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文献概要
特集 難病と理学療法
難病と在宅ケア
著者: 川村佐和子1
所属機関: 1東京医科歯科大学医学部保健衛生学科
ページ範囲:P.797 - P.802
文献購入ページに移動 1.はじめに
難病療養者の医療サービスがなぜ在宅ケアと深い関係をもってきたか,というよりもなぜ在宅療養を支援する「地域ケアシステム」を開発してきたのかについてまず述べておきたい.ここで,「地域ケアシステム」という用語をもちいた理由に触れておきたい.地域ケアの「地域」とは在宅療養者を取り巻く地域社会環境を総体的に示して用いてきた.また「ケア」は「医療」では医療職員だけの支援を示すと考え,在宅療養する人々の支援は地域社会全員,つまり医療職に限らない隣人も,その子どもも含めた支援によって成り立っていることから,これらを総称して用いた.
難病対策がスモン問題を契機に,開始されたことは知られるところである.スモンは昭和30年代初期から発生がみられ,それ以前には診断基準がなかった疾患で,昭和30年代後半の文献には「腹部症状に伴う特異的な末梢神経障害」というように呼ばれていた.原因は不明であったが,患者発生には疫学的現象として病棟集積性や地域集積性がみられ,亜急性に発生する感染症(スローウイルス)ではないかと疑われていた.ある国立大学ウイルス研究所の助教授によって撮られたスモンウイルスの電子顕微鏡写真が全国紙のA新聞第1面の紙面半分を占める大きさで報道されて,感染説が有力と社会に印象づけた.また,スモン患者は女性が多く,下痢や便秘に伴ってグローブストッキング型に知覚障害がおこり,ついで運動麻痺が生じ,重症者では視覚神経障害を起し,失明や死に至った人々もあった.一部の週刊誌はこれを「若妻の下半身を襲うしびれ」などと表現し,電車の吊り広告に大きく出したりした.人々はスモンに対し,原因不明,死に至る病(やまい),そして感染するというイメージを強くもち,療養者に接触しないように注意して,自分自身の感染や発病を防ごうとした.そのため,療養者は社会生活はもちろんのこと,職場での生活や家庭生活においても疎外を受けることとなった.スモン療養者が受診する病院で,他の疾患の療養者が受診しなくなり,病院が閉鎖に追い込まれたとか,経営困難に立ち至ったということが報道された.
結果として,スモン療養者は自宅で座敷牢に入れられたように軟禁状態にあった人々も少なくなく,医療や福祉の恩恵を得られない実状にあった.このことから,スモン療養者の要請を受けて,診療に出向かなくてはならない状態になり,大学病院の神経内科医とともにボランティアで訪問診療することも始めた.
スモンをきっかけに,筆者は神経疾患療養者の生活実態に接することとなり,保健相談を求めてくる人々の中に,診断も正確につかないまま苦しんでいる神経筋疾患療養者が多くいることを知った.筋ジストロフィー症児の親の組織では,この問題を解決するため,巡回型の無料検診を各地で行って,療養者に正確な診断をつけようという努力を行っていた.
東京大学第3内科の医局では,東京都在住の筋ジストロフィー症児の親たちを中心とする組織,東京進行性筋萎縮症協会(東筋協と略)の検診活動に協力しており,筆者もその活動に参加するようになった.その頃,筋ジストロフィー症児に対しては,国立療養所に専門病棟を作り,そこに長期入除する施策が始まっていた.東京都立府中病院神経内科で療養相談を担当していた筆者は,この療養を必要する子どももその両親たちも,療養者を収容するのではなく,家族の助け合いの中で生活していきたいという希望を強く感じ取った.まさに,地域ケアの考えの原点であった.昭和40年代後半の東京都立府中病院神経内科の長であった副院長を中心に,職員がボランティアで訪問医療を開始し,行政側の理解のもとに,それは3年後の昭和49年12月から在宅診療班活動として,病院業務に発展した.難病医療における在宅ケアは療養者のQOLのために開発されたサービス提供方法であった.
