においては,現在大きな効果が挙げられていると同時に将来における一段の進歩に対する明るい期待がもたらされた。私たちの熊本大学精神科においても,治療ことに分裂病の薬物療法に関しては特別の注意が払われている。
 ところで精神病院には今なお,慢性のあらゆる治療に抵抗し,"荒廃した"精神状態の分裂病患者がかなり数多く見受けられる。このような患者にChlorpromazine,Perphenazine以後に現われたいくつかの薬物を試用しているうちに,Chlorprothixene(TraQuilan)が予想されなかつたような著効を奏する場合のあることが見出された。以下は,その概略である。

資料

一仏教分派信者にみられた精神障害の宗教精神病理学的調査

著者: 小田晋

ページ範囲:P.145 - P.152

I.はじめに
 現代の日本での宗教と精神障害の病態との関係を考えてゆくこころみの一つとして仏教のなかで,日蓮宗の一分派に属するN-S宗派(仮称)の信者に属する精神障害者の病態について,宗教精神病理学的な考察を加えてみた。N-S宗派は仏教分派としては特殊の存在である。その信者が増大し,組織が拡大してきたのは近年であるが,実は日蓮以来の伝統をもち,日蓮宗系教団のなかで教義の正統性と純粋性をもつとも頑強に主張する宗派と結びついた一つの宗教団体なのであつて,現在の形態での団体として発足したのは1930年である。つまり,N-S宗派は大衆的な,新興の宗教団体ではあるが,一方,富士大石寺を本山とする日蓮宗の一派と相互に提携するという形をとつており,小口および佐木の記述をかりると,現代大衆社会における新興の,大衆的な宗教であるという意味では新興宗教であるが,既成教団と密接に結びつき,教学をおもんじて,教祖が生神様として扱われることがなく,神がかり(シャマニズム)の傾向がないという点では一般の新興宗教とは違つたものであるとされる。
 本宗派はその信仰の組織,形態および教義のはつきりしていることによつて,戦後とくにいちじるしい発展をとげている。
 現在,信者の数は約300万世帯と公称され,その社会的な活動力,政治的影響力で社会的な注目をあびているものである。ここでこの宗派をとりあげた一つの理由は,この宗派のもつ特殊な性格から伝統的宗教と,新興宗教の両者のもつ比較宗教心理学的な特徴に出会うことができるだろうということ,さらに最近2年間にこの宗派に属する患者で精神病院に入院するものが,その病態のもつ一種の特性とまとまりによつて,注目をひいたことがあげられる。
 ここでは,最近2年間に東京,神奈川の5ヵ所の精神病院に入院した同宗派信者のうち宗教に関連した病態をもつもの2例について,病態と信仰のあいだの関連を考察したのである。

動き

第9回日本精神分析学会総会印象記—とくに精神医学的側面について

著者: 小此木啓吾

ページ範囲:P.153 - P.157

I.はじめに
 日本精神分析学会第9回総会は,例年どおり,第8回精神病理懇話会につづいて,昭和38年10月12日(土)・13日(日)の両日京大医学部で,村上仁教授会長のもとに開催された。
 精神病理懇話会については,本号がその特集になるとのことであるが,最近数年来そういう印象がとくに強いように,この懇話会の発言や討論が,精神分析的,あるいは力動精神医学的な方向づけをかなり含むようになつてきたために,このムードが,翌日からの分析学会にも反映するのが,ならわしになつている。とくに,本年のテーマが比較文化的なものであり,神経症をめぐるものであり,その発言者のすべてが分析学会と共通したメンバーであつた事情もあつて,ひとしおこの感が深かつた。
 分析学会は,2日間の間に,特別講演2題,シンポジウムーつ,一般演題46というかなりいつぱいいつぱいのプログラムで,質疑討論の活発なためもあつて,進行係は気をもみどおしであつた。この中で,いくつかの主題をとりあげて紹介しよう。

紹介

—Klaus Conrad 著—Der Konstitutionstypus—Theoretische Grundlegung und Praktische Bestimmung

著者: 島崎敏樹 ,   矢崎妙子

ページ範囲:P.159 - P.161

 1962年に惜しくも物故されたKlaus Conradは,「失語症」を,大脳全体論的な立場に立ち,ゲシュタルト変遷によつて説明したことで,あまりにも有名である。
 19世紀の初め,ようやく「精神医学」は,医学の一分科として確立された。それ以来「精神病」が,科学的に取り扱われるようになつたのは周知のとおりである。「精神異常」も,その身体的原因とくに大脳の病的変化を明らかにすることに主力がそそがれた。このようにして,Wernickeは,あの有名な「失語症の説明図式」で,大脳局在論的な立場を確立した。

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Cerletti教授の訃

著者: 三浦岱栄

ページ範囲:P.94 - P.94

 昨年われわれは二人の高名・高年の神経精神科医学者を失つた。一人はフランスのAndré-Thomasであり,昨年7月逝去された旨令孫のChristian Thomasより御通知があつた。Annales medico-psychologiquesの昨年11月号には,10月28日の例会で会長P. Chatagnon博士によつてよまれた長文の追悼辞が載つている。享年96才。私が1961年に巴里を訪れたときは,医学学士院(その例会で私は日本の医療制度について特別講演をした)で最後に御目にかかり,次いで御自宅に訪問したが,御老衰のいろはかくすべくもなかつた。先生は私の直接の恩師であるので,そのネクロロジーは,日仏医学に執筆する予定になつているのでここでは省略する。
 Ugo Cerletti教授も亨年86才でローマで昨年死去された由である。私は1961年Montrealの学会の折,御目にかかつたが,かくしやくたるものであつた。直接お話はしなかつたが,たしかモントリオール大学からDelay教授と共に名誉博士を贈られたと記憶している。そのあとでイタリー系のBos博士(モントリオール在住)からツエルレッチ教授についての興味ある話をうかがつたので,これを披露して同教授をしのぶよすがとしたい。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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