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雑誌目次

雑誌文献

精神医学9巻4号

1967年04月発行

雑誌目次

特集 精神療法における治癒機転 第63回日本精神神経学会総会シンポジウム

はじめに

著者: 懸田克躬

ページ範囲:P.237 - P.237

 精神療法における治癒機転に関するシンポジウムを企図した理由は,精神療法における真の治癒機転の究明が実はけつして明らかにされてはいないという考えからであります。もちろん,いろいろの精神療法が提唱され,かつ,実施されて治療効果をあげていることはみなさんのご承知のごとく事実であります。そしてその治癒という現象に対しては,その精神療法の方法論の背景となる神経症論,あるいは人格理論にもとづいての説明はなされていることも私どものよく知るごとくであります。
 たとえば,精神療法にとつて適応症例といいうるであろう強迫神経症を例にとつてみましよう。強迫神経症の成因,本態あるいはその治療の方法とその理論的根拠とに関する理論あるいは主張の数多く見られることはどうしたわけでありましようか。各人が各人の神経症に関する理論と治療法とを身につけているといつても過言ではないのではありますまいか。そして,このような事態はけつして科学というにふさわしい理論にとつて好ましい,あるいは妥当するものではあるまいと思われます。

アンケートからみた神経症患者の治療成績

著者: 秋月誠

ページ範囲:P.238 - P.242

I.はじめに
 神経症の概念に関しては,種々の見解があり,それぞれの立場により,精神療法の方法も異なつている。しかし,多くの精神科医は神経症患者の治療にさいし,特定の理論体系にもとづかない,いわゆる一般的精神療法を薬剤を併用しながら,行なつているのが現状ではないかと考える。また,大学病院の外来のように,たくさんの患者を多くの医師によつて治療するところでは,患者とのつながりは,ややもすれば,カルテのうえだけとなり人間的なつながりが失われがちになると思われる。
 そこで著者は治療者と患者の人間関係を重視し,一般的精神療法6)9)を行なつてきた。しかし,このような方法で治療された患者の遠隔治療成績などについてのくわしい報告を知ることができなかつたので,治療中止後の現在いかなる状態にあるかなどについて,アンケート調査を行なつた。その結果を報告するとともに,治癒機転などについて考察を行なつた。

精神療法における治癒機転に関する一考察(第1報)

著者: 渡辺久雄

ページ範囲:P.243 - P.247

Ⅰ.緒言
 精神療法における「治癒機転」の究明は,精神療法のもつ意味をさぐり,医学的治療法としてさらに一歩進展せしめる意義をも有すると考えられる。「治癒機転」を論ずるとき,そこには1人で〈あゆむ〉ことができなくなつた病者が,精神療法によりふたたび新たな〈あゆみ〉を可能にしていく姿をみることができ,この新たな〈あゆみ〉を可能にした契機と,契機たらしめた「治療状況」を症例をとおして可及的に詳密にすることにより,「治癒機転」をうきぼりにしたい。

指定討論

著者: 佐野新

ページ範囲:P.247 - P.249

 神経症の治療にはまず診断が重要視されなければならない。神経症の種類によつて精神療法の方向づけが決められるからである。
 演者は症例について治療を可能にした契機をくわしく観察して,病者が治療に対して能動的な役割を演じることを自覚して,そのことが治療関係を展開させ,病者が自照,自彊,自立の必要性を体得することが精神療法の治癒機転につながりがあるものであるといわれた。

精神療法における治癒機転の共通性の問題にかかわる治癒の概念の果たす役割について

著者: 浅田成也

ページ範囲:P.250 - P.253

Ⅰ.はしがき
 一般に精神療法では,自己の統制ができ,単一な実在として自己を肯定し,統一的なはたらきのできる,自らによる自律性にかかわる治療目的をもつているということができる。しかし治癒という状態では,その社会性を通じての適応とくに与えられた仕事に没頭できる能力のあることが不可欠要件であり,単に症状にまつわる問題などを通じての意識化による自己の統一に関する過程に治癒機転の問題をしぼるだけでなく,自己の統一ということのなかに,没頭して自己を滅却しうるというはたらきが出てくることにも注目する必要があると思われる。
 そこでは,対人関係を通じての意識化にかかわる治癒の概念に加え,自己と対物的対象との間にみられる「はたらき」にかかわる治癒の概念の存在理由と,また両者の概念を通じての治癒機転の共通性の問題に関する課題が注目されることになる。

