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雑誌目次

雑誌文献

精神医学7巻2号

1965年02月発行

雑誌目次

特集 精神療法の限界と危険 第1回日本精神病理・精神療法学会シンポジウム

はじめに

著者: 村松常雄

ページ範囲:P.94 - P.94

 村松(司会者) 「精神療法の限界と危険」というテーマは2つの違つた方向の問題点を示すように解せられます。その1つは治療者がどのように努力しても「実際上越え難い限界」とそれに関する諸条件や危険についてという問題であり,他の1つは治療行為として「越えてはならぬ」限界と危険という問題です。またそのいずれの方向においても治療者が精神療法に熱意をもつ精神科医である場合と,そうでない医師である場合と,さらにまた非医師である場合と,それぞれ問題点の違うものがあろうかと思われます。このシムポジアムではそのなかのいずれを主とするのか,それともその全部にわたるものなのか,これが司会者の第1の疑問点でした。
 第2の疑問点は,精神療法といつてもそれぞれの考えかたによつていろいろの方法もあるうえに,集団療法もあり,さらにまたその対象によつて,たとえば神経症患者の場合,精神分裂病患者の場合,サイコ・ソマチックス患者の場合,性格異常の場合,児童の場合,などでそれぞれ特殊な問題もあると考えられます。かぎられた時間内で論議の中心をどのへんにしぼるかという点です。

講演

治療者の個人的因子

著者: 井村恒郎

ページ範囲:P.95 - P.97

 たいていの医学的治療は,治療者,技法,患者の相互に関連した3因子から成りたつている。ひらたくいうと,「誰がどんな方法で誰をなおすか」ということであるが,精神療法では,この命題の主語にあたる「誰が」という因子の治療効果におよぼす影響が大きい。他の医学的治療法たとえば電撃療法や薬物療法でも,治療者個人の役わりを無祝することはできないが,精神療法に比べればずつとかるい。電気衝撃の方法や投薬の仕方といつた技法は,誰がこれを行なつてもさして違いはないようにきめられ,精神医学の予備知識があれば誰でも容易にできるようになつている。そして治療効果も,技法に適当した対象を選ぶことによつて,つまり適用症(indication)に注意することによつて,大きなまちがいはなくてすむ。治療者の個人的な巧みさよりも,技法の術式の精密化が優先する傾向があり,この点では精神療法よりはずつと科学的に技術化されている。かえつて治療者個人という因子が疎外されすぎているという憾みさえあるが,その点はここでは問題にならないので割愛する。これらの狭義の医学的治療では,治療法の限界と危険もわりにはつぎりしている。というのは治療の限界は適用の範囲ということになり,治療に伴う危険は副作用の点を考慮にいれたうえでの適用の誤まりに帰因することになるからである。

精神療法家の制約について

著者: 加藤正明

ページ範囲:P.97 - P.101

 A.精神療法における精神療法家
 精神療法を身体療法と区別させる重要な一面は,そこでは精神療法家という人間全体が,治療の道具となつていることである。精神療法においても身体療法と同じく,技術ないしは技法を標準化することによつて,駒科学的な精神療法たらしめ丈うとする努力がある。しかし,キュービーもいうように,精神療法は科学であるよりもartであつて,それを行なう療法家の人間像という要素が,大きくはたらいていることはいうまでもない。もちろん,外科手術でも,治療者の心身の条件が治療条件に影響することはある。しかし精神療法におけるように,治療者の人間全体が道具として直接治療的にはたらきかけるということは,はるかに少なく,あつてもそれは間接的であるといえる。

各種の精神療法の限界について

著者: 桜井図南男

ページ範囲:P.101 - P.106

 精神療法の限界と危険ということであるが,これは精神療法にとつて,かなり本質的な,また,広汎な領域にわたる問題であると思われるので,そのすべてにわたつて,ここで論議をつくすということはとうてい不可能であろうし,私がそれにとりくむ資格もないように思われる。
 私はむしろ限界ということに重点をおいて,日ごろ考えていることを整理してみたいと思うのであるが,もちろん限界を逸脱したものには危険が伴うはずである。しかし,危険はそれだけにとどまらないことも念頭においていただきたい。

