文献詳細
文献概要
入門講座 介護方法論・4
食事―「さあ,起きて食べよう」
著者: 石田卓司1
所属機関: 1NTT伊豆逓信病院リハビリテーション科
ページ範囲:P.252 - P.257
文献購入ページに移動 Ⅰ.初めに
人間は,はるかな昔から,「食べる」ということに最大の情熱とエネルギーを注いできたと思う.というのも,食べないことには人は存在しえないからだ.たとえどのような理屈によっても,食を除いた人間生活は成り立たない.食物を得ることとそれを食べることとは,生の根幹を成しており,人は生きるために食べるというより,むしろ,生きるとは食べることだと言うほうが真実に近い.人類が口にする広汎な食物の種類によっても,それは裏付けられはしないだろうか.人間は,それこそ空を飛ぶもの地を這うもの,海のもの山のもの,動物植物を問わず,大は鯨から小は種々の微生物に至るまで,有機物のほとんどの種類を食用にする.しかも,単に採集,狩猟するばかりでなく,知恵の限りを尽くして食の基を養い,育み,加工し保存するという営みを繰り返してきた.人類の繁栄はその豊かな食条件が約束したと言える.そうして,長い年月のうちに,食は独特の世界とフォルムを形作るに至った.牛馬,犬猫の摂食行動とは異なり,生命の維持を目的とする水準を超えて,人間の精神的,情緒的,社会的行為として食は存在しているのである.
それにしても,私たちの食生活に備わる様式の,整然とした構造には改めて驚かされる.普段口にする食べものの範囲,その取り合わせ,調理や味付け,食器の種類や形態,食事の量,時間,場所,作法などにまで,厳密な何かの意思に基づくかのような共通性,一体性がある,それが私たちの「食の概念」なのである.この範疇から著しく逸脱しないことによって,私たちの社会における食は成り立っている.一つの社会において長い歴史を経た確固たる食の枠組みが,私たちの内に刷り込まれており,それが一定の食行動を保証している,言い換えると,食にはつねに前提する種々の条件があり,それらが満たされることによって食べるという行為は成立するのである.だから守り保つべき食の条件が欠けると,食事が食事でなくなってしまう.例えば,私たちのものとは掛け離れた食習慣をもつ人々の中にいて,私たちが食物とは思わない,想像を絶する料理を前にし,聞いたことも無い作法を求められたとしたら,あるのは違和感や嫌悪感ばかりで,ものを食べた気になどならないに違いない.その忌むべき食体験も,一度で済めば笑い話として片づくだろう.しかし,一見食事のようでいて実は食事とは認め難いものと,絶えず向き合わなければならないとしたら,苦痛を通り越して,人はどうにかなってしまうに違いない.
さて,私たちが「老人介護」のテーマで,食に関する議論をする理由は何か.老人に限ったことでなく,私たちとともに社会にあって,生活行為に援助を必要とする人々が,満足な環境で食を享受できていないからだ.その主な理由は,食本来の幾つもの内的,外的条件を,介護(看護)が軽んじてきた点にあるのだと言える,介護者が自身では決して受け入れない食条件を,老人や病人に対してはあっさり押し付け,それによって引き起こされる惨憺たる結果を洞察しない.介護の問題の根はここにある.それを棚上げしていて,適切な食環境は生まれない.結果として,いくら滋養に富んだ食事でも,食べる人を養い,元気にすることはあるまい.老人や病人から元気を奪ってしまう食事を,日に三度づつ提供し続ける介護(看護)とは,矛盾性の見本に違いない.実質的な介護論は,その矛盾の内に少しでも踏み入るところから始まるのだと思われる.
人間は,はるかな昔から,「食べる」ということに最大の情熱とエネルギーを注いできたと思う.というのも,食べないことには人は存在しえないからだ.たとえどのような理屈によっても,食を除いた人間生活は成り立たない.食物を得ることとそれを食べることとは,生の根幹を成しており,人は生きるために食べるというより,むしろ,生きるとは食べることだと言うほうが真実に近い.人類が口にする広汎な食物の種類によっても,それは裏付けられはしないだろうか.人間は,それこそ空を飛ぶもの地を這うもの,海のもの山のもの,動物植物を問わず,大は鯨から小は種々の微生物に至るまで,有機物のほとんどの種類を食用にする.しかも,単に採集,狩猟するばかりでなく,知恵の限りを尽くして食の基を養い,育み,加工し保存するという営みを繰り返してきた.人類の繁栄はその豊かな食条件が約束したと言える.そうして,長い年月のうちに,食は独特の世界とフォルムを形作るに至った.牛馬,犬猫の摂食行動とは異なり,生命の維持を目的とする水準を超えて,人間の精神的,情緒的,社会的行為として食は存在しているのである.
それにしても,私たちの食生活に備わる様式の,整然とした構造には改めて驚かされる.普段口にする食べものの範囲,その取り合わせ,調理や味付け,食器の種類や形態,食事の量,時間,場所,作法などにまで,厳密な何かの意思に基づくかのような共通性,一体性がある,それが私たちの「食の概念」なのである.この範疇から著しく逸脱しないことによって,私たちの社会における食は成り立っている.一つの社会において長い歴史を経た確固たる食の枠組みが,私たちの内に刷り込まれており,それが一定の食行動を保証している,言い換えると,食にはつねに前提する種々の条件があり,それらが満たされることによって食べるという行為は成立するのである.だから守り保つべき食の条件が欠けると,食事が食事でなくなってしまう.例えば,私たちのものとは掛け離れた食習慣をもつ人々の中にいて,私たちが食物とは思わない,想像を絶する料理を前にし,聞いたことも無い作法を求められたとしたら,あるのは違和感や嫌悪感ばかりで,ものを食べた気になどならないに違いない.その忌むべき食体験も,一度で済めば笑い話として片づくだろう.しかし,一見食事のようでいて実は食事とは認め難いものと,絶えず向き合わなければならないとしたら,苦痛を通り越して,人はどうにかなってしまうに違いない.
さて,私たちが「老人介護」のテーマで,食に関する議論をする理由は何か.老人に限ったことでなく,私たちとともに社会にあって,生活行為に援助を必要とする人々が,満足な環境で食を享受できていないからだ.その主な理由は,食本来の幾つもの内的,外的条件を,介護(看護)が軽んじてきた点にあるのだと言える,介護者が自身では決して受け入れない食条件を,老人や病人に対してはあっさり押し付け,それによって引き起こされる惨憺たる結果を洞察しない.介護の問題の根はここにある.それを棚上げしていて,適切な食環境は生まれない.結果として,いくら滋養に富んだ食事でも,食べる人を養い,元気にすることはあるまい.老人や病人から元気を奪ってしまう食事を,日に三度づつ提供し続ける介護(看護)とは,矛盾性の見本に違いない.実質的な介護論は,その矛盾の内に少しでも踏み入るところから始まるのだと思われる.
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