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雑誌目次

論文

精神医学8巻6号

1966年06月発行

雑誌目次

特集 薬物と精神療法 第2回日本精神病理・精神療法学会シンポジウム

はじめに

著者: 懸田克躬

ページ範囲:P.442 - P.442

 精神療法と薬物療法とは今日の精神医学において,もつとも基本的な療法というべきであろう。精神療法の要素を含むことのない薬物療法,いな,一般に医療がありえないことは多くの人々によつてすでに指摘されていることであり,いまさらとくに多くの言葉を費やす必要はないことであると思う。
 一方に精神療法に薬物を用いることについては,精神療法の本質論や,たとえ,これを用いるとしても,いかなるときに,いかなる方法で行なうかというような意味あいでさまざまの問題が提起されている。しかし,薬物療法が精神療法について与えた課題は単にそのような点に尽きるものではないと思う。

薬物と精神療法

著者: 新福尚武

ページ範囲:P.443 - P.446

I.はじめに
 精神療法と薬物療法とは,作用点,作用機序,適応領域を異にするというのが,これまでの一般的考えであつたが,最近のありかたはこの考えをかなり混乱させている。たとえば,分裂病はこれまで,もつぱら理学療法,薬物療法のもちいられる領域であつたのに,こんにちでは精神療法もさかんにもちいられるようになつた。その反面,精神療法の適応症であるべき神経症に,薬物療法がさかんに行なわれ,神経症といえば薬物というようなムードさえ一部には見られる。
 もちろん,治療法の変化は病因についての考えかたの変化に伴う。分裂病の精神療法は,分裂病心因説に関係していることはいうまでもない。しかし,それでは神経症の薬物療法が,神経症身体因説(Somatogenese-Theorie)にもとづいているのかというと,そうでもないようである。

指定討論

著者: 藤田千尋

ページ範囲:P.446 - P.447

 ただいま新福先生は,薬物と精神療法についての現状をあますところなく述べられましたが,その周到なお考えにまず敬意を表します。かぎられた狭い臨床経験から私なりの感想を述べさせていただきたいと思います。「薬物と精神療法」というテーマは,両者の対立的意味での価値を論ずるのではなく,この両者の有機的かかわりという前提から精神科医がそれぞれをどう受け取つているかを論ずるものと理解いたします。
 私は素朴な二元論ではなく,臨床的経験から2つの立場が考えられることをまず考慮にいれておく必要があると思います。

薬物と精神療法—統合的接近

著者: 西園昌久

ページ範囲:P.448 - P.453

I.はじめに
 〈薬物と精神療法〉というテーマがとりあげられたのはつぎの2つのことを明らかにする目的によるものであろう。第1には,こんにちの精神科治療に欠くことができないとさえいわれる向精神薬の出現によつて,精神科医がどのような洞察を得たか,すなわち,精神科医,ことに精神療法医が向精神薬にどのような態度をとつているかということ。第2には,ある場合には盲目的にさえなされている向精神薬療法に対する反省,ないしは,薬物それ自身の作用の限界を明らかにすることであろう。要するに,薬物療法と精神療法との位置づけを明らかにすることであろう。
 従来,精神科領域の治療に関する精神科医の態度には極端に相違する2つのものがあつた。精神障害の身体因を支持する人たちは,身体療法の有効性を信じ,精神療法を正しく評価しなかつた。他方,心因を重視する人たちは精神療法のみに関心をもち,身体療法をかえりみなかつた。両派の意見の相違は,徹底的なもので妥協の余地のないものであつた。この傾向はこんにちの薬物療法に対する態度にも見られる。すなわち,向精神薬に対する精神科医の態度には,薬物がもたらした客観的事実ばかりではなく,学派のちがい,医師の佃人的問題を含めた精神科医自身の治療哲学といえるものが関与しているようである。

指定討論

著者: 下坂幸三

ページ範囲:P.453 - P.455

 演者の講演のなかでは,薬物精神療法がその眼目をなしていると恩われますので,このことについて討論いたしたいと存じます。
 西園先生は薬は精神療法を促進するものだとして,積極的に併用する立場をとられるといわれます。しかし実情はかならずしもこのような明瞭な自覚をもつて薬物が投与されてはいません。薬で煙幕を張る,薬でときをかせぐ,薬を仲介にしてなんとか通院だけはつづけてもらおうとするといつた,あまり立派とはいえない動機から薬物を与えることも確かにある。しかしこのような動機も,いちがいに悪いとすることはできないようです。たとえば私はある神経症者に対して,こちらがくたびれて治療意欲を失いかけたとき,薬にしばらく肩代わりをしてもらい,こちらの態勢を整えなおして,ふたたび意欲的に精神療法をすすめることができたこともあります。

