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文献概要
講座 行動経済学・1【新連載】
行動経済学とは
著者: 高橋英彦1
所属機関: 1京都大学大学院医学研究科脳病態生理学講座精神医学教室
ページ範囲:P.519 - P.525
文献購入ページに移動はじめに
まず,精神科医である筆者がなぜ,このようなテーマの研究に携わるようになったかの経緯を示しておきたい.人間の精神活動は,知・情・意とも呼ばれる.知とは,読み・書き・そろばんのような伝統的にはどちらかというと臨床神経学や神経心理学が扱ってきたテーマである.一方,情(情動・感情)や意(意志,意思決定,意欲,意識)といった主観的体験を扱うのが,主として精神医学といえる.
筆者は狭義の精神疾患のほか,脳外科や神経内科との境界領域である脳損傷,神経変性疾患,てんかんなどの診療に従事し,知,つまり記憶や言語機能には目立った異常が認められないが,なんとなく社会生活がうまくいかず,社会復帰が困難な症例を何例も診てきた.この“なんとなく”をきちんと評価して何が起こっているのか理解して社会復帰につなげられないものかと感じるようになった.
おそらく,このような問題意識は精神科医の筆者だけでなく,精神科ならびに身体的リハビリテーションに携わる多くの職種の方が感じられているのではないであろうか.この“なんとなく”が,まさに情(情動・感情)や意(意志,意思決定,意識)であると考えるようになった.
しかし,情動,意思決定,意識といった主観的な体験を血液検査やX線のように客観的に評価することは困難であり,患者の自己陳述や表層的な行動観察に依存せざるを得ないところがある.これはすなわち,現在の精神疾患の診断基準についても同じことがいえ,精神疾患の診断基準は生物学的な知見に裏打ちされたものではなく,多様な症状の組み合わせの症候群である.例えば,うつ病という診断1つをとっても,さまざまなバックグラウンドやサブタイプが想定される.そのような状況で,遺伝子などの生物学的データと診断(病名)とを対応させようとしても困難が待ち構えているのは予想される.
精神疾患は,その定義上,なんらかの行動異常がある.多かれ少なかれ,精神疾患においてはその異常な行動を選択する1つ前のプロセスに意思決定の障害があると想定される.意思決定とは,複数の選択肢からある選択肢を選ぶプロセスである.レストランで何を食べるか,テレビでどのチャンネルを見るか,週末にどこへ遊びに行くかと決めることは意思決定であり,このように非常に日常的な話題である.そのため多くの学問が意思決定をテーマとして扱ってきた.特に経済学は意思決定のプロセスを客観的,定量的に記述できる理論やツールがあることに,筆者は魅力を感じていた.
欧米では,こうした文理横断的かつ学際的な研究が強力に推進されている.しかし,日本では理系,文系と高校生ごろから進路が分かれ,大学に入っても入学直後の異分野の重要性に気づかない時期に,教養課程で少し異分野の科目を選択する程度である.プロフェッショナルとして進路が決まってくる時期には縦割りの弊害で,異分野のことを勉強しにくい環境にあるといえる.筆者は今では,心理学,経済学といった人文社会系の研究者と共同研究をさせてもらっているが,自分が医学部生のときには,医学との接点が想像できずに真面目に授業に出ていなかった.今ではこうした学問を教養課程の比較的時間にゆとりのある時期にもっと勉強しておけばよかったと後悔している.
そうした折に,当時筆者が勤務していた病院の理学療法士,作業療法士の方たちが,筆者が意思決定に関する研究を準備していることを聞きつけ,彼らが学生時代にお世話になった意思決定の研究をされている心理学の先生を紹介してくださり本格的に意思決定の学際的研究を始めることができた.そういった意味では本誌にこのように寄稿させていただくのは感慨深い.
その後,意思決定の研究をさらに深めたいと,あえて医学部のないカリフォルニア工科大学(Caltech)に留学することにした.医師としては,医学部でない研究室に留学することのデメリットもあったかもしれないが,筆者は結果的にはメリットのほうが大きかったと思っている.Caltechの神経科学コースでは,こじんまりしたキャンパスという特徴も生かし,生物学はもちろん,心理学,経済学,哲学,コンピュータサイエンス,工学などの一流の研究者が,脳神経,あるいは究極的には“人間とはなんぞや”という問いに向かって学際的研究を強力に推進している.Caltechの行動経済学,神経経済学の泰斗であるColin Camerer教授が書かれた行動経済学,神経経済学の分野を精神科臨床に応用する可能性を示した総説1)を読んで,Camerer教授と意気投合して,帰国後も共同研究を続けている.
このように筆者は精神科医としての疑問や限界を感じて意思決定の研究を行うために経済学に少し携わった程度なので,行動経済学という本来は経済学のテーマを,教科書のように漏れなく正確に記載していくのは自身の能力を超えている.本稿では,行動経済学ならびにその神経基盤を探求する神経経済学を精神科医の立場で概説したい.
