文献詳細
文献概要
特集 苦労した症例報告集
―脳血管障害―動作維持不能症(MI)の一症例
著者: 貴田正秀1
所属機関: 1東八幡平病院リハビリテーションセンター
ページ範囲:P.151 - P.154
文献購入ページに移動 Ⅰ.初めに
私は以前本誌の前身である『理学療法と作業療法』の「とびら」(17(5):283,1983)に書いたが,学生時代(1961年)に解剖学担当の先生が言った一言が,私の理学療法士生活に大きな影響を与えたと確信している.その一言とは「脳」の講義の際に,脳は生体のすべてをコントロールしているが,その機能は,ほとんど解明されていないとのことであった.また,加えて自分も脳を勉強してみて“脳”が痛くなるということであった.
そのときの明るさの中にも額にシワを寄せながら語られた先生の印象が私の脳裏に強く焼き付いた.ぜひ,機会を作って脳の勉強をしてみたいという強い願望が私の胸中深く宿ることになった.今考えてみて身の程知らずの大望であった.
ところが学校が卒業して勤務した施設は皮肉にも整形外科疾患が主の施設であり,脳血管障害者(以下,CVA)は常時1~3例のみであった.その青森県内の施設に10年間(3か所)に勤務したが,1973年友人の話で“剖検脳”の指導をしてくれる先生がおられ,理学療法士を募集しているとのことで移った.それは秋田県本荘市の由利組合総合病院で,精神科(分院)を除きベッド数600床,勉強熱心な医師が診察,研究に積極的に取り組んでおられ,活気があふれている病院であった.
リハビリテーション部は1966年に開設され,1968年に早くも地域活動を実践しており,事に果敢に挑戦しているように感じられた.
また,リハビリテーション治療を開始して間も無く東京大学の上田敏先生に施設の点検と課題について助言していただいたところ,リハビリテーション関係職員,看護婦の知識技術の向上を目的に現信州大学医療技術短期大学部の伊藤直栄先生に月1回(土曜日と日曜日)の日程で勉強会を実施したほうが良いと言われ,そのとおり実践していた.
伊藤先生がカナダに留学されるため最後になったその勉強会に私も出席したが,そのとき伊藤先生が「今後の理学療法士の中にも脳の病理を勉強する人がいなくては」と言われたことで,ますます意を強くした.
今後脳血管障害患者を主に治療するため1か月の日程で東京の伊藤病院(1989年3月でリハビリテーション科閉鎖)で自費研修を敢行し,1973年4月技師長として勤務することになった.
スタッフは13名で(うち1名が言語療法士),有資格者はいなかった.初めは上司から患者の治療は必要無く管理的なことのみで良いと言われていたが,現実はそんな甘いものではなかった.急性期の脳血管障害患者が年に220~240名入院し,脳神経外科,急性期病棟,リハビリテーション病棟,整形外科の脊髄損傷,骨折患者など,つねに140~150名を治療するのである.あっと言う間に担当患者が20名を越えてしまった.
病棟廻りは毎日午後5時30分~7時ころである.地域活動に出かける日は,夜9時の消灯時刻ぎりぎりまでかかった.
しかし不思議と苦労とは思わなかった.毎朝9時から脳血管写真の読みかたの指導を受け,前・中・後大脳動脈などの狭窄・閉塞,また脳血管の圧迫状態から出血部位,出血量の予測を行なうのである.
今まで教科書を見てわかったみたいでわからなかったことが,担当している患者の脳血管写真であればすぐ理解できた.そして,障害された部位と,大きさとがいかに重要であるか思い知らされた.
また,土曜日の午後,日曜日,祭日に指導を受けた.剖検脳を観察し,脳損傷は梗塞にしろ出血にしろ立体的なものであり,写真で見る平面的な感覚では意味が無いことも理解できた.
一方リハビリテーション部を取り巻く情況は決して甘いものではなかったが,好きな勉強のため致しかた無かった.
