文献詳細
鏡下囁語
文献概要
第四編の概要
Menièreは1961年9月21日に主論文が掲載され前に症例を追加して三編の症例報告を行っている。すなわち,2月9日,4月13日,ならびに6月15日と2か月間に一編の頻度の掲載である。これらに共通することは,Menière病の疾患としての確立の主張,脳発作,ことに脳充血と脳卒中との鑑別の強調である。なお,この間に半規管病変に対するBrown-Séquard(1月25日掲載)の反対論,同じくHillairetの反対論,Signol et Vulpian(9月2日掲載)の支持論が発表されており,これらの原著は読了したが紙面の都合でご紹介できず残念である。なおPolitzerが1961年にMenièreを訪れておりドイツにMenière病の概念を知らしめた。しかし,その後の半規管病変説は旗色が悪く,迷路出血説,中耳病変説および脳中枢説が多勢を占める結果になるのであった。これも機会を改めて紹介したい。本稿では当時の脳充血の概念を当時の資料で紹介する。
Menièreは1961年9月21日に主論文が掲載され前に症例を追加して三編の症例報告を行っている。すなわち,2月9日,4月13日,ならびに6月15日と2か月間に一編の頻度の掲載である。これらに共通することは,Menière病の疾患としての確立の主張,脳発作,ことに脳充血と脳卒中との鑑別の強調である。なお,この間に半規管病変に対するBrown-Séquard(1月25日掲載)の反対論,同じくHillairetの反対論,Signol et Vulpian(9月2日掲載)の支持論が発表されており,これらの原著は読了したが紙面の都合でご紹介できず残念である。なおPolitzerが1961年にMenièreを訪れておりドイツにMenière病の概念を知らしめた。しかし,その後の半規管病変説は旗色が悪く,迷路出血説,中耳病変説および脳中枢説が多勢を占める結果になるのであった。これも機会を改めて紹介したい。本稿では当時の脳充血の概念を当時の資料で紹介する。
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