演者回答

ページ範囲:P.455 - P.457

 新福 さきほどのこ討論は全部もつともです。私自身もNeuroseに薬をかなり使つております。薬を使いながら考えてみて,なかには薬が非常によく効いたと思うのもある。しかし,そういうのは結局さきほど申したような,なぜ効いたかということがごく容易に理解できる場合であります。それらでは,薬の作用はそう深い意味をもたない,Neuroseとしてもごく単純な現象というふうに考えられる。
 ところがその他のケースについては,私は薬をどういうふうに使つたとか,使うべきだとか自信をもつてはいえないのであります。いろいろ発表などを見ますと,Neuroseに使つておられるわけですが.私はむしろ懐疑的なのです。そういうものを見ながらなぜこういうふうになるのだろうか,ということの反省がさきほど述べたようなことに関係があるわけでありまして,けつして私が上手に薬物と精神療法とを併用して成功したとか,こう併用すべきだということをいつたのではない。ですから,そこから私は精神身体にまたがるpsychophysiodynamicsなど考えるのですが,それはなぜか。それはノイローゼ以外の精神病について,そういうことをなんとなく考えるからです。かりにノイローゼに薬物が本当に効くものであれば,私は自分では本当にそうだという経験はないですが,あれば,問題はそういうところから考えなおすべきではないか。こういうようなわけです。

一般討論

ページ範囲:P.457 - P.461

 司会 薬物をもちいる場合,またpsychotherapyの場合,薬物療法あるいは薬物を導入してくるときに,psychologicalなレベルでのeffectを期待する程度にとどめていいのか,それとも積極的な意味をもたせるかという問題が1つ出ております。
 それからもしそういうことであれば,両者を包含する1つの治療体系,治療理論が考えられなければならない。しかし,いまそれは判然としていないが,それをはつきりさせなければならないだろうということなど問題になつていたように思います。いまの4人の方以外にフロアーにおられる方で,それぞれ特色のある治療をされているわけですが,その特色のある心理療法をこころみていて,しかも薬物をもちいている方がおられると思うのですが,いまのような点にしぼり,簡単なご発言をいただけたらと思います。森田療法の立場から鈴木さん何かないですか。

精神分裂病における薬物と精神療法

著者: 宮本忠雄

ページ範囲:P.461 - P.465

I.はじめに
 この「薬物と精神療法」のシンポジアムのなかでとくに私にあたえられた個別テーマは「人間像の問題を中心として」というものである。しかし,ひとくちに「薬物」といつてもその種類や作用はきわめて多様であり,他方,「精神療法」にしてもその方法や目標の多様性は薬物のそれにまさるともおとらない。このことは「薬物と精神療法」というテーマだけでも普遍的レベルで均一に論ずることを困難にするが,そのうえ「人間像」というこれまた多義的な項目をさしはさむことになれば,それ自体非常に魅力的なテーマであることはべつにして,どうしても抽象的な論調とならざるをえなくなる。
 そこで,ここでは精神病とりわけ分裂病の場合を主要な対象としてとりあげることにするが,これによつて「薬物と精神療法」の問題はかなり限定されてくる。しかし,この場合,通常の薬理学的発想のように,「ある薬物が患者のどこにどう作用するか」とか,精神療法家がよく問題にするように,「ある技法が患者をどのようにして治癒にもたらすか」といつた,薬物や精神療法を主要名辞にすえてそれらの「作用機序」や「治癒機転」を考えるのでは,やはりメカニズムが論議の対象となつて,いきおい人間の主体性は見失われ,したがつて人間像の問題につながつてこない。(むろん「作用機序」や「治癒機転」の研究がべつの関連で正当性をもちうることは断わるまでもない)。

指定討論

著者: 藤田貞雄

ページ範囲:P.465 - P.467

 宮本先生はこの問題を非常に広汎な範囲から論じつくされましたので,さらに追加とか反論はありません。ただ姑息的な付議にとどまると思います。
 先生の論旨は要するに薬物療法が下から上へという方向をもち,その反対の上から下へという方向をもつ精神療法がまじわる点がLiebという領域である。薬物療法はleibliche Therapieまで高められなければならないという点にあるのかと思います。