勤務して5年目の1989年11月現在,担当した脳血管障害患者500例余中,もっとも苦労する症例に出会うこととなった.
私は以前本誌の前身である『理学療法と作業療法』の「とびら」(17(5):283,1983)に書いたが,学生時代(1961年)に解剖学担当の先生が言った一言が,私の理学療法士生活に大きな影響を与えたと確信している.その一言とは「脳」の講義の際に,脳は生体のすべてをコントロールしているが,その機能は,ほとんど解明されていないとのことであった.また,加えて自分も脳を勉強してみて“脳”が痛くなるということであった.
そのときの明るさの中にも額にシワを寄せながら語られた先生の印象が私の脳裏に強く焼き付いた.ぜひ,機会を作って脳の勉強をしてみたいという強い願望が私の胸中深く宿ることになった.今考えてみて身の程知らずの大望であった.
ところが学校が卒業して勤務した施設は皮肉にも整形外科疾患が主の施設であり,脳血管障害者(以下,CVA)は常時1~3例のみであった.その青森県内の施設に10年間(3か所)に勤務したが,1973年友人の話で“剖検脳”の指導をしてくれる先生がおられ,理学療法士を募集しているとのことで移った.それは秋田県本荘市の由利組合総合病院で,精神科(分院)を除きベッド数600床,勉強熱心な医師が診察,研究に積極的に取り組んでおられ,活気があふれている病院であった.
リハビリテーション部は1966年に開設され,1968年に早くも地域活動を実践しており,事に果敢に挑戦しているように感じられた.
また,リハビリテーション治療を開始して間も無く東京大学の上田敏先生に施設の点検と課題について助言していただいたところ,リハビリテーション関係職員,看護婦の知識技術の向上を目的に現信州大学医療技術短期大学部の伊藤直栄先生に月1回(土曜日と日曜日)の日程で勉強会を実施したほうが良いと言われ,そのとおり実践していた.
伊藤先生がカナダに留学されるため最後になったその勉強会に私も出席したが,そのとき伊藤先生が「今後の理学療法士の中にも脳の病理を勉強する人がいなくては」と言われたことで,ますます意を強くした.
今後脳血管障害患者を主に治療するため1か月の日程で東京の伊藤病院(1989年3月でリハビリテーション科閉鎖)で自費研修を敢行し,1973年4月技師長として勤務することになった.
スタッフは13名で(うち1名が言語療法士),有資格者はいなかった.初めは上司から患者の治療は必要無く管理的なことのみで良いと言われていたが,現実はそんな甘いものではなかった.急性期の脳血管障害患者が年に220~240名入院し,脳神経外科,急性期病棟,リハビリテーション病棟,整形外科の脊髄損傷,骨折患者など,つねに140~150名を治療するのである.あっと言う間に担当患者が20名を越えてしまった.
病棟廻りは毎日午後5時30分~7時ころである.地域活動に出かける日は,夜9時の消灯時刻ぎりぎりまでかかった.
しかし不思議と苦労とは思わなかった.毎朝9時から脳血管写真の読みかたの指導を受け,前・中・後大脳動脈などの狭窄・閉塞,また脳血管の圧迫状態から出血部位,出血量の予測を行なうのである.
今まで教科書を見てわかったみたいでわからなかったことが,担当している患者の脳血管写真であればすぐ理解できた.そして,障害された部位と,大きさとがいかに重要であるか思い知らされた.
また,土曜日の午後,日曜日,祭日に指導を受けた.剖検脳を観察し,脳損傷は梗塞にしろ出血にしろ立体的なものであり,写真で見る平面的な感覚では意味が無いことも理解できた.
一方リハビリテーション部を取り巻く情況は決して甘いものではなかったが,好きな勉強のため致しかた無かった.
勤務して5年目の1989年11月現在,担当した脳血管障害患者500例余中,もっとも苦労する症例に出会うこととなった.
掲載誌情報