視座
SICOT−78日本開催決定す
著者:
天児民和12
所属機関:
1九州大学
2九州労災病院
ページ範囲:P.949 - P.949
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1978年の第14回国際整形外科,災害医学会(SICOT)は日本で開催することに決定された.思い起すとここまで到達するのに長い年月であった.戦前はSICOT(Socite internationale de chirurgie orthopedique et de traumatologie)は日本に何の情報も流して来なかった.本学会は1929年Parisで主としてラテン系諸国の間で話がまとまり第1回の学会が開かれた.当時ドイツは敗戦後の混乱とインフレで萎縮していた.英米も余り多くは参加していなかった,その余波は今日に及び,比較的ラテン系の国に会員が多く,ドイツ系は少ない.日本では亡くなられた東大三木教授がSICOTに関する情報を集められ5名の会員の承認を受けたのに始る,私はMayo clinicのHendersonよりの指示で1957年Barcelonaの学会に参加した.会場で三木教授と渡辺正毅博士を発見した,日本人は3人であった.当時渡辺博士も私も会員ではなかった.会場は大きな講堂一つで通訳もなかった.討論は互に相手の言う事がわからないので時には当時OxfordにいたTrueta教授のごとき英,仏,西の3カ国語に通じている人が仲介に立ったこともあった位である.学会の運営は終戦後の日本から出席した私にもまずいと感じられた.特に米国人には不満も多く,この学会をよくするには米国人の会員を多くし,次同は米国で開催するがよいと公然と言っていたが,次の1960年の学会は米国でしかもNew Yorkで開かれた.
それから本学会が近代化したと言っても過言ではない.Barcelonaにおける三木教授の夢はいつの日か日本にこの学会を誘致したいことであったであろう.しかし不幸にして三木教授は1966年夢を残したまま亡くなられた.その後を私が継いで来た.Mexicoで1969年に開かれた第11回のSICOTから私がdelegateとして働いて来た.当時口本のSICOT会員は20名に過ぎなかった.それから毎年20名の増員を要求して,私も毎年delegateとしてinternational committeeに出席した.初めは会員を2倍にするのは無理とまでこ言っていたが,会費納入も早く,滞納者は一名もないので好評となり6年問20名ずつ増員して遂に本年のCopenhageriの学会では140名まで認められた.米国に次ぐ第2の会員数である.私も木部との連絡をよく保ち,本部からの間合せには直に返事を出すことにして来たので,私を他国の新しいdelegateに紹介するのにmost efficient delegateと言っていた.これは会員諸兄の私に対する協力と御支援の結果であって深く感謝申し上げます.