本書『行動経済学で学ぶ感染症』は,診断・治療・感染管理といった医療現場での意思決定に,人間の非合理性や認知バイアスがどのように影響するのかを,やさしくひもとく一冊です。著者は公立陶生病院感染制御部部長の武藤義和氏で,2025年10月に医学書院から刊行されています。
本書の根底にあるのは,「人は必ずしも合理的に行動できず,感情によって判断を誤ることがある」という行動経済学の基本的な考え方です。医療の現場でも,職種を問わず非合理的な行動は繰り返されます。その背景を読み解く鍵として,行動経済学の理論が応用されています。特に,同じ額の利益よりも損失を2~3倍大きく感じる「プロスペクト理論(損失回避)」は,臨床判断に深くかかわると指摘されています。著者は,医療者が行動の背景を理解し,互いの立場を理解しながらより良い医療を届けてほしいと願っています。
第1章「感染症診療編」では,診断や治療に潜む思考の落とし穴が具体的に描かれています。広域抗菌薬を安易に選ぶ行為は「ヒューリスティック」による短絡的思考の典型であり,投与を始めた抗菌薬をやめられず長期化する現象は「サンクコスト効果」や損失回避バイアスの表れと説明されています。その対策として,抗菌薬を開始する時点で「どの条件で中止するか」をあらかじめ決めておく重要性が説かれます。また,CRP値だけに頼って治療方針を決めるのは「確証バイアス」に陥った例であり,検査値にとらわれず患者の経過を自ら観察する姿勢の大切さが強調されています。
第2章「感染管理編」では,チームや組織の行動変容に焦点が当てられます。手指衛生率を上げるために外的報酬を与えると,かえって内発的な動機づけが弱まり,遵守率が下がる「アンダーマイニング効果」が起こり得ます。一方で,努力や行動そのものを認める「エンハンシング効果」をうまく活用することが有効とされています。さらに,抗菌薬届出制が形骸化し目的を見失う「クラウディングアウト」にも注意を促し,目的と手段を見直すことの重要性を学ぶことができます。
本書は「ある日のこと」という身近なエピソードから始まり,理論やエビデンスを紹介し,最後に「刮目せよ」という言葉で教訓を締めくくります。難しい理論を直感的に理解でき,自分自身の行動を振り返るきっかけを与えてくれる構成です。
医療現場での意思決定は患者の命に直結します。本書は,その判断をより良い方向へ導く「ナッジ」の考え方を身につけられる一冊です。医療のアウトカムは「患者の改善」にあるという原点に立ち返り,自らの行動を見つめ直す大切さを教えてくれます。
感染症診療の質を高めたい医療従事者や,組織の行動変容を促したい管理職の方々に,ぜひ手に取っていただきたい良書です。

A5・212頁
2025年10月
定価:4,180円
(本体3,800円+税10%)
[ISBN978-4-260-06249-7]
医学書院刊