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講座 哲学・6
理学療法(士)と哲学―自己認識の拡大
著者: 奈良勲1
所属機関: 1金沢大学医療技術短期大学部
ページ範囲:P.856 - P.860
文献購入ページに移動 Ⅰ.初めに
理学療法ジャーナルの講座として,『哲学』を取り上げるのは馴染みの無いことかもしれない.しかし理学療法教育機関の教養科目として哲学を開講している所は多いし,その講義を受けた人々も多いと思う.だが哲学の講義を居眠りもせず,固唾を呑んで聞いたという話はあまり耳にしない.むしろ訳もわからず,退屈であったという反応が多い.その理由は明らかではないが,察するところ,聴講者がその講義に何を期待していたかということと,講師が何を提供したかということの食い違いの大きさによるのではないだろうか.
われわれは哲学を専攻して講義に臨むわけではないので,理解しにくい概念や哲学史だけをえんえんと話されてもなかなか興味が湧かない.哲学の講義を通して,哲学することの意味を認識し,日ごろの私生活や,仕事に関連して,自ら哲学する喜びを覚えるようになり,それを幾らかでも実践するまでになれば,教養科目としての哲学に大きな意義がある.
さてこれまで5回の講座『哲学』をそれぞれの哲学者に執筆願ったが,読者の哲学への関心が少しは高まっただろうか.最終回として,理学療法士の立場から『理学療法(士)と哲学』について,この講座を企画した筆者なりの見解を述べたい.なお筆者は『理学療法と作業療法』の第14巻第1号,1980の講座「理学療法概論」で『理学療法,その倫理と思想的背景』と題した小論1)を書いているが,それを土台にして新たな展開ができればと願う.
理学療法ジャーナルの講座として,『哲学』を取り上げるのは馴染みの無いことかもしれない.しかし理学療法教育機関の教養科目として哲学を開講している所は多いし,その講義を受けた人々も多いと思う.だが哲学の講義を居眠りもせず,固唾を呑んで聞いたという話はあまり耳にしない.むしろ訳もわからず,退屈であったという反応が多い.その理由は明らかではないが,察するところ,聴講者がその講義に何を期待していたかということと,講師が何を提供したかということの食い違いの大きさによるのではないだろうか.
われわれは哲学を専攻して講義に臨むわけではないので,理解しにくい概念や哲学史だけをえんえんと話されてもなかなか興味が湧かない.哲学の講義を通して,哲学することの意味を認識し,日ごろの私生活や,仕事に関連して,自ら哲学する喜びを覚えるようになり,それを幾らかでも実践するまでになれば,教養科目としての哲学に大きな意義がある.
さてこれまで5回の講座『哲学』をそれぞれの哲学者に執筆願ったが,読者の哲学への関心が少しは高まっただろうか.最終回として,理学療法士の立場から『理学療法(士)と哲学』について,この講座を企画した筆者なりの見解を述べたい.なお筆者は『理学療法と作業療法』の第14巻第1号,1980の講座「理学療法概論」で『理学療法,その倫理と思想的背景』と題した小論1)を書いているが,それを土台にして新たな展開ができればと願う.
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