icon fsr

文献詳細

雑誌文献

臨床整形外科10巻11号

1975年11月発行

文献概要

視座

SICOT−78日本開催決定す

著者: 天児民和12

所属機関: 1九州大学 2九州労災病院

ページ範囲:P.949 - P.949

文献購入ページに移動
 1978年の第14回国際整形外科,災害医学会(SICOT)は日本で開催することに決定された.思い起すとここまで到達するのに長い年月であった.戦前はSICOT(Socite internationale de chirurgie orthopedique et de traumatologie)は日本に何の情報も流して来なかった.本学会は1929年Parisで主としてラテン系諸国の間で話がまとまり第1回の学会が開かれた.当時ドイツは敗戦後の混乱とインフレで萎縮していた.英米も余り多くは参加していなかった,その余波は今日に及び,比較的ラテン系の国に会員が多く,ドイツ系は少ない.日本では亡くなられた東大三木教授がSICOTに関する情報を集められ5名の会員の承認を受けたのに始る,私はMayo clinicのHendersonよりの指示で1957年Barcelonaの学会に参加した.会場で三木教授と渡辺正毅博士を発見した,日本人は3人であった.当時渡辺博士も私も会員ではなかった.会場は大きな講堂一つで通訳もなかった.討論は互に相手の言う事がわからないので時には当時OxfordにいたTrueta教授のごとき英,仏,西の3カ国語に通じている人が仲介に立ったこともあった位である.学会の運営は終戦後の日本から出席した私にもまずいと感じられた.特に米国人には不満も多く,この学会をよくするには米国人の会員を多くし,次同は米国で開催するがよいと公然と言っていたが,次の1960年の学会は米国でしかもNew Yorkで開かれた.
 それから本学会が近代化したと言っても過言ではない.Barcelonaにおける三木教授の夢はいつの日か日本にこの学会を誘致したいことであったであろう.しかし不幸にして三木教授は1966年夢を残したまま亡くなられた.その後を私が継いで来た.Mexicoで1969年に開かれた第11回のSICOTから私がdelegateとして働いて来た.当時口本のSICOT会員は20名に過ぎなかった.それから毎年20名の増員を要求して,私も毎年delegateとしてinternational committeeに出席した.初めは会員を2倍にするのは無理とまでこ言っていたが,会費納入も早く,滞納者は一名もないので好評となり6年問20名ずつ増員して遂に本年のCopenhageriの学会では140名まで認められた.米国に次ぐ第2の会員数である.私も木部との連絡をよく保ち,本部からの間合せには直に返事を出すことにして来たので,私を他国の新しいdelegateに紹介するのにmost efficient delegateと言っていた.これは会員諸兄の私に対する協力と御支援の結果であって深く感謝申し上げます.

掲載誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-1286

印刷版ISSN:0557-0433

雑誌購入ページに移動
icon up

本サービスは医療関係者に向けた情報提供を目的としております。
一般の方に対する情報提供を目的としたものではない事をご了承ください。
また,本サービスのご利用にあたっては,利用規約およびプライバシーポリシーへの同意が必要です。

※本サービスを使わずにご契約中の電子商品をご利用したい場合はこちら