icon fsr

文献詳細

雑誌文献

臨床整形外科44巻8号

2009年08月発行

文献概要

連載 医者も知りたい【医者のはなし】・35

炎の眼科医 土生玄碩(1762-1848)

著者: 木村專太郎1

所属機関: 1木村専太郎クリニック

ページ範囲:P.826 - P.829

文献購入ページに移動
 土生玄碩(はぶげんせき)は江戸後期の眼科医で,宝暦12年(1762),安芸吉田(現在・広島県安芸高田市)に生まれた.土生家は安芸郡山藩吉田で代々の眼科医として開業していた.広島浅野家の教姫の眼疾を治療したことを契機に,徳川幕府の御殿医に登用された.文政9年(1826)に,玄碩は江戸・長崎屋にとう留中の長崎・出島の蘭館医・シーボルトを訪ね,瞳孔を散大させる薬の情報と交換に,着ていた葵の御紋の入った紋服を差し出した.シーボルトが持参していたのはベラドンナ(学名Atropa belladonna L.)であり,シーボルトが教えた日本の植物は「ハシリドコロ」(走野老)であった.ヨーロッパ原産のベラドンナと日本のハシリドコロ〔原産:日本・ロウトウコン(莨トウ根),学名Scopolia japonica Maxim.〕は,アトロピンやスコポラミンなどのアルカロイドを含み,瞳孔を散大させる作用があるので,使えば白内障の手術などに多大な威力を発揮した.

 ところで,玄碩がシーボルトに与えた葵の紋服は,もとより将軍家拝領品である.後に,玄碩は,文政11年(1828)のシーボルト事件でこの件の責を問われ,晩年の大半を刑に服することになる.すでに,幕府御殿医という地位・名声・富を得ていた玄碩が,敢えて国禁を犯してまで薬を入手しようとしたのは何故であろうか.常に新しい手術法を考案するために,あらゆることを貪欲に学ぼうという意欲にあふれる玄碩にとって,手術を容易にする散瞳剤を見逃すことができなかったのであろう.ひとえに,万人を救うことを最優先したと考えたい.それで題も「炎の眼科医」とした.

参考文献

1) 吉村 昭:日本医家伝.講談社,1971
2) 日本医師会(編集),酒井シヅ(監修):医界風土記 中国・四国編.思文閣出版,1994
3) 齋藤 信(訳):シーボルト参府旅行中の日記.思文閣出版,1983
4) 福島義一:高良斎とその時代.思文閣出版,1996

掲載誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-1286

印刷版ISSN:0557-0433

雑誌購入ページに移動
icon up

本サービスは医療関係者に向けた情報提供を目的としております。
一般の方に対する情報提供を目的としたものではない事をご了承ください。
また,本サービスのご利用にあたっては,利用規約およびプライバシーポリシーへの同意が必要です。

※本サービスを使わずにご契約中の電子商品をご利用したい場合はこちら