文献詳細
今月の主題 線状潰瘍
綜説
文献概要
はじめに
私どもがこの研究を始めたのは胃潰瘍の発生理論が知りたかったからである(今では胃潰瘍のことがその頃より少しはよく分って来たが,それでもまだほんとうのことは分らない).それには手術室で切除される胃の標本をまず組織学的に検索するのが一番の早道であろうと考えた.そこで手術台で胃が切られるや否や待ち構えていて,これを板の上に張りつけてフォルマリンで固定する.2,3日して固定した標本を取り出してスケッチする(写真のフィルムが入手しやすくなってからは写真にとるようにしたが,終戦直後の研究室でまずできることは,目で見てスケッチすることだけであった)さらに切出しをして組織標本を作る.それを病理の平福助教授の所へもって行って見て貰うということを繰り返した.
しかしなかなか潰瘍の特徴がつかめない.すべての例にあるものはfibrosisとEndarteritis obliteransばかりである.潰瘍底にAscanatzyの4層があると言われても,それが2層のことも3層のこともあって釈然としなかった.
一番困ったことは潰瘍が治る病変であるということであった.今見ている像が悪化しつつある姿なのか,治りつつある像なのかの決め手がないのである.少なくとも絶対に悪化しつつある像であるというものを見つけ出せば,発生理論にっながるはずであるがそれができない.病理解剖的にはhaemorrhagische Erosionというものが知られているから,それを探せというのが平福先生の指導であったが,それが切除標本で見つかったのは組織検索例が900番に達してからであった(この点では当時は潰瘍よりも癌の発生の方が分りやすいと思っていた.癌は悪くなる一方で治ることはありえないと考えていたからである.癌は崩れ易いがまた治ることもあるということが分ってきたのは,余程たってからのことである)し,生体でhaemorrhagische Erosionが見っかったのは昭和38~9年になってからであった.
そこで悪足掻きした.何とかして手掛りをつかみたい.しかしいくら潰瘍を調べても決め手が見っからない.こんな時に2,3例,変な潰瘍に出くわした.それが今考えると線状潰瘍であり,また線状潰瘍とkissing ulcerの組合わせであった・しかし研究の惰勢というものは恐しい.これは変った形の潰瘍があるなと感じただけで,自分でそれに真正面から取組むだけの転換はなし得なかった.まず学位論文を書くことの方が先決問題であった.
学位論文が一わたり区切りがついたところで,昭和医大へ行くことになった.しかし,当時の昭和医大ではあまり切除胃が集まらなかったので,東大第二外科の切除胃を当分の間調べ続けさせて貰えるよう,福田先生にお願いした.その切除胃の中にたくさんの線状潰瘍が混じっていたのである.私(村上)はその研究を著者の一人鈴木に頼んだ.「こんな変な潰瘍がある.潰瘍は丸いものと教えられているが,これも潰瘍の一種らしい.
こういう風変りな潰瘍を研究すると,あるいは本物の成り立ちが分るかも知れない.」これらのいきさつは,本号の座談会の鈴木の言葉の通りである.
この鈴木の研究で胃の線状潰瘍の臨床的,病理的特徴が,ほぼ浮き彫りにされた.しかし,私自身はまだ満足していない.というのは線状潰瘍の成因自身は十分明らかにされなかったし,またそれを通じてと考えた円形の慢性潰瘍の成因については,なおさらのことであったからである.したがって,その後も線状潰瘍は一生懸命に蒐集し,今も教室の世良田にその追及を頼んでいる.ところが都合の悪いことに,線状潰瘍の頻度が次第に落ちて来た.鈴木が蒐集した時代,大体昭和20年代では全胃潰瘍のうちの約翅が線状潰瘍であったのに対し,最近の順天堂外科におけるその頻度は,10%台に落ちてきている.また昔のように10cm以上に及ぶ長い線状潰瘍も姿を消し,せいぜい7~8cmのものがあれば,それをこんなに長い線状潰瘍といわなければならなくなってきた.研究がしにくくなったという感じがする.そして先に鈴木が明らかにした線状潰瘍の臨床的な性質については,その正当さがますます確かになるばかりで,その後それにつけ加えるべきものがあまりない.鈴木の論文が外科学会雑誌に載ったため,内科側の読者の目には入りにくかったという難があるので,もう一度書き直しはするが,本文はほとんどその焼直しにすぎないものであることを予めお断りしておく次第である.