まず,精神科医である筆者がなぜ,このようなテーマの研究に携わるようになったかの経緯を示しておきたい.人間の精神活動は,知・情・意とも呼ばれる.知とは,読み・書き・そろばんのような伝統的にはどちらかというと臨床神経学や神経心理学が扱ってきたテーマである.一方,情(情動・感情)や意(意志,意思決定,意欲,意識)といった主観的体験を扱うのが,主として精神医学といえる.
筆者は狭義の精神疾患のほか,脳外科や神経内科との境界領域である脳損傷,神経変性疾患,てんかんなどの診療に従事し,知,つまり記憶や言語機能には目立った異常が認められないが,なんとなく社会生活がうまくいかず,社会復帰が困難な症例を何例も診てきた.この“なんとなく”をきちんと評価して何が起こっているのか理解して社会復帰につなげられないものかと感じるようになった.
おそらく,このような問題意識は精神科医の筆者だけでなく,精神科ならびに身体的リハビリテーションに携わる多くの職種の方が感じられているのではないであろうか.この“なんとなく”が,まさに情(情動・感情)や意(意志,意思決定,意識)であると考えるようになった.
しかし,情動,意思決定,意識といった主観的な体験を血液検査やX線のように客観的に評価することは困難であり,患者の自己陳述や表層的な行動観察に依存せざるを得ないところがある.これはすなわち,現在の精神疾患の診断基準についても同じことがいえ,精神疾患の診断基準は生物学的な知見に裏打ちされたものではなく,多様な症状の組み合わせの症候群である.例えば,うつ病という診断1つをとっても,さまざまなバックグラウンドやサブタイプが想定される.そのような状況で,遺伝子などの生物学的データと診断(病名)とを対応させようとしても困難が待ち構えているのは予想される.
精神疾患は,その定義上,なんらかの行動異常がある.多かれ少なかれ,精神疾患においてはその異常な行動を選択する1つ前のプロセスに意思決定の障害があると想定される.意思決定とは,複数の選択肢からある選択肢を選ぶプロセスである.レストランで何を食べるか,テレビでどのチャンネルを見るか,週末にどこへ遊びに行くかと決めることは意思決定であり,このように非常に日常的な話題である.そのため多くの学問が意思決定をテーマとして扱ってきた.特に経済学は意思決定のプロセスを客観的,定量的に記述できる理論やツールがあることに,筆者は魅力を感じていた.
欧米では,こうした文理横断的かつ学際的な研究が強力に推進されている.しかし,日本では理系,文系と高校生ごろから進路が分かれ,大学に入っても入学直後の異分野の重要性に気づかない時期に,教養課程で少し異分野の科目を選択する程度である.プロフェッショナルとして進路が決まってくる時期には縦割りの弊害で,異分野のことを勉強しにくい環境にあるといえる.筆者は今では,心理学,経済学といった人文社会系の研究者と共同研究をさせてもらっているが,自分が医学部生のときには,医学との接点が想像できずに真面目に授業に出ていなかった.今ではこうした学問を教養課程の比較的時間にゆとりのある時期にもっと勉強しておけばよかったと後悔している.
そうした折に,当時筆者が勤務していた病院の理学療法士,作業療法士の方たちが,筆者が意思決定に関する研究を準備していることを聞きつけ,彼らが学生時代にお世話になった意思決定の研究をされている心理学の先生を紹介してくださり本格的に意思決定の学際的研究を始めることができた.そういった意味では本誌にこのように寄稿させていただくのは感慨深い.
その後,意思決定の研究をさらに深めたいと,あえて医学部のないカリフォルニア工科大学(Caltech)に留学することにした.医師としては,医学部でない研究室に留学することのデメリットもあったかもしれないが,筆者は結果的にはメリットのほうが大きかったと思っている.Caltechの神経科学コースでは,こじんまりしたキャンパスという特徴も生かし,生物学はもちろん,心理学,経済学,哲学,コンピュータサイエンス,工学などの一流の研究者が,脳神経,あるいは究極的には“人間とはなんぞや”という問いに向かって学際的研究を強力に推進している.Caltechの行動経済学,神経経済学の泰斗であるColin Camerer教授が書かれた行動経済学,神経経済学の分野を精神科臨床に応用する可能性を示した総説1)を読んで,Camerer教授と意気投合して,帰国後も共同研究を続けている.
このように筆者は精神科医としての疑問や限界を感じて意思決定の研究を行うために経済学に少し携わった程度なので,行動経済学という本来は経済学のテーマを,教科書のように漏れなく正確に記載していくのは自身の能力を超えている.本稿では,行動経済学ならびにその神経基盤を探求する神経経済学を精神科医の立場で概説したい.
参考文献
1)Rangel A, et al:A framework for studying the neurobiology of value-based decision making. Nat Rev Neurosci 9:545-556, 2008
2)Tversky A, Kahneman D:Advances in prospect theory:cumulative representation of uncertainty. J Risk Uncertain 5:297-323, 1992
3)Sanfey AG, et al:The neural basis of economic decision-making in the ultimatum game. Science 300:1755-1758, 2003
4)Greene JD, et al:An fMRI investigation of emotional engagement in moral judgment. Science 293:2105-2108, 2001
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