文献詳細
連載 整形外科と蘭學・3
文献概要
築地の聖路加国際病院前に「蘭学の泉はここに」という碑文が建っている.ここはかつて中津藩主奥平家の中屋敷の跡で,明和8(1771)年,中津藩医前野良沢が自らの屋敷内で「ターヘル・アナトミア」を杉田玄白,中川淳庵,桂川甫周らの協力を得て翻訳をした場所である.このときの蘭学創業の苦労を杉田玄白がまとめたものが「蘭学事始」である.この本が有名になったのは大正10(1921)年,菊池寛が小説「蘭学事始」を「中央公論」に発表し,その一部が中学の国語教科書に転載され,昭和5(1930)年に岩波文庫に収録され,今では誰でもその口語訳を読むことができるからである.杉田玄白が83歳という高齢でありながら,記憶をもとに書き残した本書の原稿は,長い間出版されることもなく,杉田家の倉の中にあり,安政2(1855)年の江戸大地震で焼失してしまった.
慶應2(1866)年,神田孝平が本郷通りを散歩していたときにたまたま見つけた古びた「蘭学事始」の写本は,杉田玄白が門人の大槻玄沢に贈ったものであった.先を争ってこの本を写しとった神田の学友たちのなかに,津山出身の蘭学者で箕作秋坪というものがいた.秋坪は交友の厚かった福澤諭吉と対坐して繰り返しこれを読み,「艪舵なき船の大海に乗り出せしが如く,茫洋としてよるべきかたなく,ただあきれにあきれて居たるまでなり」のあたりでは,ともに感涙に咽び泣いた.その後江戸は明治維新の動乱にまきこまれていったが,諭吉は上野の彰義隊と官軍との戦いの最中も,ウェーランドの経済書を慶應義塾で平然と講義し慶應義塾のある限り日本は文明国であるといった.
慶應2(1866)年,神田孝平が本郷通りを散歩していたときにたまたま見つけた古びた「蘭学事始」の写本は,杉田玄白が門人の大槻玄沢に贈ったものであった.先を争ってこの本を写しとった神田の学友たちのなかに,津山出身の蘭学者で箕作秋坪というものがいた.秋坪は交友の厚かった福澤諭吉と対坐して繰り返しこれを読み,「艪舵なき船の大海に乗り出せしが如く,茫洋としてよるべきかたなく,ただあきれにあきれて居たるまでなり」のあたりでは,ともに感涙に咽び泣いた.その後江戸は明治維新の動乱にまきこまれていったが,諭吉は上野の彰義隊と官軍との戦いの最中も,ウェーランドの経済書を慶應義塾で平然と講義し慶應義塾のある限り日本は文明国であるといった.
掲載誌情報