指定討論

著者: 白石英雄

ページ範囲:P.253 - P.254

 用語にもりこまれている意味の深さをはかりかねたことと,東洋的思惟に私自身がどれほどなじんでいるのか見当がつかないことのために,演者のご意図にそぐわない討諭にならないかと心配いたします。私は精神分析的見地にたつていくつかの点につき討論をいたしたいと思います。演者は治癒機転という問題に重要な役割を占める治癒の概念について,東洋的思惟のたてまえから従来の欧米的な学問のなりたちをこえ,いわば直観的な把握をなし,そこからふたたび従来の分析的精神医学へと関連づけてゆくという労作をこころみられているようで,そのご努力に敬意を表します。
 演者は「自我の統合」(これは欧米的な意味)や「没我—自我の滅却」(これは仏教的な意味),そして「意識・無意識」(これは分析学的な意味)といつた言葉をもちいて述べられました。そのために私のほうには定義上の混乱が生じて困惑しました。その一方,もしかすると演者にも上述の用語の理解に徹底を欠いておられるのではないかと感じました。たとえば「自我の統合ということのなかには,また自我を滅却しうるというはたらきがなければならぬ」と述べておられますが,推測で申しわけないですけど演者はお気持の底において,欧米的な意味での自我の統合と仏教的な意味での自我の滅却とはいくぶん相反する心の動向だと思つておられるのではないかと見受けました。私はごく通常の意味で「成熟した自我の統合は自我の滅却という面をもつものである」と考えております。

治癒機転における自己超越について

著者: 藤田千尋

ページ範囲:P.255 - P.259

I.はじめに
 精神療法によつて治癒がどのようにして起こるのかは容易に解明されることではないが,治癒をうながすと思われる契機が精神療法における人間関係のなかでつくられることは十分考えられるし,それを転機として治癒状態に向かうとすれば,病者がその契機を受けとつていく,その受けとりかたを考えることも意味のないことではあるまい。
 これらの契機は,個人の意識にさまざまの現われかたを示すが,多くは偶然的である。しかし,病者がこの偶然の事象を必然的なものとして意識に展開していくのは,病者の内在的な秩序からつくられるものと考えられる。この心的態度の変様の経過を一般的にみると,精神療法の技術的要因と技術外のもの,すなわち,生活環境的要因とが作用する過程であり,前者では,治療者と病者との治療的人間関係,とくに両者の直観,感応,共鳴などの感情移入的体験や同一化をとおしての内的秩序化が考えられ,後者の場合では,生活実践での諸体験や新たな行為の獲得が問題となる。自然治癒6)7)が問われるのはこのような場合である。

指定討論

著者: 阪本健二

ページ範囲:P.259 - P.262

 演者はご講演のなかで実に数多くの興味ある問題を提出しておられますので,私がかぎられた時間内でこれのすべてについて論じることは不可能であります。
 そこでここでは,細部の議論ではなく,演者の示された症例における治癒機転を演者の表現をおかりして,つぎのように理解してみました。つまり,まず病者は治療の過程で多くは偶然的な契機によつて意識内容に飛躍的な変様を受けると演者は主張されます。そしてその主張を裏づけるべく森田療法により治療せられた症例を提出しておられます。ここでまず考えてみたいことは,この症例をも含めて一種の洞察の始まりとでもいうべき意識変様が多くの場合偶然によるとせられている点であります。病者の症状軽快の理由がしばしば治療者にとつて十分理解できないことのあるのは,われわれ精神療法家がよく経験することではありますが,それがただちにこの事実が偶然によることを意味するとは考えられません。むしろ,あらゆる精神療法家のもつ目的の一つは,病者の内部,その世界,治療者の内部,および治療者と病者の間に生じる具体的な現象に対して,自己の洞察を深めることではないかと思います。そして,このことこそ,われわれが精神療法家としての自らを律する最大の規準の一つでなければなりません。もつとも,そうは申しましても,それと同時に病者のなかに存在する治癒力に対する畏敬の念を失つてはならないことは当然のことでありますし,ての畏敬の念のために,ときには病者の洞察の発生が偶然のごとく感じられることのあるのも,事実でありましよう。

