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文献概要
特集 理学療法士の国際協力
国際協力を受けながら発展した日本の理学療法
著者: 田口順子1
所属機関: 1国際協力機構青年海外協力隊
ページ範囲:P.997 - P.1003
文献購入ページに移動 わが国における理学療法業務が法的根拠を得て開始されたのは1965年に制定された「理学療法士及び作業療法士法(法律第137号)」以降のことである.1963年5月には日本初の理学療法士・作業療法士養成校が開校した.十分な準備もないまま養成校を創り,法律も国内外の圧力によって生み出され,成立を急ぐあまり関連職種間の混乱を招き,決して満足すべきものではなかったという記述も目にすることがあるが,いつの時代にも完璧な法律などありはしない.わが国が国際協力を受けた時代に過ごした私にとっては,その歴史的な草創混乱期に情熱を持って尽くした人々が存在していたこと,そのおかげで今のわれわれがあることへの感謝しかなく,時代を背景とした歴史やニーズは世界的にも力をつけた日本理学療法士協会と会員一人一人の努力によって変革してゆけばよい.
国際機関とのつながり―WHOとWCPT
わが国が他の分野では他国からの援助を受ける段階を過ぎている時代に,リハビリテーション,とりわけ理学療法士・作業療法士(以下それぞれPT・OT)養成に対し,国際協力・援助を受けた時期はほぼ1961年から1975年の15年間であった.これは,いつまでも続く現在の日本による開発途上国への支援状況から見れば実に短いスパンであった.このときの他国からの援助は,ODA(政府開発援助)やNGO(非政府組織)レベルではなかったから,いわゆる箱モノといわれる学校建設や図書の寄付を受けたわけではなく,WHOから派遣された外国人教師の人件費と新しくPT・OT養成を担う日本人のための研修,留学費用くらいのものであったと思われる.事実,日本初の養成校が開校されたときの教材として必要な機器,図書,校舎改修,人件費などは,乏しいながらも厚生省(当時)によるものであったし,隣接の看護師養成校の5倍も費用がかかると当時の養成校の事務担当官が何年もこぼしていたのを記憶している.しかしこの間にWHO,WCPT(世界理学療法連盟)から受けた協力は有形無形にかかわらず大きく強力なものであった.WHOやWCPTは日本の政府は各機関とも外的な圧力には特に弱いと感じていたし,WHOから派遣された外国人スタッフは厚生省との折衝には戦略的にこの弱点を武器としていた.外的な圧力とまでは行かないとしても開発途上国の自立発展性を促すとき,国際協力側からの後押しが政府機関を動かせることは多い.WHO顧問として赴任したT Conine先生はWHOに進捗状況を毎月報告し,その報告内容に対するWHOの反応は直ちに厚生省や学院に返ってきたから戦々恐々としていた.WCPT事務局長,Neilson女史も日本の発展性には期待し,養成校との緊密な連絡が行われていた.当時,まだ3年生になったばかりの学生たちにも情報が提供され,来るべき専門職組織結成に関する資料が届き,授業時間の中で検討が進められた.こうしたWHOをはじめとするWCPTとの緊密な情報交換は,海外からの情報がまだ乏しい時代であったから,貴重な国際協力を受けた形として残った.
国際機関とのつながり―WHOとWCPT
わが国が他の分野では他国からの援助を受ける段階を過ぎている時代に,リハビリテーション,とりわけ理学療法士・作業療法士(以下それぞれPT・OT)養成に対し,国際協力・援助を受けた時期はほぼ1961年から1975年の15年間であった.これは,いつまでも続く現在の日本による開発途上国への支援状況から見れば実に短いスパンであった.このときの他国からの援助は,ODA(政府開発援助)やNGO(非政府組織)レベルではなかったから,いわゆる箱モノといわれる学校建設や図書の寄付を受けたわけではなく,WHOから派遣された外国人教師の人件費と新しくPT・OT養成を担う日本人のための研修,留学費用くらいのものであったと思われる.事実,日本初の養成校が開校されたときの教材として必要な機器,図書,校舎改修,人件費などは,乏しいながらも厚生省(当時)によるものであったし,隣接の看護師養成校の5倍も費用がかかると当時の養成校の事務担当官が何年もこぼしていたのを記憶している.しかしこの間にWHO,WCPT(世界理学療法連盟)から受けた協力は有形無形にかかわらず大きく強力なものであった.WHOやWCPTは日本の政府は各機関とも外的な圧力には特に弱いと感じていたし,WHOから派遣された外国人スタッフは厚生省との折衝には戦略的にこの弱点を武器としていた.外的な圧力とまでは行かないとしても開発途上国の自立発展性を促すとき,国際協力側からの後押しが政府機関を動かせることは多い.WHO顧問として赴任したT Conine先生はWHOに進捗状況を毎月報告し,その報告内容に対するWHOの反応は直ちに厚生省や学院に返ってきたから戦々恐々としていた.WCPT事務局長,Neilson女史も日本の発展性には期待し,養成校との緊密な連絡が行われていた.当時,まだ3年生になったばかりの学生たちにも情報が提供され,来るべき専門職組織結成に関する資料が届き,授業時間の中で検討が進められた.こうしたWHOをはじめとするWCPTとの緊密な情報交換は,海外からの情報がまだ乏しい時代であったから,貴重な国際協力を受けた形として残った.
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