東洋的精神療法とその風土

著者: 西丸四方

ページ範囲:P.106 - P.110

 今回のこの学会で「精神療法の限界と危険」というような題目で一席話をするようにとのことである。私は自分が精神療法を熱心に専門にやつている者であるとは思わないが,精神科医としてやらずにすますことはできない。この十何年間か週に2回外来患者をみてそのなかで自分が手がけてみようという患者を選択する。このなかには神経症も分裂病もあるわけで,神経症の患者なら無選択にどういう人にでも進んで精神療法をやれるものでもない。どこかに何かの選択がはたらいている。これは自分が誰とでも同じようにつきあえるものでもなく,友人をつくるのに何かの選択がはたらいているのと同じことである。こういう点にすでに限界がある。
 それから私は毎日病室をひとりでまわつて歩く。それゆえときどきアルバイトに出る受持医よりはよく症状をみているし,患者とよくつきあつているといつてもよい。しかし特定の患者に長くかかつて,精神分析をするなどということはできない。精神療法には幾つも種類があるが,どのやりかたがどういう種類の精神障害にいつそう有効であるということがある程度あるにしても,施行者の好みというものが非常に影響している。それゆえどの精神療法でも自分でやつてみようという人はあるまい。いろいろのやりかたを一応心得てはいるものの,自分の好む二三のもの,あるいはむしろ唯一つのものをやるだけである。べつの人はまた違つたやりかたをする。そしてどの人も自分のやりかたがもつともとはいわなくても一応かなり効があるものであると信じているSelbstsicherである。初めからあるやりかたは自分の好みに合わずまつたくやつてみない人が多い。こういうことはなにも精神療法にかぎらない。

シンポジウム「精神療法の限界と危険」に対する指定討論および一般質疑

演者からの解答

ページ範囲:P.121 - P.124

 井村 第1に小此木さんにお答えいたします。小此木さんの問題の1つの点は,要するに私の申しあげました治療者の個人的要因というものがどの程度改善されるかということだと思います。これは私の申しあげたempathyの能力の欠陥が非常に重い場合は,容易になおるものではないと思います。そうでなければ,psychotherapyは治療者自身にも変化を与えますので,superviseを受けながらpsychotherapyを通じて身につけることができると思います。それ以外にも幾つかの方法があると思います。私としましては,文学的な書物を読むこと。小此木さんは,昨日の話では哲学的な方面に関心をもつようにという話でしたけれども,私は哲学よりも文学のほうが実際的であると思います。
 つぎに佐治さんにお答えいたします。格率というようなことをいうよりは,治療の記録をあげて検討したらどうか,ということ,それはもつともです。私もぜひそうしたい。私自身はあまりそれをやりませんけれども,ときどきはやつております。幸いに佐治さんが,それを私のところへきてやつてくださつたので,あのテープレコーダーを拝聴して,佐治さんの治療法の真実性というものがよくわかりました。音調に現われる真実性を痛感しました。それこそempathicにわかりました。私自身もやりたいし,それから森田療法その他のエキスパートに,ぜひそういうことをやっていただきたいと思います。できたら私どもの所へきていただいて,録音と同時に生理学的な変化もとらせていただきたいと思います。

一般質疑

ページ範囲:P.124 - P.127

 島崎敏樹(東京医歯大教授) 私の兄の西丸が申しあげましたので,弟もちよつと——。
 昭和28年と思いますけれども,仙台での日本精神神経学会のシンポジウムで神経症がとりあげられました。私もそのときスピーカーの1人としてお話しましたが,そのとき私,精神療法には,1人1人皆その人の持論があり,立場があり,信念があり,信条があり,つまり百人百説であるということ,百人百説でなければならぬということを申しました。きようもスピーカーの方から,だいたいそういうお話が出たようです。ことに井村先生がいわれたように,信条というものが根底にあつて,それから発想することが必要です。ということは,1人1人個の尊厳をもつているということであつて,つまり私どもは分割不可能な存在であるということです。しかし,あれから10年以上たって,私の近ごろの考えはまつたく変わりました。きようはそのBekenntnisをいたします。