精神療法の治療機序および治癒機転—自然治癒における治癒機転との異同

著者: 小此木啓吾 ,   延島信也

ページ範囲:P.263 - P.269

Ⅰ.「精神療法における治癒機転」とは
 「精神療法における治癒機転」を論ずるにあたつて,まずわれわれの立場や意図を明確にしておきたい。

指定討論

著者: 前田重治

ページ範囲:P.269 - P.271

 ただいまのご発表には,とりあげたいいくつかの問題点が含まれていたように思います。なかでも,治癒機転を治療機序と区別して考えられたこと,また治癒機転を自然治癒という立場から考えようとされていたことを興味深く聞きました。演者は,臨床的に具体的に話を進められたので,私もその線にそつて二,三の質問をいたします。
 (1)まず初めに,「自然治癒」というコトバについて。演者はその概念を少しひろげすぎていられるように思いました。ふつう自然治癒という場合には,自律的な健康保持機能―人間にそなわつているhomeostaticな機能によつて病気がよくなつてゆく過程と考えられています。たとえば,Schultzの自律訓練法で,患者の身体症状がよくなつてゆくのは,自然治癒的な機転を中心に考えられています。一定の練習方法によつてつくられた特有な体制(autogenic state)のもとでは,大脳皮質と間脳との相互関係が自律的に変化し,それまで障害されていた,あるいは十分に発揮されていなかつた自己調整の能力が増進するようになると考えられています。このような自然治癒に対して,一方では,医学的な治療のあとで自然になおつたようにみえる場合も含めて考えられているようです。両者は一応区別して考えていつたほうがよいのではないでしようか。

精神療法一般の治癒機転についての一考察

著者: 笠原嘉

ページ範囲:P.273 - P.277

Ⅰ.治癒のプロセスにおける不連続性
 いわゆる小精神療法(説得,暗示,浄化,催眠など)から,精神分析はもとより,森田療法など特有の体系をもつ精神療法まで,一応精神療法という名でわれわれが考えているすべてを一括して念頭においたうえで,それらに共通してみられる,いわば基本的ともいうべき治癒機転をあえて取り出そうとするのが,この小論の目的である。もしこの試みが成功するなら,そのような「基本的」な機転とは,個々の,たとえばとりいれ,同一視,洞察などすでにいわれている多くの治癒機転のいずれをもその背後において支えうるものでなければならぬはずである。
 まず,治療中にくりかえし感じる私個人のつぎのような印象を述べることから始めたい。それは,治療者である私にとつて「治癒」ないしは「好転」の機転は,「悪化」ないしは「再発」の機転に比べて,はるかに理解しにくいように思えてならない,ということである。患者は事実たいへんよくなってしまつているのに,治療者たる私にはかれがなぜかくもよくなったかについて少なくとも十分には納得がいかない。そういう場面にしばしば出くわすのである。これに反し「再発」時のメカニズムの方は,少し長く治療している例では,あらかじめ予測することもそれほど困難ではない。もちろん好転のさいの機転が了解しにくいということのいくぶんかは私の不明に帰せられるべきことなのであろう。しかし一般に,治療終了後の患者の回想を聞いていると,「悪化」のプロセスの語られかたに比べて「好転」のそれの語られかたのほうは,描写力に乏しいという意味で生彩さに欠ける。

