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連載 整形外科と蘭學・20
大江春塘と中津バスタード辞書
著者: 川嶌眞人1
所属機関: 1川嶌整形外科病院
ページ範囲:P.704 - P.706
文献購入ページに移動去る4月のはじめ,筆者が昨年会長を務めた日本医史学会が大阪で開催されたのを機に大阪歴史博物館を訪れた.ちょうど日本医学会が大阪で開催されていたという事情もあってか「大阪の医学史」というテーマで特別展に特設コーナーが開設されていた.内容は江戸時代の大坂を代表する医塾,合水堂と適々斎塾(通称適塾)の紹介であったが,豊前中津から大阪に出てきて,それぞれの塾で研鑽に励んだ2名の中津藩士の史料を中心に構成されていた.1人は福澤諭吉で,安政2(1855)年に緒方洪庵の「適塾」に入門,やがて塾頭となり,江戸に移って慶応義塾を創設,近代日本の建設に大きな役割を果たした.もう1人は華岡青洲の弟,良平(鹿城)が創立した紀州華岡医塾春林軒の大坂分塾「合水堂」に天保12(1841)年に入門した大江雲澤で,中津に帰って明治4(1871)年に奥平旧藩主の援助で創設された中津医学校の初代校長となり,地域で生きる医師を養成,伝染病の予防や奨学金を出すなど地域医療の人材育成と近代化に貢献し,市民の健康回復の場として豊後町に「大江風呂」という薬湯を創設,1991年の19号台風で煙突が倒れるまで運営されていた.薬湯の歴史を生かそうと「マンダラゲの会」が市民ボランティアによって結成され,毎年春と秋に薬草の植栽と収穫が行われ,中津蘭学の勉強会と史跡巡りも行われている.
今年の例会で九州大学のヴォルフガング・ミヒェル教授は,この大江家と祖先を同じくする中津市京町の大江春塘について講演を行った.長い間詳細が不明であった春塘について,多くの史料を調査された結果,控えめで史料を残すことが少ないわりに蘭学の歴史の中ではきら星のような業績を残して消えていった春塘の実像が浮かび上がってきた.
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