研究と報告

森田療法とその今後のありかた

著者: 藤田千尋

ページ範囲:P.129 - P.136

I.はじめに
 一般に精神療法とは心理的手続きによつて被治療者の人格になんらかの影響を与え治療しようとする一連の経過過程を指すもので,その過程には治療者と被治療者との間に特殊な人間関係がもたれ,その行為の終局には療法の目標とする人間像への接近が期待される。このような一連の過程は精神療法を狭義に限定した場合にのみ適応されるものであろうか。精神科臨床の場ではkörperlisch-seelisches Hausを治療対象とするというより,そのder Herrつまり人間を対象とするのであるから,被治療者との特殊な人間関係を考慮しないわけにはいかなくなる。ここに狭義の精神療法はもとより,その他の臨床場面でも治療の基本になるものは精神療法的手続きであるという考えかたが成り立つのではなかろうか。
 したがつて,臨床にたずさわる精神科医は,少なくとも各自の精神療法理念を保持しなければならないはずである。この臨床医としての当然な態度をふまえたうえで,治療の場でわれわれが実際に行なう森田療法の現状と今後のありかたについて考えてみたい。このことは精神療法の第一の目的である治癒ということはもちろんのこと,さらには人間理解ということを考える契機ともなり,ひいてはこれが精神病理学への寄与ともなると考えるからである。

精神分裂病者の自殺(後編)—病識のない病者の自殺

著者: 梶谷哲男

ページ範囲:P.137 - P.140

I.はしがき
 分裂病者の自殺は病識のない場合が圧倒的に多い。一般に,分裂病者は病識がなく,いわゆる狂人(Wahnsinn)であるがゆえに自殺すると考えられている。病型別に見れば,妄想型が多いことはHoff u. Ringel,Jantzなど多くの研究家から主張されている。しかし,他の病型にもまつたくないわけではなく,Jantzは,緊張病者の自殺は無計画で残忍,破瓜病者の自殺企図には一定の型がないことを特徴としていると述べている。また,Banenは病院馴化を起こした慢性精神病者にも,自殺を認めている。
 これらの場合にも,比較的統合された人格と,清明な意識のもとである程度意図され,計画され決意された自殺と,人格の解体,意識の混濁(不安,興奮にもとづく二次的なもの)を背景に,まつたく無目的に行なわれた場合の二つが分けられる。

Ethosuximide(Epileo)による小発作てんかんの治療—とくに抗てんかん剤効果判定規準(試案)にもとづく臨床効果の検討

著者: 平井富雄 ,   安藤信義 ,   直居卓 ,   井上令一 ,   渡辺博

ページ範囲:P.142 - P.151

I.はじめに
 多くの抗てんかん剤の開発が進むにつれ,こんにちでは,てんかんの治療—とくに発作抑制—がかなり容易になつたことは否定できない。しかしなお既存の治療剤をいかにうまく配合しても発作抑制の十分でない,いわゆる難治症例のあることも事実である。とくに発作回数の多い小発作(欠神発作,ミオクローヌス発作など),BNSけいれんなどに対しては,従来の薬剤で十分な治療効果が達成されない場合も,臨床実地上しばしば経験されるところである。
 これら発作に対しては,trimethadione,acetazolamide,chloroquine剤などが使用され,またBNSけいれんに対するACTH,cortisoneなどのホルモン療法もこころみられている。しかし多くのくふうにもかかわらず,小発作群の発作抑制は,なお困難な現状にあるといわざるをえない。したがつて,かかる頻発する発称を抑制する薬剤の発見が,臨床上強く望まれるのは当然である。

Ethosuximide(Epileo)のてんかん治験

著者: 荒井紀久雄 ,   斎藤佳一 ,   木村英一

ページ範囲:P.153 - P.158

 (1)Ethosuxinimideをてんかんの諸発作型,おもに小発作absenceを対象に25例に投与し,発作型に対する効果を見たが,50%以上の発作抑制効果の見られたものは,小発作群中でその74%であつた。けいれん発作群や精神運動発作群にはあまり有効でなかつた。
 (2)脳波の改善が9例中5例に見られた。
 (3)Minoaleviatinと効果を比較してみると,14例中,より有効2例,同程度9例,劣るもの3例であつた。
 (4)副作用は頭痛・食欲不振・身体動揺感などが多いが,ことに重篤な副作用はない。