薬物療法の批判的研究の立場から

著者: 佐藤倚男

ページ範囲:P.467 - P.472

I.はじめに
 この特集では,それぞれに対して,一定の役割が期待されている。筆者への期待は,薬物信仰者であるらしい。薬物効果を信ずるものとして,そのいいぶんを話させてみよう,それに対して討論をしてみたいというのが,会長および司会者からの指名理由になつたらしい。このようなことになつた遠因は,精神療法の効果を信ずる人びとに対して,私が強の批判をあびせていると思われているからであろう。しかし私は,精神療法の効果を簡単には肯定しないのみではなく,薬物療法についても,簡単に,薬が効いたとは肯定しない。向精神薬にしても精神療法にしても,それぞれの信仰者が口にするほどには効果がないらしいし,いかなる対象に,どの程度に,どのように,どのくらいのあいだ効いているかについて,われわれはもつと確実なデータを集めてゆくべきだと考える。そのために私は,薬物の効果を調べているわけである。
 薬物効果を調べているものは,薬物効果信仰者であるという受け取りかたは,単純素朴な受け取りかたであつて,ここにこれから述べるわれわれのデータは,薬物効果はたしかに存在するが,それは従来考えられていたよりも,はるかに低い効果であり,薬物効果以外の効果というものが存在することをも,同時に立証したといえる。

指定討論

著者: 江熊要一

ページ範囲:P.472 - P.475

 私は佐藤先生が薬物一辺倒であると考えておりましたので,おおいに討論できると思つていましたところ,私の考えと根本的には相異がありません。したがつて私の話はむしろ追加ということになりそうです。
 ただ私は病院内の患者でなくて,社会生活のなかでの患者を見ている点で,佐藤先生が今後問題として残された点の一部を明確にしたいというわけであります。また,私は少し変わつた立場でお話いたしますので他の諸先生に対する討論になるかもしれませんが,討論者でなくて,主話者の気持でお話いたします。ただし時間は10分です。

研究と報告

嫉妬妄想について—分裂病者における共同体感情の障害についての考察(1)

著者: 小久保享郎

ページ範囲:P.479 - P.483

I.序言
 「嫉妬」は,これを広義にとれば,男女老幼を問わず,広く人間世界に(動物世界にも)みられる,ありふれた現象である。しかし嫉妬を定義することは簡単ではない。哲学的,心理学的に,古来そのこころみは多いが,むしろ文学作品のうちにたくまずして嫉妬の実体がなまなましく描き出されているのは興味深い1)。ここでは,箇潔にして要を得ていると思われるLagache, D. のつぎの言葉を示すにとどめる。「人は,自分が正当に所有すると考えている人間またはその愛情を奪われもしくは奪われる可能性に対して嫉妬する。」***
 このような嫉妬が,正常なものか,病的なものかという区分けをすることはさらに困難な問題である。周知のように,Freud, S. 2)は嫉妬を 1)競争的な嫉妬または正常の嫉妬,2)投射された嫉妬,3)妄想的な嫉妬の3つに分け,Jaspers, K. 3)は,1)正常心理的嫉妬,および,2)病的嫉妬と,3)妄想的嫉妬,および,4)嫉妬妄想を対比させて区別したが,いずれにせよその分類の根拠は明確でない。ここではかかる本質論にはふれず,ひとまず「被害妄想の一種としての嫉妬妄想」として論を進める。

ナルコレプシーの治療経過中に生じた幻覚症について

著者: 西山詮 ,   本多裕 ,   鈴木二郎 ,   高橋康郎

ページ範囲:P.485 - P.491

 (1)ナルコレプシーに幻覚妄想状態を伴つた3例を報告した。
 (2)幻覚は幻聴を主とし,外界に定位され,実在感を伴つた。いいかえれば,それはただちに身近かな具体的人物の声として受け取られ,これに支配された行動が見られた。なお1例において異常体感を呈した時期がある。妄想は内容および発現が幻覚に密接に関係しており,その一次的意義は認められない。そして幻覚体験に対する病識欠如とともに遷延する傾向が認められた。
 (3)われわれの症例は,台の報告例と異なり,一種の夢幻状態を背景とした入眠幻覚の妄想的発展とは異質な病像である。
 (4)病像の構成や薬物との時間的関係において,その経過を分析することにより,それが本質的には中枢刺激剤による幻覚症に属し,初期の一時期にのみ入眠幻覚が加わって錯綜した病像を呈したと考える。
 (5)家族歴,既往歴に明らかな精神疾患の負因および外的要因をみず,病前性格にもとくに病的傾向は認められなかつた。この点分裂気質や潜在的な内因性精神病が薬物により幻覚妄想状態として誘発されたのであろうという従来の見解には,にわかに賛成しがたい。
 (5)頻度は中枢刺激剤により治療したナルコレフ。シー約150例中3例と低く,他の幻覚症と軌を一にする。この点個体の側の特殊な準備性を考えさせるが,これについては従来の素因論による説明では不十分であり,中枢刺激剤の薬理作用の解明なしには論じがたいと考える。また第3例はamphetamine系に属さないmethylphenidateのみによつて同様の幻覚妄想状態を呈した点,注目すべき事実であろう。

