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書評「医の道を求めて―ウィリアム・オスラー博士の生涯に学ぶ」
著者: 木下和夫1
所属機関: 1宮崎医科大学
ページ範囲:P.775 - P.776
文献購入ページに移動 私の医学部生時代(1951-1955年),わが国医学界は米国医学の強い影響を受けていたとはいえ,オスラーは教科書でオスラー結節というのを知り,アメリカの偉い内科の先生であったくらいしか知りませんでした.
ところが,私が脳神経外科医として留学(1964-1965年)した先は,オスラーの母校であるマギル大学の付属のMontreal Neurological Institute(MNI)であり,その創設者のペンフィールドはローズ奨学生としてオックスフォード大学に学んだ際,オスラーの薫陶を受けた間柄であったのです.私はMNIでは,まず神経病理学を学んだので,脳を取り出しに隣のPathological Instituteに行った際,剖検室に近い部屋に,数十個の大きな臓器標本ビンが展示されているのに気付きました.よく見ると,それらは全部オスラーが剖検し,教材として液滲標本としたものでした.少々ショックでした.明治時代に作られた標本が,まだきれいに保存され,現に教材となっているなど,わが国ではほとんど考えられないことであったからです(有名人の脳などは保存されていますが).ここで改めて,オスラーはカナダで生まれ,マギル大学で医学を学び,そこの教授となり,その後ペンシルバニア大学教授,更にジョンズ・ホプキンスの教授になったことを知ったのです.最後はオックスフォード大学の欽定教授でした.
ところが,私が脳神経外科医として留学(1964-1965年)した先は,オスラーの母校であるマギル大学の付属のMontreal Neurological Institute(MNI)であり,その創設者のペンフィールドはローズ奨学生としてオックスフォード大学に学んだ際,オスラーの薫陶を受けた間柄であったのです.私はMNIでは,まず神経病理学を学んだので,脳を取り出しに隣のPathological Instituteに行った際,剖検室に近い部屋に,数十個の大きな臓器標本ビンが展示されているのに気付きました.よく見ると,それらは全部オスラーが剖検し,教材として液滲標本としたものでした.少々ショックでした.明治時代に作られた標本が,まだきれいに保存され,現に教材となっているなど,わが国ではほとんど考えられないことであったからです(有名人の脳などは保存されていますが).ここで改めて,オスラーはカナダで生まれ,マギル大学で医学を学び,そこの教授となり,その後ペンシルバニア大学教授,更にジョンズ・ホプキンスの教授になったことを知ったのです.最後はオックスフォード大学の欽定教授でした.
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