Ethosuximide(Epileo)のてんかんに対する使用経験

著者: 田所靖男 ,   岡田保 ,   小池憲二 ,   野島精二

ページ範囲:P.161 - P.166

I.緒言
 新しい抗てんかん剤α-ethyl-α-methyl succinimide(Ethosuximlde,pM 671,Zarontin)はZimmermanとBurgemeisterによるsuccinimide誘導体の系統的研究のなかで,Milontin,Celontinについで研究せられ,小発作に著効を呈すること,および副作用の少ないことが示され,以降各国において追試され,いずれも本剤が小発作に有効であることが指摘されている(第1図)。
 従来小発作の治療薬としては,Oxazolidine誘導体のtrimethadione(ミノアレビアチン)やphenobarbitalが有効とされてきた。それらが無効である場合,あるいは副作用―とくにtrimethadioneにおいて認められる重篤な副作用(白血球減少症,剥脱性皮膚炎,腎臓障害)がある場合にとつて代わるべき薬剤が存在しなかつた。

新抗てんかん剤Ethosuximideの使用経験

著者: 福山幸夫 ,   鈴木昌樹 ,   丸山博 ,   小宮和彦 ,   小宮弘毅 ,   鴨下重彦 ,   鈴木義之

ページ範囲:P.168 - P.179

I.序言
 新抗てんかん剤ethosuximideは,琥珀酸イミド系に属する新剤で,Milontin,Celontinとともに,Zimmermanら41〜48)の系統的研究にもとづくものである。すなわちZimmermanらは,従来すでに効果の認められているバルビツール剤,ヒダントイン剤,オキサゾリジン剤,アセチル尿素剤などの化学構造式を比較検討し,これらのすべてにC-N-C-C鎖が共通に存在することに注目した(第1図)。そしてこれを基礎とした種々の薬剤,たとえばピペリジン剤(thiazolidine,furnanacrylamideなど)やcinnanamideを検討したが,これらはいずれも副作用が強く,臨床使用に耐えないことがわかつた。しかし最後に琥珀酸イミド剤は強力な抗けいれん作用を有するうえに毒性も少ない点で有望であることが発見された。琥珀酸イミドの基本分子に系統的に種々の側鎖を付加あるいは置換して検討した結果,Milontin(別名P. M. 334,phensuximide,N-methyl-α-phenylsuccinimide),Celontin(別名P. M. 396,methsuximide,N-methyl-α,α-methylphenyl succinimide)が臨床的に十分使用に耐える抗てんかん剤であることを確かめ,この結果をZimmermanは1951年41),1954年43)にそれぞれ発表した。琥珀酸イミド剤の薬理学的,動物実験的研究はMiller & Long31)(1951),Chenら(19512),19633))のものがある。

資料

精神衛生法改正に関する答申書

著者: 林暲

ページ範囲:P.181 - P.186

 10月号に掲載した精神衛生法改正についての審議会の中間答申にひきつづき,1月14日に提出された答申の全文を紹介する。1月号の巻頭のエディトリアルで一部私見を述べたが,この答申の審議の経過や内容についてはなお説明を要するところが少なくない。これはなるべく早い機会にとりまとめ参考に供したいと思つている。

動き

第1回国際社会精神医学会議印象記

著者: 牧田清志

ページ範囲:P.188 - P.191

 英国のJoshua Biererのきもいりで開催されることになつた第1回国際社会精神医学会議は,昨1964年8月17日から21日にわたる5日間英京ロンドンで開かれた。私はかねてからこの会議において日本の社会精神医学的な問題について講演をするよう,そしてまた児童精神医学の部門で座長をつとめるようとの要請があつたので,同会議に出席しての印象を記すことにする。
 前述のごとくこの国際会議を主導したのはイギリスのJoshua Biererである。かれは約1年前より準備を開始し,理想的な会の運営を企図したらしいが,現実は必ずしもかれの意図するところに一致はしなかつたもようである。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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