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文献詳細

雑誌文献

臨床整形外科47巻3号

2012年03月発行

文献概要

連載 医者も知りたい【医者のはなし】・50

日本三大蘭方医・坪井信道(1795-1848)―織田信長直系の子孫で緒方洪庵の師

著者: 木村專太郎1

所属機関: 1木村専太郎クリニック

ページ範囲:P.256 - P.260

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■はじめに

 織田信長とその子,信忠が明智光秀に討たれたのが天正11年(1583)6月3日である.その光秀が豊臣秀吉に討たれ,織田家の相続は信忠の嫡男・3歳の三法師丸に決まった.

 織田の居城である安土城で三法師丸は元服し,秀吉の命で織田秀信と名乗る.その後,小田原城の戦いで北条氏が敗れ,転封が行われ織田家は文禄元年(1592)に13万石の岐阜城主となった.

 以後,秀信は秀吉の庇護により,階位も従四位下侍従から左近衛少将となり,さらに参議を経て慶長元年(1596)には16歳で従三位・権中納言となっている.

 秀吉亡き後,関ヶ原の戦いの際,東西両軍から誘われたが,恩義のために西軍に属した.その結果,慶長五年(1600)8月23日,徳川方に関ヶ原の開戦直前に総攻撃を受け,そのとき,秀信の降伏と城兵の助命を条件に開城となった.

 最初,秀信は切腹を覚悟したが,徳川方ではあったが秀吉恩顧の武将・池田輝政の仲介によって主従十余人は高野山に送られた.しかし,秀信は心労から慶長十年(1605)に,25歳の若さで高野山で他界した.その遺児は家臣の坪井佐兵衛が美濃国(現・岐阜県)池田郡脛永村の自分の家に連れて帰り,坪井姓を名乗らせた.坪井家初代は正信と名乗り,信道は五代目である.このように信長の子孫は姓を「坪井」と変え,岐阜で生き延び,信長の遺伝子が後世に継承された.

参考文献

1) 青木一郎:年譜で見る坪井信道の生涯.杏林温故会,1971
2) 斉藤祥男:蘭医家坪井の系譜と芳治.東京布井出版,1990
3) 青木一郎:岐阜県蘭学医学歴史散歩.岐阜県医師会,1983
4) 藤野恒三郎:医学史話.菜根印刷,1984
5) 川嶌眞人:医は不仁の術務めて仁をなさんと欲す.西日本医学研究所,2000

掲載誌情報

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN:1882-1286

印刷版ISSN:0557-0433

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