指定討論

著者: 土居健郎

ページ範囲:P.277 - P.280

 笠原氏のご意見にだいたいは賛成であるが,若干補足的な意見を追加したいと思う。
 まず治療の好転の転機のほうが悪化の転機よりも理解しにくいという点であるが,これは一般的にいつて病的現象のほうが健康状態よりも記述しやすいということと関係があるのではなかろうか。だいたい悪化の転機が本当に理解できるならば,好転の転機もおのずから理解できるようになるのだと私は思つている。そこで私は精神療法の初心者によくつぎのような話をする。もし精神療法の結果患者の状態が悪化するようならば,やりかたしだいでよくなるはずだ,と。精神療法の結果なにかがそこに起こるから悪化するのであつて,それが何であるかを究明できるならば,それこそ禍転じて福となすで,それを逆に利用することが可能となるからである。

治癒機転と罪悪感

著者: 安永浩

ページ範囲:P.281 - P.285

 司会者のご出題である「精神療法治癒機転の共通項……」のうち,はからずも「倫理」的な方面を代表するようなかたちになりましたが,もちろんこれだけが治癒機転である,などと申すつもりはありません。また,本格的な道徳の問題については,Feuer, L. S,やFromm, E. の労作がありますけれども,きようはもつと端的,平凡に,治療的罪悪感の問題に焦点をあててみたかったのであります。したがつてはなはだかぎられておりますが,べつな意味では普遍的なものにつながるようでもあります。書きあげてみますとあたりまえのことだつたような気がしまして恐縮ですが,私自身にとつてはこれが一つの悟りにはなつておりまして,実地にさいしての心組みがだいぶ楽になつたのであります。
 一つのエピソードで始めさせていただきたいと思います。私が医者になつてまだまもないころと記憶しておりますが,先輩から聞かされた話でありまして,また聞きのまた聞き,といった話ですので,事実は確かでありませんが,要旨はつぎのようなものでした。

指定討論

著者: 岩崎徹也

ページ範囲:P.285 - P.290

 純粋罪悪感というユニークな立場に立たれた先生のこ発表を,たいへん興味深く拝聴いたしました。先生のご発表は,臨床経験の深い実践のなかから生まれたものであると存じ,その点にまず敬意をはらいます。きようのご発表は,今後のわれわれの治療の実践にさいして,理論的にも技法的にも非常に有益なご示唆をいただいたものと思います。
 先生のおつしやる純粋罪悪感を,患者がもてるようになつたということは,これを対象関係として考えると,その患者に"我と汝"的な対象関係がはつきりと確立されたことを意味すると思います。これをまた,対人関係論的にながめると,相手を傷つけ罪悪感を感じながらも,そのたびに相互性mutualityを回復することができるというところに,純粋罪悪感発生の意義があると思います。

回顧と経験 わが歩みし精神医学の道・10

東京大学への転任と傑出人脳の研究

著者: 内村祐之

ページ範囲:P.292 - P.299

 私が札幌に在任していた昭和2年から11年にわたる期間は,わが国の政情がすでに安定を失つた時期であつた。すなわち昭和6年には満州事変,続く昭和7年には5.15事件が起こり,昭和11年に至つて,ついに2.26事件の暴発を見るというわけで,軍部勢力の抬頭と,これに伴う国内および国際情勢の緊迫は,無気味な未来を暗示するかのようであつた。しかし政治の中心地から遠く離れた北海道には,さほどの切迫感も伝わらず,また教室の創設と研究の促進とに全力を傾けていた私には,それほどの危機とも感じられなかつたのである。
 のみならず,当時の私は,大学や学部の運営というような,事務的責任を多く負わされぬ若輩であつたので,ひた向きに専門の研究に没入することができた。今から振り返つてみると,外国留学と北海道在任とを合わせた10年に余る期間が,私の一生涯中の最も恵まれた時期であつたと言えるように思う。

基本情報

精神医学

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-126X

印刷版ISSN 0488-1281

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