ガソリン吸嗅嗜癖—症例報告

著者: 後藤忠久 ,   小笠原暹 ,   本間俊行 ,   平野喬 ,   吉田偕迪

ページ範囲:P.493 - P.497

I.はしがき
 麻薬覚醒剤をはじめ睡眠剤などの薬剤嗜癖は日常まれな現象ではないが,ガソリン嗜癖はきわめてまれであると考えられる。世界の主要な文献を見たところでは,知りえたのは十数例の報告のみである1)〜11)(第2表参照)。
 われわれはガソリン吸嗅嗜癖の1例を経験したが,かかる例は本邦にはまだ報告されていないのでここに報告する。

TPN 12の使用経験

著者: 島薗安雄 ,   風間興基 ,   田中恒孝 ,   岡一朗 ,   道下忠蔵

ページ範囲:P.501 - P.508

I.まえがき
 最近10年あまりにおける向精神薬の発達はめざましく,なかでもphenothiazine誘導体からは数多くの薬剤が開発され,治療に供されている。phenothiazine誘導体のなかでも,とくにdimethylamino誘導体のなかにはすぐれた薬剤が多い。これに反してpiperidine誘導体は一般に副作用が強く,効果が比較的弱いため現在のところthioridazineのみが使われているにすぎない。
 “TPN 12”すなわち3-methylsulphonyl-10-(2′-(N-methylpiperidil-2")-ethyl-1')-phenothiazineはサンド薬品株式会社で新しく開発されたpiperidine誘導体で,第1図に示すようにスルフォン側鎖をもつ,thioridazineの酸化物である。本剤の薬理学的特性についてみると,ラットの感情的排便の抑制作用はthioridazineと同程度に強く,マウスの運動活性に対する抑制すなわち自発性を抑制する作用やアンフェタミンによる機能亢進を抑制する作用はthioridazineの2〜3倍強力で,ラットのカタレプシー効果はchlorpromazineより弱くthioridazineより強力である。またマウスに対する麻酔の相乗作用やモルモットにおけるアドレナリン遮断作用もthioridazineの約2倍強力である。毒性についてみると,ラットに対するLD 50はthioridazineの約1.5倍である。このように“TPN12”は抗情動作用および運動抑制作用が強いのが特長である。

N-7001(Melitracen)の臨床治験

著者: 佐々木邦幸 ,   藤谷豊 ,   栗原雅直 ,   広瀬徹也 ,   豊田純三 ,   遠藤俊一 ,   野口拓郎

ページ範囲:P.509 - P.513

I.はじめに
 抗うつ薬の開発は,近年まことにめざましく,十指にあまるほどのものがすでに日常使用されており,さらに新しく登場してくる現状である。imipramineの治療経験を初めとして,われわれはこれらの薬物の臨床的検討をつづけてきたが1),今回N-7001(Melitracen)(TAN 15)を臨床的に使用し,以下に述べる結果を得たので,症例経験ならびに若干の考察を加えて報告する。

TAN-15による治療経験

著者: 島崎敏樹 ,   高見沢ミサ

ページ範囲:P.515 - P.519

I.はじめに
 うつ病およびうつ状態に対する治療薬として大別されているものに,刺激剤(stimulant),MAO阻害剤および感情調整剤(thymoleptica)がある。刺激剤は,有効な場合もあるが一般に付加的な役割しかもたないといわれており,MAO阻害剤は,肝障害が起こりやすいためその適応範囲がかなり制限されている。現在おもにもちいられているのは最後の感情調整薬thymolepticaである。
 今回われわれは,各種うつ状態にこのthymolepticaに属する新しい抗抑うつ剤TAN-15を使用し,興味ある成績を得たので報告する。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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