私どもがこの研究を始めたのは胃潰瘍の発生理論が知りたかったからである(今では胃潰瘍のことがその頃より少しはよく分って来たが,それでもまだほんとうのことは分らない).それには手術室で切除される胃の標本をまず組織学的に検索するのが一番の早道であろうと考えた.そこで手術台で胃が切られるや否や待ち構えていて,これを板の上に張りつけてフォルマリンで固定する.2,3日して固定した標本を取り出してスケッチする(写真のフィルムが入手しやすくなってからは写真にとるようにしたが,終戦直後の研究室でまずできることは,目で見てスケッチすることだけであった)さらに切出しをして組織標本を作る.それを病理の平福助教授の所へもって行って見て貰うということを繰り返した.
しかしなかなか潰瘍の特徴がつかめない.すべての例にあるものはfibrosisとEndarteritis obliteransばかりである.潰瘍底にAscanatzyの4層があると言われても,それが2層のことも3層のこともあって釈然としなかった.
一番困ったことは潰瘍が治る病変であるということであった.今見ている像が悪化しつつある姿なのか,治りつつある像なのかの決め手がないのである.少なくとも絶対に悪化しつつある像であるというものを見つけ出せば,発生理論にっながるはずであるがそれができない.病理解剖的にはhaemorrhagische Erosionというものが知られているから,それを探せというのが平福先生の指導であったが,それが切除標本で見つかったのは組織検索例が900番に達してからであった(この点では当時は潰瘍よりも癌の発生の方が分りやすいと思っていた.癌は悪くなる一方で治ることはありえないと考えていたからである.癌は崩れ易いがまた治ることもあるということが分ってきたのは,余程たってからのことである)し,生体でhaemorrhagische Erosionが見っかったのは昭和38~9年になってからであった.
そこで悪足掻きした.何とかして手掛りをつかみたい.しかしいくら潰瘍を調べても決め手が見っからない.こんな時に2,3例,変な潰瘍に出くわした.それが今考えると線状潰瘍であり,また線状潰瘍とkissing ulcerの組合わせであった・しかし研究の惰勢というものは恐しい.これは変った形の潰瘍があるなと感じただけで,自分でそれに真正面から取組むだけの転換はなし得なかった.まず学位論文を書くことの方が先決問題であった.
学位論文が一わたり区切りがついたところで,昭和医大へ行くことになった.しかし,当時の昭和医大ではあまり切除胃が集まらなかったので,東大第二外科の切除胃を当分の間調べ続けさせて貰えるよう,福田先生にお願いした.その切除胃の中にたくさんの線状潰瘍が混じっていたのである.私(村上)はその研究を著者の一人鈴木に頼んだ.「こんな変な潰瘍がある.潰瘍は丸いものと教えられているが,これも潰瘍の一種らしい.
こういう風変りな潰瘍を研究すると,あるいは本物の成り立ちが分るかも知れない.」これらのいきさつは,本号の座談会の鈴木の言葉の通りである.
この鈴木の研究で胃の線状潰瘍の臨床的,病理的特徴が,ほぼ浮き彫りにされた.しかし,私自身はまだ満足していない.というのは線状潰瘍の成因自身は十分明らかにされなかったし,またそれを通じてと考えた円形の慢性潰瘍の成因については,なおさらのことであったからである.したがって,その後も線状潰瘍は一生懸命に蒐集し,今も教室の世良田にその追及を頼んでいる.ところが都合の悪いことに,線状潰瘍の頻度が次第に落ちて来た.鈴木が蒐集した時代,大体昭和20年代では全胃潰瘍のうちの約翅が線状潰瘍であったのに対し,最近の順天堂外科におけるその頻度は,10%台に落ちてきている.また昔のように10cm以上に及ぶ長い線状潰瘍も姿を消し,せいぜい7~8cmのものがあれば,それをこんなに長い線状潰瘍といわなければならなくなってきた.研究がしにくくなったという感じがする.そして先に鈴木が明らかにした線状潰瘍の臨床的な性質については,その正当さがますます確かになるばかりで,その後それにつけ加えるべきものがあまりない.鈴木の論文が外科学会雑誌に載ったため,内科側の読者の目には入りにくかったという難があるので,もう一度書き直しはするが,本文はほとんどその焼直しにすぎないものであることを予めお断りしておく次第である.
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