難病療養者の医療サービスがなぜ在宅ケアと深い関係をもってきたか,というよりもなぜ在宅療養を支援する「地域ケアシステム」を開発してきたのかについてまず述べておきたい.ここで,「地域ケアシステム」という用語をもちいた理由に触れておきたい.地域ケアの「地域」とは在宅療養者を取り巻く地域社会環境を総体的に示して用いてきた.また「ケア」は「医療」では医療職員だけの支援を示すと考え,在宅療養する人々の支援は地域社会全員,つまり医療職に限らない隣人も,その子どもも含めた支援によって成り立っていることから,これらを総称して用いた.
難病対策がスモン問題を契機に,開始されたことは知られるところである.スモンは昭和30年代初期から発生がみられ,それ以前には診断基準がなかった疾患で,昭和30年代後半の文献には「腹部症状に伴う特異的な末梢神経障害」というように呼ばれていた.原因は不明であったが,患者発生には疫学的現象として病棟集積性や地域集積性がみられ,亜急性に発生する感染症(スローウイルス)ではないかと疑われていた.ある国立大学ウイルス研究所の助教授によって撮られたスモンウイルスの電子顕微鏡写真が全国紙のA新聞第1面の紙面半分を占める大きさで報道されて,感染説が有力と社会に印象づけた.また,スモン患者は女性が多く,下痢や便秘に伴ってグローブストッキング型に知覚障害がおこり,ついで運動麻痺が生じ,重症者では視覚神経障害を起し,失明や死に至った人々もあった.一部の週刊誌はこれを「若妻の下半身を襲うしびれ」などと表現し,電車の吊り広告に大きく出したりした.人々はスモンに対し,原因不明,死に至る病(やまい),そして感染するというイメージを強くもち,療養者に接触しないように注意して,自分自身の感染や発病を防ごうとした.そのため,療養者は社会生活はもちろんのこと,職場での生活や家庭生活においても疎外を受けることとなった.スモン療養者が受診する病院で,他の疾患の療養者が受診しなくなり,病院が閉鎖に追い込まれたとか,経営困難に立ち至ったということが報道された.
結果として,スモン療養者は自宅で座敷牢に入れられたように軟禁状態にあった人々も少なくなく,医療や福祉の恩恵を得られない実状にあった.このことから,スモン療養者の要請を受けて,診療に出向かなくてはならない状態になり,大学病院の神経内科医とともにボランティアで訪問診療することも始めた.
スモンをきっかけに,筆者は神経疾患療養者の生活実態に接することとなり,保健相談を求めてくる人々の中に,診断も正確につかないまま苦しんでいる神経筋疾患療養者が多くいることを知った.筋ジストロフィー症児の親の組織では,この問題を解決するため,巡回型の無料検診を各地で行って,療養者に正確な診断をつけようという努力を行っていた.
東京大学第3内科の医局では,東京都在住の筋ジストロフィー症児の親たちを中心とする組織,東京進行性筋萎縮症協会(東筋協と略)の検診活動に協力しており,筆者もその活動に参加するようになった.その頃,筋ジストロフィー症児に対しては,国立療養所に専門病棟を作り,そこに長期入除する施策が始まっていた.東京都立府中病院神経内科で療養相談を担当していた筆者は,この療養を必要する子どももその両親たちも,療養者を収容するのではなく,家族の助け合いの中で生活していきたいという希望を強く感じ取った.まさに,地域ケアの考えの原点であった.昭和40年代後半の東京都立府中病院神経内科の長であった副院長を中心に,職員がボランティアで訪問医療を開始し,行政側の理解のもとに,それは3年後の昭和49年12月から在宅診療班活動として,病院業務に発展した.難病医療における在宅ケアは療養者のQOLのために開発されたサービス提供方法であった.
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